(抜粋)
1945年8月21日、ニューメキシコ州のロスアラモスから3km離れた場所にあった秘密研究所のロスアラモス研究所で働いていた物理学者のハリー・ダリアン博士がプルトニウムの塊を用いて中性子反射体の働きを見る実験を行っていました。同実験の中でダリアン博士はミスから致死量の放射線を浴びてしまい、急性放射線症候群のため死亡してしまいます。
(略)
事故後、救急車が手配され、研究所から関係者たちは避難します。救急車が到着するまでの間、研究室にいた科学者たちは「自分たちがどれくらいの放射線を浴 びたのか」を計算しようとしていたそうです。この時、スローティン博士は事件が起きた際に研究室内にいた同僚たちの位置を記すスケッチを描いていました。 その後、デーモン・コアの近くにあったブラシや空のコカ・コーラのボトル、ハンマー、メジャーなどの放射線量を放射線検出器を使って検出しようとします が、スローティン博士自身が大量の放射線を浴びていたため、計測することはできなかったそうです。
そこで、スローティン博士は同僚のひとりにまだ危険な状態のデーモン・コアの近くまで行って周囲の放射線量を検知するように指示します。しかし、この調査で得た情報は有用なデータにはならなかった、と後の報告書には記されています。
その後、実験の参加者はロスアラモス病院に搬送されました。スローティン博士は検査の前の数時間で数回嘔吐しますが、翌朝にはその症状も治まっていたそう で、「健康状態は良好に見えた」と報告されています。時間と共にスローティン博士の左手はマヒし、徐々に痛みが増していったとのこと。スローティン博士の 左手はデーモン・コアに最も近い位置にあったため、推定でなんと1万5000レムもの低エネルギーX線を浴びていたことが判明しています。人間の致死量は 500レムと言われており、スローティン博士は全身でもその4倍以上である2100レムのニューロン、ガンマ線、X線を浴びていました。その後、博士の左手は青白く変色して大きな水ぶくれができ、担当医は左手を氷で冷やすことで腫れと痛みを和らげようとしました。実験時にドライバーを持っていた右手にも、軽度ながら同じ症状が見られたそうです。
事件後、スローティン博士は両親に電話しており、事故発生の4日後に両親が博士の元に到着します。事故発生から5日目になると、スローティン博士の白血球 数は劇的に減少し、体温と脈拍も大きく上下し始めます。そして、「その日から患者は急速に動けなくなっていった」と、医療報告書には記されています。ス ローティン博士はその後も嘔吐と腹痛に苦しみながら徐々に体重を減らしていくのですが、これは「体内の放射線やけどによるもの」とのこと。
事件から7日後、スローティン博士は精神錯乱に陥ります。唇は青色になり、酸素テントの中での生活を余儀なくされた模様。更にその後、スローティン博士は 昏睡状態に陥り、事件発生から9日後に35歳の若さで死亡しました。なお、死因は放射線障害として知られる「急性放射線症候群」として記録されています。
全文は 「デーモン・コア(悪魔のコア)」で被ばくした科学者はどのようにして死んでいったのか
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