長谷川澄(モントリオール在住)
3月12日(土)にモントリオールでは福島の被爆問題を考え、被害者と繋がる会、「絆ジャポン」の主催で、震災5年目の集いがありました。35人ほどの小さな集まりでしたが、半分くらいは日本語話者以外の地元市民で、関心を持ち続けてくれる人がいることを有難く思いました。
福島やチェルノブイリの放射能汚染と健康被害の問題や、オンタリオの原発廃棄物によるヒューロン湖の汚染等に関するドキュメンタリー映画数本を鑑賞した後、東日本大震災後にカナダに移住した人の通訳つきトークがありました。岩手県出身の人で、震災前は宮古で魚介加工、食肉などの食品会社を経営し、そこで作ったものを使う飲食店も県内各地に営業、従業員は100人以上いたそうです。地産地消企業のホープとして、岩手県の新聞やテレビに出たこともありました。
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ここまでだけでも、この人の行動力と前向きの思考に圧倒されて、皆は引き込まれるように話に聞き入ったのですが、その後で度胆を抜かれるような話が続きました。被災地ではレイプが多発し、トラックを使った、被害家屋からの盗難も多かったし、また、指輪を盗むために指を切断された遺体もあったというのです。その人は美しい話に溢れるメディアに疑問を感じ、取材の記者にも、テレビ局にも、そういう話ばかりではないことを伝えたけれど、取り上げられることは一切なかったそうです。この話の後で、私は、やはり東北出身の一人から、自分もレイプがあった話を親や知人から聞いたけれど、被害者から直接聞いた訳ではないので、口外を控えていたと聞きました。あの美しい話の洪水はメディアの演出だったのかと思うと何とも後味の悪い感じが残ります。あのような混乱した状況で、普段は考えられないような酷いことをする人も出るのは、どこの国であってもあり得ることだと思います。しかし、それを一切隠して、美しい話ばかり繰り返したとしたら、それは、余りにもオカシイ。その先にあるのは、日本人は美しい、こんな事態でも酷いことは起きない、秩序ある社会、節度ある国民、他の国とは違うという、偏狭なナショナリズムでしょう。
それはまた、5年経っても、復興など覚束ない原発被災者の話などあるべきではない、聞きたくもないという態度にも通じるかもしれません。先日、「甲状腺癌家族の会」結成の記者会見のビデオを見ました。何の落ち度もない、純然たる被害者家族が顔も声も隠さなければならない社会とは一体何なのだろうと強い疑問を感じました。でも今は、被害者がバッシングされる異常さは、美しい話の洪水とまっすぐ繋がっていると思うようになりました。震災から5年経った今、メディアを徹底的に検証すべきではないかと思います。
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