(核リポート)特別編:爆発なぜ起きた 生き字引が語る via 朝日新聞

◆すべては原爆から始まった:7

今も閉鎖都市として扱われ、秘密のベールに包まれたロシア・南ウラルの核施設マヤークが、この夏、朝日新聞記者の取材に応じた。軍事・民生双方の核を管轄する国営企業ロスアトムの傘下にある。マヤークが海外メディアに対応するのは極めて異例だ。被爆70年の節目に、米ロの原爆生誕地を取材したいとの意向を伝えていた。

(略)

――マヤーク誕生は米国の原爆投下とつながっているのですか。

「マヤーク核施設の建設は、広島・長崎に原爆が落とされた後、すでに1945年の秋にスターリンが決定した。ソ連で最初の核施設だった。非常にタイトな期間で完成させなくてはならなかった」

「注目すべきなのは、建設は全体計画なしに進められたことだ。ただ単に、それはなかった。すべての施設が同時に建設された。原子炉も、放射化学施設(プルトニウム抽出)も、化学冶金(やきん)施設(核弾頭製造)も」

――実際に稼働を始めたのはいつですか。

「48年6月19日に1号炉Aが稼働した。専門家たちはそれをアントゥーシカと愛称で呼んだ。この日がマヤークの誕生日だ」

「48年12月には、照射済みウランからプルトニウムを抽出する放射化学施設が稼働した。プルトニウムは第3の工場、すなわち化学冶金施設で核兵器へと加工された。そして49年8月29日、セミパラチンスク(現カザフスタン)で最初の原爆実験が実施された」

(略)

ログイン前の続き「57年9月29日、放射化学工場で事故が起きた。高レベル放射性廃液を入れたタンクの一つが水蒸気爆発した。廃液をガラス固化体にする技術は80年代まではなかった。それまではハンフォードと同様、放射性廃棄物は地下タンクに保管していた。施設には20のタンクがあり、それぞれに冷却装置があった」

「当時の知識では、タンクの中にあるのはウランやプルトニウムそ のものではないので危なくないと考えられていた。最初は、液体の温度や水位をコントロールするシステムが故障した。それでタンクの一つが冷却できなくなっ た。放射性廃液は沸騰し、水分が蒸発した。廃棄物は乾燥して硝酸化合物になった。これらは340~350度で発火し、爆発する。実際、タンクの一つは爆発 し、上に載っていた200トンのコンクリート防護板が数十メートル吹き飛んだ。核種はセリウム144、ストロンチウム90、ジルコニウム95で、セシウム137は少しだった」

――爆発はどんな被害をもたらしましたか。

「爆発の結果、地上1キロの高さまで雲が上がり、北東の方角に広がった。その痕跡は、幅8~9キロ、長さ110キロに及ぶ。ただし、爆発による犠牲者は一人もいなかった。リクビダートル(事故処理作業者)も住民も、誰一人として慢性放射線病にはならなかった」

「しかし、2000万キュリーもの放射能による環境汚染をもたらした。敷地には五つの原子炉があり、一連の貯蔵施設がある。他の19のタンクの冷却も維持しなければならなかった。そうでないと事故は20倍深刻になっていただろう」

(略)

――67年にも、放射性廃液をためていたカラチャイ湖で事故がありました。

「テチャ川への放出がもうできないと分かった51年、中レベルの放射性廃液をカラチャイと呼ばれる沼に流そうと考え始めた。高レベル放射性廃液にはタンクがあったが、中レベルの廃液の量ははるかに多く、タンクが足りなかったからだった」

「カラチャイ湖には潜在的な危険性があった。風が放射性物質をまき散らすことと地下水汚染だ。67年は冬の降雪が少なく、春の到来が早かった。雪解けの水が流入せず、水位が低くなった。5ヘクタールに及ぶ底の汚染堆積(たいせき)物がむき出しになり、それに強風が重なった」

――マヤークにはまだ放射性廃液は残っていますか。

「80年代までの国防計画を遂行することで生じた高レベル放射性廃液については、今もまだガラス固化体にしきれていない。ガラス固化のための新しい炉を今年中に完成させ、来年稼働させる予定だ」

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