「唯一の被爆国民」じゃなかった日本人! 8.6から3.11を見通す核の戦後史 via J-Cast

  • 書名被爆者はなぜ待てないか
  • サブタイトル核/原子力の戦後史
  • 監修・編集・著者名奥田 博子 著
  • 出版社名慶應義塾大学出版会
  • 出版年月日2015年6月30日[…]

地に足のついた研究姿勢がにじむ

 奥田さんは、関東学院大学人間環境学部の准教授。内外の膨大な資料や証言集、写真集に目を通し、ジグソーパズルを埋めるように戦後の史実を積み重ねていくパワーに驚かされる。参考文献の列記だけで実に15ページ。この真摯さはどこから生まれるのだろう。プロローグに「個人的な原点」が記されていた。

 「年に一度しか会えない祖父母と過ごしたとても懐かしい『夏休みの思い出』の一コマ一コマから構成される、私のなかにしかない広島がある」。幼い頃の心象風景、聞かされた戦争の昔話が、原爆の記憶を探求するにつれて「歴史」に結びついていったという。地に足のついた研究姿勢がにじむ。

 被爆65年に刊行した前著『原爆の記憶 ヒロシマ/ナガサキの思想』(同)では、政府が語る「唯一の被爆国民」という言葉にこだわる。日本の戦争被害者意識を正当化し、「敗戦国としての清算」より「戦後の経済成長」に力を向けるために創られた神話に過ぎない、と指摘した。事実、広島と長崎で被爆した人々の国籍は21カ国に及び、原爆の製造、開発、実験に動員された労働者、兵士や周辺住民らもまた被爆者だという。

なぜ、「放射能汚染加害国」に劣化したのか

 被爆70年に刊行された本書は、前著の刊行翌年に起きた東京電力福島第一原発事故を強く意識する。「原子力の安全神話」が崩れ、日本に再び被曝者が生み出された。しかも、その責任の所在は大戦の時と同じように不明確なままだ。「『唯一の被爆国』日本は、なぜ、『放射能汚染加害国』に劣化したのか」。この問題意識が全体を貫いている。

 その契機の一つとして、著者は、1954年のビキニ水爆実験で被爆した漁船をめぐる日米交渉を挙げる。被爆した船は、実際は800隻以上、被爆者は2万人以上とみられるが、日米政府は第5福竜丸1隻、その乗組員23人に対する見舞金支払で政治決着した。背景として、日本政府がこの事件を「アメリカから核燃料と原子力技術を導入する取引材料にしようとしていた」点を指摘する。その後、日本は東西冷戦の中で、アメリカの「核の傘」に依存した平和と、アメリカの「原子力産業」に依存した繁栄を享受する道を進んできた、と分析している。

 一方、ビキニ水爆被災事件で注目された「死の灰」を機に原水爆禁止運動が広がるが、内部の路線対立で3つに分裂してしまう経緯や、米英ソが1963年、地下を除く「部分的核実験禁止条約」に調印したことで世界規模の反核平和運動は力を失い、日本では「原子力の平和利用」というアメリカのスローガンが力を得ていく経緯を詳述していく。

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