「安住の地」奪われた 原発避難千葉訴訟 22日判決 via 東京新聞

 東京電力福島第一原発事故で福島県から千葉県などに避難した十八世帯四十五人が国と東電に計約二十八億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が二十二日、千葉地裁で言い渡される。約三十件ある同種の集団訴訟では三月の前橋地裁に続き二例目。前橋地裁は国と東電の責任を認めており、千葉地裁の判断が注目される。

 焦点となるのが、政府の地震調査研究推進本部が二〇〇二年に出した「福島沖を含む日本海溝沿いでマグニチュード(M)8クラスの津波地震が三十年以内に20%程度の確率で発生する」との長期評価。前橋地裁は、長期評価などに基づけば国や東電は津波を予測でき、事故は防げたと判断した。

 前橋訴訟の原告は、避難生活に伴う慰謝料として一律に千百万円を請求したが、千葉訴訟の原告は、避難生活の慰謝料の他、故郷での生活や仕事、人間関係を奪われた「ふるさと喪失」の慰謝料として、一人二千万円を請求している。 (黒籔香織)

 福島県富岡町から東京都に避難する原発避難者千葉訴訟の原告団代表の遠藤行雄さん(84)は、体調を崩しながらも、練馬区の避難先から片道二時間をかけて毎回のように千葉地裁の審理に参加、四年半に及ぶ訴訟の先頭に立ち続けてきた。「国と東京電力の事故の責任を認める判決であってほしい」と願う。

 訴訟を起こす原動力となったのは原発事故後、東京の原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)で東電側の弁護士から言われた心ない一言だった。「住民票がないのであなた方は避難者じゃない。年金をもらっているんでしょ」

(略)

 遠藤さんは福島県南相馬市の出身。終戦後は大工の見習いとして働き、二十歳で上京。練馬区で、公子さんと二人三脚で二十四年にわたり工務店を営んできた。

 還暦前の一九九二年。「老後の安住の地に」と夫婦で富岡町に移住し、二千二百万円かけてマイホームを建てた。設計図を書き、里山を歩いて木材を買い付けた。孫が遊べるようにと居間にブランコを取り付け、正月には親戚十一人が集まった。

 遠藤さんが一時帰宅できたのは、事故から五カ月後の二〇一一年八月。ついのすみかとなるはずだった自慢の家は窓ガラスが割られ、家電が盗まれたりしていた。畳にはキノコも生えるなど荒れ放題。「全く涙も出なかったよ」

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