◇No.1337
福島第一原発の事故直後に琉球大理学部研究チームは、ヤマトシジミを採集するため福島などに飛んだ。
まだ事故から間もない時期の調査だった。それだけに、行くことをためらったメンバーもいる。
平良渉(たいらわたる)(27)も、そのひとりだ。
放射能について詳しいわけではない。混乱は続いていたし、沖縄にいて、現地がどうなっているのかも、よく分からなかった。
だが仲間がチョウを採集してきた段階から積極的にかかわっていく。
2012年8月、チームは最初の調査結果を、オンラインの英国の科学誌で公表した。この日本語訳を付けて、研究室のホームページで誰もが読めるようにしたのが平良だ。
これに対してネット上には様々な批判や意見が流れた。
「サンプル数が足りない」
「事故前のデータがない」
原発周辺で採ったチョウの形や色を、他地域のチョウと比べて違いがあるといっても、そもそも福島のチョウは、原発事故以前から、形や色が異なっていたのではないか……。
もっともな指摘だ。足りない点をどう補うか。より多くの地域のヤマトシジミを見てみよう。事故前のチョウとも比べたい。外部の協力も求めることにした。
知恵をしぼったのが平良だ。
中学時代にクロアゲハや珍しいガを育てていた。以来、沖縄昆虫同好会を毎月のぞいている。メーリングリストやメルマガなどを使って、全国のチョウ好きに呼びかけた。
「全国のヤマトシジミを集めています。お住まいの近くで採って送ってもらえないでしょうか」
[…]
さらに、調べていると「福島県の蝶(ちょう)」という本をみつける。著者の角田伊一(つのだいいち)(79)は福島県三島町に住んでいる人だった。
12年11月、平良は他の院生たちと自ら福島まで訪ねていった。
角田は半世紀にわたり、福島県内で1万を超すチョウの標本をとっていた。
「こんな古いものが役に立つとは」
そういって6匹のヤマトシジミを差し出してくれた。
どこにでも飛んでいるチョウだけに、とくに集める気もなかったが、たまたま6匹持っていたという。
研究室とは無縁だった人たちを巻き込みながら調査はつづけられていく。(中山由美)
(プロメテウスの罠)チョウを追う:12 私もできることを
◇No.1338琉球大の調査には、研究室の外の人もかかわっていった。
「あの混乱の中で、こんなことを調べていた人がいたんだ」
2012年夏。
福島県南相馬市に住む吉田邦博(よしだくにひろ)(54)はネットで見つけた琉球大の調査報告に驚いた。
震災直後に福島県などで採集したヤマトシジミについて記していた。
わざわざ沖縄から福島まで足を運んでいたことに素朴に感動した。
吉田自身は大震災を広野町の工場で迎える。重機で車を解体していたとき、激しい揺れに襲われ、必死に手すりにしがみついた。
元々は住宅建設の仕事をしていたが、原発で作業したこともある。
揺れが収まってしばらくして、福島第一原発で働いている元の仕事仲間から電話が入った。
「原発の配管が壊れて水が噴き出している。早く逃げろ」
友人、知人に電話しまくった。
「避難した方がいい」
別れた妻子のいる南相馬市に急いだ。内陸側に大回りして北上。翌日未明にたどり着いた。だが、逃げるようにいっても、聞く耳持たずで取り合ってくれない。
「原発が危ない」。近所の人に伝えても、いぶかられるだけ。
結局、元妻が避難したのは12日に1号機で爆発が起きてからだった。
速く正しい情報を得る大切さ、判断する力の必要性を痛感。吉田は6月、「安心安全プロジェクト」を立ち上げた。放射能の汚染状況を調べたり、除染に取り組んだりする。[…]
研究チームの面々は抱いていた研究者の堅いイメージと違っていた。チョウの幼虫に与えるカタバミを採りに福島に行くのも自腹という。「私にできることがあったら言って下さい」。思わず申し出ていた。
しばらくすると琉球大から電話がかかり手伝いを頼まれた。
再び沖縄に飛んだ。10月末から1カ月ほど研究室に詰め、羽のサイズなどを測った。
建設の仕事とは全く異なる作業。羽も、触角も、そっと触れないと、ばらばらになる。集中力がいる。
それでも千を超えるチョウを測った。幼虫の記録をとったり、カタバミの葉を乾燥させて砕いたり。
朝から、遅いと夜10時ごろまで研究室にこもった。
[つづく」
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