1954年に静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばくした太平洋ビキニ環礁での米国の水爆実験を巡り、厚生労働省が近く、当時周辺で操業していた他の船員について健康影響調査に乗り出すことが分かった。被災船は全国で少なくとも500隻、被災者は1万人に上るとされるが、国はこれまで福竜丸以外の船員の追跡調査をしてこなかった。当時の放射線検査の記録が昨年見つかったことを受けたもので、ビキニ水爆実験での被害の位置づけが大きく変わる可能性が出てきた。(2面に「質問なるほドリ」、社会面に関連記事)
水爆実験では54年3月14日に福竜丸が帰港した後、他の漁船やマグロからも放射線が検出された。同18日に国は東京など5港を帰港先に指定。放射線が一定基準(距離10センチで毎分100カウント=放射線測定器の計測値)を超えた漁獲物を廃棄処分し、船員についても毎分500カウントを超えれば精密検査を行うとしたが、同年末で放射線検査は打ち切りに。翌55年1月4日、米国側の法的責任を問わない「慰謝料」として200万ドル(当時のレートで7億2000万円)を日本側が受領することで「完全な解決」とする日米交換公文に署名、政治決着させた。
55年4月に閣議決定した慰謝料の配分先には福竜丸以外の船員123人の治療費や992隻が水揚げした汚染マグロなどの廃棄経費も含まれていた。しかし、国はその後、こうした船員らについて全くフォローをせず、86年3月の衆院予算委分科会で今井勇厚相(当時)は当時の記録の存在を否定した上で「30年以上前のことで調査も難しいし、対策を講ずることは考えにくい」と答弁していた。
国の対応を転換させたのは、高知県で80年代から船員の聞き取りを進めてきた市民団体「太平洋核被災支援センター」の活動。山下正寿事務局長は、被災時に厚生省がまとめ外務省を通じて米国側に提供した検査記録の一部を同省が2013年に開示したことを受け、基になった記録の開示を14年7月に厚労省に求めた。
同9月、厚労省は延べ556隻、実数473隻の船員の体表面などを検査した記録を開示した。厚労省幹部は「過去に薬害エイズもあり、『資料を隠していた』と指摘されることに厚労省は敏感だ」と話し、記録開示の延長線上で船員らの健康影響調査をせざるを得なくなったことを示唆する。
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