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(核の神話:13)従順な「原子力ムラ」なぜ生まれたかvia 朝日新聞

米メリーランド大教授、ケイト・ブラウンさん  昨年11月、ワシントンで開かれた米政府主催の「マンハッタン計画国立歴史公園」の専門家フォーラムに招かれました。米国人専門家ら約20人のほか、広島・長崎両市の代表も参加し、新たな国立歴史公園の展示内容などについて、内務省国立公園局やエネルギー省に意見を述べるものでした。  国立公園局は広島・長崎への原爆投下という「米国のタブー」にも踏み込もうとしているようですが、エネルギー省には軍や原子力産業の影がちらつきます。今回、国立公園に指定されたハンフォードなどマンハッタン計画の関連3施設を所有するエネルギー省としては「短期間で原爆を開発して第2次世界大戦を終わらせ、多くの米国人の命を救った」という栄光の歴史を後世に伝えたい。その後の放射能汚染という数十年にわたる「負の歴史」は省略したいというのが本音でしょう。  歴史を振り返ると、1930年代から40年代前半、マンハッタン計画が始まるころの米国の工場労働者らはストや暴動、飲酒、けんかが絶えませんでした。ハンフォードのプルトニウム生産を請け負ったデュポン社は、労働者の管理に非常に神経を使いました。原爆開発は秘密の国家プロジェクトです。その材料となるプルトニウムの生産にあたる工場労働者は、精神的に不安定な独身男性ではなく、妻と子どもがいる白人の核家族の男性がふさわしい、という結論に至りました。彼らは会社の方針に従順で、家族の生活を会社の給料に依存する。ハンフォード施設の労働者が暮らすリッチランドでは、国費で子育て支援や学校、商店、交通機関を充実させました。 […] さらに、ハンフォードとマヤ-クの現場を見て、奇妙な共通点が数多くあることにも気づきました。プルトニウム生産を加速するために放射性ヨウ素を詰め込んだ「グリーン燃料」を米国が製造すれば、ソ連も同じことをする。米国が放射性廃棄物を土の中や川へ捨てているなら、ソ連もそうする。お互いににらみあい、まねしていたのです。  旧ソ連と違って報道の自由がある米国では、1950年代に急転換がありました。戦後、マンハッタン計画を引き継いだ原子力委員会は放射線被曝(ひばく)そのものよりも、民衆のヒステリーにさらされることの方を恐れるようになったのです。米国が水爆実験をした太平洋ビキニ環礁での第五福竜丸などの被曝(ひばく)事件が大きなきっかけでした。米国内でもネバダ核実験場からの放射性降下物に対する拒否反応が広がり、公衆衛生の対応から世論対策に重心が移りました。核開発を進めたい米国主導で国際放射線防護委員会(ICRP)が設立され、被曝の「許容線量」の考え方が導入された。世界的かつ長期的な広報戦略が今日に至るまで続いています。  当時、原子力発電の技術開発でソ連に後れをとっていた米国は、日本に原子炉を輸出することにしました。広報戦略の一環です。ソ連は、米国の原子炉を「マーシャルアトム」(軍事用の核)だと言ってばかにしていました。米政府はこれを恥じ、アイゼンハワー大統領が「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」を唱え、原爆被爆地の広島にあえて原子炉を置こうとしたのです。ビキニ事件を受けた日本の反核運動の盛り上がりもあって「広島原発」は実現しませんでしたが、ともあれ、米国製の原子炉が日本に設置されました。それは、原子力潜水艦用に開発された軍事用の原子炉を転用し、民生用の原子炉としては安全性が十分確認されたものではありませんでした。しかし、改良に余分なコストや時間をかけたくなかった。米国は非常に危険でやっかいなものだと知りつつ、ソ連をにらむ西側陣営の日本に輸出した。日本にはエネルギー資源がなく、米国に支配された国だったからこそ実現したのでしょう。 […] 90年代になると、ハンフォードの風下住民や農民らの健康被害があらわになり、放射線の影響が疑われましたが、工場労働者の多くは気に留めませんでした。70年代に原子力委員会を引き継いだエネルギー省や原子力産業によって「低線量の放射線は心配ない」という言説が米国社会に振りまかれていたからです。それは、たばこ産業が自前の研究結果を示して「喫煙は人体に無害だ」というのと同じような広報戦略です。  それは4段階あります。まずは、自然化。「放射線は太陽のようなものです。元々自然界に存在するものですよ。だから、大丈夫なのです」と。さらに、ハンフォード施設沿いの川を自然保護区に指定して、野鳥が集まる美しい公園として売り出そうとしている。これは、「自然化」の広報戦略の一環です。実際には米国各地の核開発によって、人間の健康だけでなく、環境汚染や生態系への負の影響をもたらしてきたことを隠すものです。  次に、対抗研究。「子どもの甲状腺に腫瘍(しゅよう)が出来るのは放射性物質が原因だろう」という研究が発表されると、別の学者を買収して「まだわからない、証拠がない」と言わせる。第3に、健康被害を訴える人々自身のせいにする。「放射線を恐れすぎです。食生活やアルコールの方があなたの健康にとっては問題ですよ」と。最後に、答えの出ない「先端研究」に投資して結論を引き伸ばす。米国のある大学には、多額の国家予算を投じて、刑務所の囚人男性に放射線を照射して精子への影響を調べる研究を12年間もやらせました。結果、放射線の人体への影響は「わからない」という。ハンフォード施設からの放射線で環境や牛は汚染されているけれども、人体との因果関係はわからないというのです。 […] 米国は戦後設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)を通じて広島・長崎の被爆者のデータを日本側から吸い上げました。なぜでしょうか。米機密文書には、こういう記載がありました。「我々はこの研究を(日本から)乗っ取る必要がある。さもなければ、ピンクや赤の連中に(被爆者の健康調査データを)握られて、ひどいことになる」。広島・長崎への原爆投下の正当性について米政府は敵対するソ連であれ、共産主義者であれ、攻撃材料を与えたくなかったのでしょう。  一方、お膝元のハンフォードでも、風下住民らが30年近くも法廷闘争をしています。病気にかかった人たちが30年ですよ。米政府は弁護側、つまり請負企業の弁護にカネを払って、できるだけ裁判の引き延ばしにかかっています。これまでに企業の弁護のために多額の国税が費やされました。一方、原告の風下住民らは自分で弁護士を雇わなくてはならず、長期戦に持ちこたえられません。結果、企業側は、何ら罪を認めることなく、法廷の外で示談に持ち込むのです。 私は元々、旧ソ連の歴史研究者です。ソ連と日本は違うはずだ、日本の科学技術や組織管理は信頼できるはずだ、と思っていました。しかし、東京電力や日本政府の対応を見ていると、ある意味、ソ連よりひどいと思います。「アンダーコントロール」だとウソをついて、避難住民らの福島への帰還政策を進めている。広報戦略によって放射線の危険性を見えなくしている。住民らがそれに従わざるをえないように追い込まれているのが、まさに国策依存の「プルトピア症候群」です。 […] もっと読む。

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(核リポート)特別編:爆発なぜ起きた 生き字引が語る via 朝日新聞

◆すべては原爆から始まった:7 今も閉鎖都市として扱われ、秘密のベールに包まれたロシア・南ウラルの核施設マヤークが、この夏、朝日新聞記者の取材に応じた。軍事・民生双方の核を管轄する国営企業ロスアトムの傘下にある。マヤークが海外メディアに対応するのは極めて異例だ。被爆70年の節目に、米ロの原爆生誕地を取材したいとの意向を伝えていた。 (略) ――マヤーク誕生は米国の原爆投下とつながっているのですか。 「マヤーク核施設の建設は、広島・長崎に原爆が落とされた後、すでに1945年の秋にスターリンが決定した。ソ連で最初の核施設だった。非常にタイトな期間で完成させなくてはならなかった」 「注目すべきなのは、建設は全体計画なしに進められたことだ。ただ単に、それはなかった。すべての施設が同時に建設された。原子炉も、放射化学施設(プルトニウム抽出)も、化学冶金(やきん)施設(核弾頭製造)も」 ――実際に稼働を始めたのはいつですか。 「48年6月19日に1号炉Aが稼働した。専門家たちはそれをアントゥーシカと愛称で呼んだ。この日がマヤークの誕生日だ」 「48年12月には、照射済みウランからプルトニウムを抽出する放射化学施設が稼働した。プルトニウムは第3の工場、すなわち化学冶金施設で核兵器へと加工された。そして49年8月29日、セミパラチンスク(現カザフスタン)で最初の原爆実験が実施された」 (略) 「57年9月29日、放射化学工場で事故が起きた。高レベル放射性廃液を入れたタンクの一つが水蒸気爆発した。廃液をガラス固化体にする技術は80年代まではなかった。それまではハンフォードと同様、放射性廃棄物は地下タンクに保管していた。施設には20のタンクがあり、それぞれに冷却装置があった」 「当時の知識では、タンクの中にあるのはウランやプルトニウムそ のものではないので危なくないと考えられていた。最初は、液体の温度や水位をコントロールするシステムが故障した。それでタンクの一つが冷却できなくなっ た。放射性廃液は沸騰し、水分が蒸発した。廃棄物は乾燥して硝酸化合物になった。これらは340~350度で発火し、爆発する。実際、タンクの一つは爆発 し、上に載っていた200トンのコンクリート防護板が数十メートル吹き飛んだ。核種はセリウム144、ストロンチウム90、ジルコニウム95で、セシウム137は少しだった」 ――爆発はどんな被害をもたらしましたか。 「爆発の結果、地上1キロの高さまで雲が上がり、北東の方角に広がった。その痕跡は、幅8~9キロ、長さ110キロに及ぶ。ただし、爆発による犠牲者は一人もいなかった。リクビダートル(事故処理作業者)も住民も、誰一人として慢性放射線病にはならなかった」 「しかし、2000万キュリーもの放射能による環境汚染をもたらした。敷地には五つの原子炉があり、一連の貯蔵施設がある。他の19のタンクの冷却も維持しなければならなかった。そうでないと事故は20倍深刻になっていただろう」 (略) ――67年にも、放射性廃液をためていたカラチャイ湖で事故がありました。 「テチャ川への放出がもうできないと分かった51年、中レベルの放射性廃液をカラチャイと呼ばれる沼に流そうと考え始めた。高レベル放射性廃液にはタンクがあったが、中レベルの廃液の量ははるかに多く、タンクが足りなかったからだった」 「カラチャイ湖には潜在的な危険性があった。風が放射性物質をまき散らすことと地下水汚染だ。67年は冬の降雪が少なく、春の到来が早かった。雪解けの水が流入せず、水位が低くなった。5ヘクタールに及ぶ底の汚染堆積(たいせき)物がむき出しになり、それに強風が重なった」 ――マヤークにはまだ放射性廃液は残っていますか。 「80年代までの国防計画を遂行することで生じた高レベル放射性廃液については、今もまだガラス固化体にしきれていない。ガラス固化のための新しい炉を今年中に完成させ、来年稼働させる予定だ」 全文は(核リポート)特別編:爆発なぜ起きた 生き字引が語る

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(核リポート)特別編:「福島と似ている」強制移住の村 via 朝日新聞

◆すべては原爆から始まった:5 ロシア・ウラル山脈の南に広がるチェリャビンスク州は湖に恵まれた土地だ。ソ連の第1号原爆を生んだ核施設マヤークがここに建てられた大きな理由の一つは、原子炉の冷却に欠かせない豊富な水だった。マヤークの高レベル放射性廃液に汚されたテチャ川から離れると、果てしない緑の草原と、天空の青を映した湖面の輝きに目を奪われる。 (略) ■ヒバクシャとして生きる 最後に強制移住の対象となったムスリュモボ村出身のヒバクシャ、ゴスマン・カビーロフさん(58)とミーリャ・カビーロワさん(56)夫妻は今、 チェリャビンスク市内に住んでいる。ロシアでは多くの人が週末になるとダーチャ(別荘)で暮らす。2人のダーチャは、今の住居と「消えた」故郷ムスリュモ ボ村との間の、湖に面した小さな村に買った。湖は、まるで自分の庭のようだ。 (略) ゴスマンさんはテチャ川周辺で慢性放射線病と認定された約940人の一人。生殖細胞が 影響を受け、子どもができなかったという。ムスリュモボ村で生まれ育ったゴスマン夫妻は、月にそれぞれ2500ルーブル(約6250円)の補償金を国から 受けている。村にあったミーリャさんの実家が2007年に強制移転のため壊された後には、移転補償金の100万ルーブル(約250万円)を受け取った。た だ、いずれも行政側との厳しい交渉の末にやっと手に入れたという。 ■無人の土地、生んだ悲劇 今はホテルの事務職として働くミーリャさんはかつて、女性社会グループ「アイグリ」の代表を務めた。「アイグリ」とはテュルク語で「月の花」を意 味する。多くの住民に核の問題を知ってもらうため、「難しいことを分かりやすく」というタイトルのチラシを発行し、低線量被曝(ひばく)の知識や、放射線 のリスクを減らすための情報を提供してきた。 2014年8月、ミーリャさんは広島で開かれた原水協の原水爆禁止世界大会に招かれている。原爆投下の被爆者ではなく、原爆製造段階のヒバクシャとしてだ。そして、「女性のつどい」で壇上からこう連帯を呼びかけた。「放射線に国境はありません。広島、長崎、チェルノブイリ、福島を二度と繰り返さないために、団結してたたかいましょう」 ゴスマンさんとミーリャさんの小さなダーチャで、お茶を頂きながら話していると、「日本は憲法9条を無くしてはいけない。誰にとっても戦争は必要ないから」といった話題も出た。しかし、2人が最も関心を寄せていたのは、東京電力福島第一原発事故を経験した福島のその後だった。 「ここでは、みんな福島のことを知っています。福島と、ここで私たちが強制移住させられたことは非常に似ています。福島は私たちすべてを揺さぶりました」 2人の故郷は、原爆の製造が原因で「消えた村」となった。原発事故が原因で我が家を追われたのが福島の被災地だ。原爆と原発。由来は違っても、放射能が人を追い払い、無人のエリアを生んだ結末は同じだ。 (略) 歴史に「if」(もしも)はないかもしれないが、ゴスマン夫妻が語った次の言葉は否定できないように思えた。 《原子爆弾から「原子力の平和利用」、すなわち原子力発電が始まった。原爆がなければ、原発もなかった》 全文は(核リポート)特別編:「福島と似ている」強制移住の村

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