Tag Archives: ビキニ

Testimonies of Japanese fishermen affected by nuclear testing in the Pacific via Manhattan Project for a Nuclear-Free World

From March to May 1954, the U.S. conducted six hydrogen bomb tests in the Marshall Islands. In total, 67 atmospheric nuclear tests were conducted there. It is estimated that more than 10,000 Japanese fishermen and 990 fishing boats were affected … Continue reading

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A Message from Ms. Setsuko Shimomoto下本節子さん証言via Manhattan Project for a Nuclear-Free World

A Message from Ms. Setsuko Shimomoto Ms. Setsuko Shimomoto is originally from Muroto, a fishing village in Kochi, Japan. In the 1950s, Setsuko’s father was a fisherman who was exposed to the radioactive fallout from the nuclear testing near the … Continue reading

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「人生を懸けてビキニ事件語った」 元乗組員、大石又七さん死去 via 毎日新聞 (goo ニュース)

[…] 第五福竜丸展示館の学芸員、市田真理さん(53)は「人生を懸けてビキニ事件を語っていた」と振り返る。最後に会ったのは2019年12月。学生を連れて行くと、「話したいことがたくさんある」と言ったという。その後は新型コロナウイルスの感染拡大で面会がかなわず、「もう一度、一緒に講演する約束だったので、信じられない。命懸けで伝えようとしたことを受け継いでいかなければ」と声を詰まらせた。  平和研究が専門の竹峰誠一郎・明星大教授(44)は「(差別や偏見から)第五福竜丸の船員の多くが沈黙せざるを得ないなか、大石さんは証言した先駆者。大石さんの存在なくしてビキニ事件の深さや背景は語れない」と功績を語った。大石さんと一緒にマーシャル諸島を訪ねており、「マグロやカツオの知識が豊富で、船に乗った時は輝いていた。被害を受けなければ太平洋の海と生きた人なのだろう。優しい人だったが、証言には悔しさや怒りがあった」と思いをはせた。  高知県でビキニ事件の被災者支援を続ける市民団体「太平洋核被災支援センター」事務局長の山下正寿さん(76)=高知県宿毛市=は「自らの体験を積極的に発信し、強い信念で活動していた」と話す。山下さんは高校教諭だった1988年、高校生と被災調査を進めるなかで大石さんと知り合った。大石さんが生徒らを見つめ、「事件は隠してはいけない。事実を素直に受け止め、調査を頑張ってほしい」と強く訴える姿を今も覚えている。ビキニ事件をテーマにした講演会でも何度か顔を合わせたといい、「核被害の問題に広く関心を持ち、廃絶を訴えた人を失ってしまった」と惜しんだ。【椋田佳代、松原由佳】 全文

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第五福竜丸の元乗組員・大石又七さん死去 87歳 via 朝日新聞

1954年に米国が太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で行った水爆実験で被曝(ひばく)した静岡のマグロ漁船「第五福竜丸」の元乗組員で、核廃絶を訴える活動を続けていた大石又七(おおいし・またしち)さんが7日に亡くなった。公益財団法人第五福竜丸平和協会が発表した。死因は誤嚥(ごえん)性肺炎で87歳だった。葬儀は近親者で行った。  34年1月、静岡県吉田町生まれ。第五福竜丸で冷凍士を務めた。水爆実験では福竜丸に乗っていた23人の乗組員全員が被曝。半年後に無線長が死亡し、大石さんも1年2カ月の入院で脱毛や白血球の減少に苦しんだ。  退院後は「放射能がうつる」と言われたり、慰謝料が支払われたこともねたみの対象になったりした経験も。故郷の静岡から逃げるように上京し、被曝者であることを隠し通していた。  だが、83年に東京都町田市の和光中学校の生徒に証言を頼まれたのを機に、全国で講演を行うようになった。マーシャル諸島や米国でも証言し、その回数は700回を超えた。原動力になったのは、かつての仲間が若くして亡くなっていくことへのやりきれなさだった。大石さんは自身もわが子の死産を経験し、「訴え続けなければビキニ事件はやがて消えてしまう」と語っていた。  福竜丸を知ってほしいと、模型船を作って広島平和記念資料館(広島市)や長崎原爆資料館(長崎市)に寄贈した。「マグロ塚」と刻んだ石碑を東京・築地に設置する活動にも熱心だった。福竜丸がとったマグロは築地の魚市場に出荷されたが市場の検査で放射能が検出され、大騒ぎに。54年当時は福竜丸以外にも延べ約1千隻の漁船から放射能が検知された魚が見つかり、魚は捨てられた。「忘れられている放射能の恐ろしさを後世に伝えたい」と考え、東京都に要望していた。  肝臓がんなどを患い、2012年には脳出血で倒れた。右半身が不自由となったがリハビリを続け、最後は車椅子で講演活動を続けた。亡くなる2~3週間前には「まだまだ言いたいことや伝えたいことがある」と言っていたという。(西村奈緒美) 原文

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教科書に載ってない「ビキニ」 29歳監督が撮った男たちの苦悩 via 毎日新聞

松原由佳 ナレーションも、字幕も、BGMもない。隣に住んでいるようなおじいちゃん、おばあちゃんが淡々と言葉をつないでいく――。1954年に米国が太平洋・ビキニ環礁付近で水爆実験を繰り返し、島民や漁船の乗組員が被ばくした「ビキニ事件」の異色のドキュメンタリー映画が完成した。監督し、自らカメラを回したのは、埼玉から高知に移り住んだ29歳の青年だ。事件から3月で67年。70分間の映像には、歴史の教科書に載っていない、高知の元船員や遺族の知られざる苦悩が記録されている。  タイトルのバックに流れる波の音が、見る者を大海原へといざなう。「放射線含んどるから魚を廃棄せないかん。それ聞いただけで、ほんまに泣きましたね」「知らんもんやけん、降ったものが付いた体を洗うてね。それが後に死の灰じゃゆうてね」。黄ばんだ船員手帳をめくりながら、あるいは真っすぐ前を見つめながら、海とともに生きてきた男たちがあの日に思いを巡らせる。 ビキニ事件では、被ばくした静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の無線長、久保山愛吉さん(当時40歳)が半年後に死亡し、全国に衝撃を与えた。しかし、延べ約1000隻の日本漁船が被害に遭い、放射能で汚染した約500トンの魚を廃棄させられたことはあまり知られていない。そのうち延べ約270隻は高知県籍の船だった。帰港後に船などの放射能検査を受けたが、船員の多くは補償も受けられずに放置された。 埼玉から高知へ移住  映画を撮った甫木元(ほきもと)空さん(29)は埼玉県越生町出身。多摩美術大の映像演劇学科に在籍していた頃から、身の回りの問題をテーマにしたドキュメンタリー映画などを作ってきた。数年前、祖父の家があり、幼い頃から身近な存在だった高知県で映画を撮ろうと四万十町に移住した。 それまでビキニ事件について知っていたのは「第五福竜丸が被ばくしたことくらい」。しかし、元高校教諭で市民団体「太平洋核被災支援センター」事務局長の山下正寿さん(76)=高知県宿毛市=に出会って刺激を受けた。山下さんは85年から高校生と一緒に県内の元船員や遺族への聞き取りを重ね、国家賠償を求める訴訟などの支援をしてきた。事件当時のことを語れる人はもう少ない。「自分も歴史に向き合い、証言を残さなければ」と映画製作を決意した。  2020年夏から秋にかけ、動画が撮れる一眼レフカメラを手に元船員や遺族を訪ね歩いた。元船員の多くは80代や90代。一度の訪問が長時間にならないように気遣った。インタビューで心がけたのは、家族との思い出や船を下りてからの生活など、自分史を語ってもらうこと。それでも、誰もが「まるで記憶に付箋がつけられているように」事件のことを話し始めた。放射能検査で機器の針が振り切れたこと、被ばくを他言しないよう家族に言われたこと、原因が分からないのに歯が抜け、がんが次々と見つかったこと……。10人以上の証言を記録した映像は40時間に上った。 ナレーション、BGM入れず (略) ビキニ事件に興味がない人に先入観を持たずに見てもらうため、タイトルは「その次の季節 高知県被曝(ひばく)者の肖像、遠洋漁業の記憶2020」にした。「その次の季節」は、自分も含めた次の世代がどう体験を受け継いでいくかが重要だ、との思いを込め、高知出身の詩人、大崎二郎の作品から取った。  映画は20年12月に県内でお披露目された。作品の中で亡き父のことを語った下本節子さん(70)は「空さんには平常心でゆっくり話せた。映画に出てくる他の元船員の言葉からも家族への思いが伝わってきた」と言う。来場者へのアンケートでは「被ばくした人数を聞くのと、一人一人から証言を聞くのとでは重みが違うと実感した」との声も寄せられた。3月に県内で開かれるビキニ事件に関するイベントでも上映される予定で、甫木元さんは今後、全国各地での上映を目指す。問い合わせは甫木元さんのメール(emptyspace.emptymovie@gmail.com)。【松原由佳】 全文は教科書に載ってない「ビキニ」 29歳監督が撮った男たちの苦悩

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1954ビキニ 被ばく漁船員の人生 岡村啓佐さんが写真集 過ち、繰り返させないvia西日本新聞

 1954年、米国が太平洋・ビキニ環礁で行った一連の水爆実験で、マグロ漁船員らが被ばくした。その当事者や遺族を撮った写真集「NO NUKES ビキニの海は忘れない」が9月、日本自費出版文化賞の大賞を受賞。高知市の平和資料館副館長、岡村啓佐(けいすけ)さん(68)が、国から健康調査すらされず高齢になった証言者たちの表情を切り取った。日本や核保有国が核兵器禁止条約への批准に足踏みする中、顧みられなかった被害の実相を突き付ける。  収録したのは、水爆実験の周辺海域で操業していた高知、東京、神奈川、静岡在住の元漁船員や遺族ら50人。遺族は、乗組員時代の父や夫の遺影を手にレンズを見詰める。   〈食べるものを海水で洗い、汚染された魚を何も知らずに食べた。みんな放射能にやられて、帰ってきてから玄関で血を吐いて亡くなったとか、バタバタと若い仲間が亡くなっていった〉  〈結婚を約束し、出航時に見送ってくれた彼女はこの間一度も顔を見せることがなかった。(中略)差別の目に耐え切れず京都に逃げた〉 […] ビキニ水爆実験で、日本政府は第五福竜丸以外の被ばくした漁船の乗組員たちの健康調査や治療をせず、54年12月にマグロの検査と廃棄処分を打ち切った。翌月、日米両政府は米国が200万ドルの見舞金を支払うことで政治決着。しかし日本政府は2014年、それまで「ない」と説明していた調査資料の一部を開示した。それを機に、周辺海域で操業していた同県内の元漁船員や遺族は16年「資料を故意に隠し、被災船員への健康調査や治療、救済をせず、生命や生活に深刻な損害を与えた」として国を相手取り提訴した。  核実験の被害を記録しようと岡村さんら原告支援者は17年、元漁船員と遺族の証言集を発行した。その中で岡村さんは「被ばく者たちの息づかいと人生を、写真で表現したい」と今回の写真集の制作を決意する。  つてを頼りにたどり着いた元漁船員の妻は「国が被ばくを隠さず早く検査していれば、夫を助けられたかもしれない…」と悔やんだ。夫は1976年に肝硬変と診断され、翌年にがんで死亡。40代だった。園児だった次男に、父親との思い出はない。被ばくとの因果関係は分からず、女性は「酒の飲ませ過ぎよ」という周囲の非難にも耐えた。岡村さんは「核がもたらした被害が闇に葬られたままでは、人の命をないがしろにする愚かな過ちが繰り返される」と確信した。  ビキニ事件の国賠訴訟の一審判決は原告の請求を退けたものの、元乗組員らの被ばくの事実を認定した。訴訟は高裁で係争中で、12月に判決が出る見通しだ。  レンズで捉えた被ばく者は全員80歳を超える。写真集の制作を始めた昨年1月以降、少なくとも5人が他界した。岡村さんは彼らに残された時間と闘いながら「NO NUKES(核は要らない)」と訴える。世界中の人に見てもらうため、学生ボランティアらの力を借り英訳も併記した。2200円。購入は平和資料館・草の家=088(875)1275。  (国崎万智) 全文

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1954ビキニ 被ばく漁船員の人生 岡村啓佐さんが写真集 過ち、繰り返させない via 西日本新聞

1954年、米国が太平洋・ビキニ環礁で行った一連の水爆実験で、マグロ漁船員らが被ばくした。その当事者や遺族を撮った写真集「NO NUKES ビキニの海は忘れない」が9月、日本自費出版文化賞の大賞を受賞。高知市の平和資料館副館長、岡村啓佐(けいすけ)さん(68)が、国から健康調査すらされず高齢になった証言者たちの表情を切り取った。日本や核保有国が核兵器禁止条約への批准に足踏みする中、顧みられなかった被害の実相を突き付ける。 収録したのは、水爆実験の周辺海域で操業していた高知、東京、神奈川、静岡在住の元漁船員や遺族ら50人。遺族は、乗組員時代の父や夫の遺影を手にレンズを見詰める。  〈食べるものを海水で洗い、汚染された魚を何も知らずに食べた。みんな放射能にやられて、帰ってきてから玄関で血を吐いて亡くなったとか、バタバタと若い仲間が亡くなっていった〉  〈結婚を約束し、出航時に見送ってくれた彼女はこの間一度も顔を見せることがなかった。(中略)差別の目に耐え切れず京都に逃げた〉 (略) 岡村さんは高知県の中学を卒業後、埼玉県の製本会社を経て73年、帰郷した。広島市で被爆した元軍属の伯父が手帳申請など被爆者支援をしており、岡村さんは医療事務の仕事の傍ら、伯父の活動に同行した。 戦後50年の95年、広島市の原水爆禁止世界大会で、被爆者の演説が会場にいた岡村さんの胸を突いた。「私たちに時間はない。若い人の力を貸してください」。自分には20代から趣味で始めたカメラがある。「被爆者を写真に残し伝えることが、僕にできる彼らの思いへの応え方だ」。4年後、高知県内の被爆者や水爆実験の被ばく者ら52人の写真集を完成させた。 (略)  ビキニ水爆実験で、日本政府は第五福竜丸以外の被ばくした漁船の乗組員たちの健康調査や治療をせず、54年12月にマグロの検査と廃棄処分を打ち切った。翌月、日米両政府は米国が200万ドルの見舞金を支払うことで政治決着。しかし日本政府は2014年、それまで「ない」と説明していた調査資料の一部を開示した。それを機に、周辺海域で操業していた同県内の元漁船員や遺族は16年「資料を故意に隠し、被災船員への健康調査や治療、救済をせず、生命や生活に深刻な損害を与えた」として国を相手取り提訴した。 (略) つてを頼りにたどり着いた元漁船員の妻は「国が被ばくを隠さず早く検査していれば、夫を助けられたかもしれない…」と悔やんだ。夫は1976年に肝硬変と診断され、翌年にがんで死亡。40代だった。園児だった次男に、父親との思い出はない。被ばくとの因果関係は分からず、女性は「酒の飲ませ過ぎよ」という周囲の非難にも耐えた。岡村さんは「核がもたらした被害が闇に葬られたままでは、人の命をないがしろにする愚かな過ちが繰り返される」と確信した。 ビキニ事件の国賠訴訟の一審判決は原告の請求を退けたものの、元乗組員らの被ばくの事実を認定した。訴訟は高裁で係争中で、12月に判決が出る見通しだ。 (略) 写真集の制作を始めた昨年1月以降、少なくとも5人が他界した。岡村さんは彼らに残された時間と闘いながら「NO NUKES(核は要らない)」と訴える。世界中の人に見てもらうため、学生ボランティアらの力を借り英訳も併記した。2200円。購入は平和資料館・草の家=088(875)1275。(国崎万智) 全文は1954ビキニ 被ばく漁船員の人生 岡村啓佐さんが写真集 過ち、繰り返させない

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「唯一の被爆国民」じゃなかった日本人! 8.6から3.11を見通す核の戦後史 via J-Cast

書名被爆者はなぜ待てないか サブタイトル核/原子力の戦後史 監修・編集・著者名奥田 博子 著 出版社名慶應義塾大学出版会 出版年月日2015年6月30日[…] 地に足のついた研究姿勢がにじむ  奥田さんは、関東学院大学人間環境学部の准教授。内外の膨大な資料や証言集、写真集に目を通し、ジグソーパズルを埋めるように戦後の史実を積み重ねていくパワーに驚かされる。参考文献の列記だけで実に15ページ。この真摯さはどこから生まれるのだろう。プロローグに「個人的な原点」が記されていた。  「年に一度しか会えない祖父母と過ごしたとても懐かしい『夏休みの思い出』の一コマ一コマから構成される、私のなかにしかない広島がある」。幼い頃の心象風景、聞かされた戦争の昔話が、原爆の記憶を探求するにつれて「歴史」に結びついていったという。地に足のついた研究姿勢がにじむ。  被爆65年に刊行した前著『原爆の記憶 ヒロシマ/ナガサキの思想』(同)では、政府が語る「唯一の被爆国民」という言葉にこだわる。日本の戦争被害者意識を正当化し、「敗戦国としての清算」より「戦後の経済成長」に力を向けるために創られた神話に過ぎない、と指摘した。事実、広島と長崎で被爆した人々の国籍は21カ国に及び、原爆の製造、開発、実験に動員された労働者、兵士や周辺住民らもまた被爆者だという。 なぜ、「放射能汚染加害国」に劣化したのか  被爆70年に刊行された本書は、前著の刊行翌年に起きた東京電力福島第一原発事故を強く意識する。「原子力の安全神話」が崩れ、日本に再び被曝者が生み出された。しかも、その責任の所在は大戦の時と同じように不明確なままだ。「『唯一の被爆国』日本は、なぜ、『放射能汚染加害国』に劣化したのか」。この問題意識が全体を貫いている。  その契機の一つとして、著者は、1954年のビキニ水爆実験で被爆した漁船をめぐる日米交渉を挙げる。被爆した船は、実際は800隻以上、被爆者は2万人以上とみられるが、日米政府は第5福竜丸1隻、その乗組員23人に対する見舞金支払で政治決着した。背景として、日本政府がこの事件を「アメリカから核燃料と原子力技術を導入する取引材料にしようとしていた」点を指摘する。その後、日本は東西冷戦の中で、アメリカの「核の傘」に依存した平和と、アメリカの「原子力産業」に依存した繁栄を享受する道を進んできた、と分析している。  一方、ビキニ水爆被災事件で注目された「死の灰」を機に原水爆禁止運動が広がるが、内部の路線対立で3つに分裂してしまう経緯や、米英ソが1963年、地下を除く「部分的核実験禁止条約」に調印したことで世界規模の反核平和運動は力を失い、日本では「原子力の平和利用」というアメリカのスローガンが力を得ていく経緯を詳述していく。 […]   全文

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<ビキニ原水爆実験>沖縄漁船、隠された被ばく via 毎日新聞

1950年代を中心に、米国が太平洋・ビキニ環礁付近で実施した原水爆実験は計67回に及ぶ。国内では54年3月1日に静岡県のマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばくした事件が知られるが、当時周辺では他にも多くの漁船が操業中だった。60年以上を経て真相が少しずつ明らかになっているが、当時米軍統治下の沖縄は、日本政府による放射線検査や被害補償の対象外で、実態は依然不明のままだ。「福竜丸以外」の被ばく実態解明に取り組む市民団体「太平洋核被災支援センター」(高知県宿毛市)が、琉球大の研究者らと初めて調査に入り、記者も同行した。【岩間理紀】   […] ◇十数隻被災か   当時の科学者の分析によると、水爆「ブラボー」を皮切りに米国が54年3〜5月に実施した実験では、爆心地の東約160キロの公海にいた第五福竜丸の乗組員23人全員が、1.6〜7.1シーベルトの高線量を浴び「急性放射能症」と診断された。政府は全国18港で、漁船の放射線検査を実施。汚染された計485トン以上の魚が廃棄されたとされる。銀嶺丸に廃棄命令は出なかったが、上里さんは「マグロがその後、廃棄されたといううわさが流れた」と話した。   自身も大腸がんなどを発症した上里さんは「(真相を)解明してほしい。(米軍統治下で当時の)琉球政府が強く出られなかったことが問題だ」と憤る。当時の琉球気象台のまとめによると、実験地に近い沖縄では、60年代初めまで最高で毎分17万カウントの「放射能雨」が降り続いたとされる。   「マグロパニック」が拡大し、米政府は55年1月、200万ドル(当時約7億2000万円)の「見舞金」を日本政府に支払うことで政治決着。放射線検査も打ち切られたが、水爆実験はそれ以後も続いた。   一方で、米軍統治下の沖縄は見舞金の対象外とされた。2014年9月に国が開示した延べ556隻分の放射線検査記録のリストには、高知や宮城など各地の船名が確認されたが、沖縄の船名はなかった。米軍政下の沖縄は、日本国内の保険制度に入ることができず、大半の市民が無保険。船員保険もなく、記録からの追跡も難しい。 […] 全文を読む。

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ビキニ被害放置の責任問うviaしんぶん赤旗

紙議員が政府に質問主意書 […] 質問主意書では、ビキニ被害の全容について、解明を求める市民団体などのねばり強い運動を受けて政府はようやく2015年に、1400隻以上の漁船などと乗組員が影響を受けたことを明らかにしたと指摘。  実験から60年後の2014年度にようやく厚労省内で「ビキニ水爆関係資料の整理に関する研究」を開始し、ことし6月に報告書を提出したことを受けて、見解を問うとしています。  一つ目は、1986年に日本共産党の山原健二郎衆院議員(当時)がビキニ被災漁民の全容解明を求めたのに、政府は「資料はない。調査は難しい」と、虚偽の答弁をした点です。「真摯(しんし)に事実に向き合い調査しなかったことが、ビキニ被災問題の全容の究明・解明並びに被災者の救済を遅らせたと考えます。60年にわたりビキニ被災問題を放置してきた政府の責任は重大だと考えます」として政府の見解を問うています。  二つ目は「ビキニ水爆関係資料の整理に関する研究」についてです。この「研究」で収集した記録、論文をすべて公表すること、聞き取り調査などを行った研究者や団体名を公表すること、調査対象の選考基準を示すことを求めています。  「研究」は、放射線医学総合研究所をはじめ、放射線の影響に係る専門的知見を持つ有識者で構成するとあり、有識者の第五福竜丸以外の被災船についての研究実績を示すことを求めています。 […] もっと読む。

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