自分は被ばくしたのか。被ばくしたとしたら、それはどの程度で、健康にどう影響するのか。それになにより、ほかでもない自分に関する事実がなぜ分からないのか――。60年余り前、マグロ漁船「ひめ丸」に乗っていた高知市の元船員はいま、そんな思いの中にいる。かつて米国は太平洋で核実験を繰り返し、周辺で操業中だった「ひめ丸」など1000隻近い日本漁船に影響を与えた。その事実は近年少しずつ明らかになり、国を被告とした裁判でも被ばくが認定された。それでも物事は一直線に進まない。厚生労働省が実施した被ばく線量調査では、研究代表者が自ら「2〜3倍の誤差」があると認め、元船員からは「線量が過小評価されていたのでは」と疑う声も出た。いったい、事実はどこにあるのか。82歳になった元船員、増本和馬さんは執念の調査を続けている。(文・写真:笹島康仁/Yahoo!ニュース 特集編集部)
「食べるため」の仕事で被ばく
この1月22日、増本さんは高松高裁にいた。自らも原告の裁判の控訴審。その初回の口頭弁論があったからだ。一審の高知地裁よりも建物には貫禄があり、法廷も少しだけ大きい。多くの取材陣が詰め掛け、傍聴席も支援者で埋まった。「気持ちがね、ちょっと引き締まった」と振り返る。
2016年に一審が始まった時、増本さんは「まさか自分が法廷に立つとは」と話していた。解明すべきは、62年前の核実験と自身の被ばく。しかも、訴訟相手は「国」。核実験の実行者は米国だ。
増本さんは日本統治下の朝鮮半島で生まれ、敗戦で高知県の漁師町に引き揚げた。家計を助けるために17歳でマグロ漁船に乗り、その最初が「ひめ丸」だった。
(略)
増本さんがマグロ漁船に乗っていたころ、米国は太平洋で核実験を繰り返していた。そのうちの一つ、1954年3月1日にビキニ環礁で実施された水爆実験では、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばくする。
このときの水爆の威力は、広島型原爆の約1000倍。粉塵は160キロ東で操業していた福竜丸にも降り注いで船員を被ばくさせ、無線長の久保山愛吉さんは半年後に死亡した。一連の実験により、54年末までに延べ992隻が汚染された魚を日本で水揚げし、「放射能マグロ」の言葉とともに日本中に衝撃を与えた。
ところが、日本政府は55年1月、「完全解決」の合意文書を米国政府と交わす。米国側は「見舞金」200万ドルを支払い、日本側は賠償請求の権利を放棄する、という内容だ。米国はその後も核実験を続けたが、漁港での検査は行われなくなった。
2014年3月、記憶を呼び起こされる
増本さんが再び「ビキニ」に引き戻されたのは5年前、2014年3月だった。当時の核実験に関する新聞記事が地元紙に掲載されたことがきっかけだった。
「せっかく取ったマグロを検査され、海に捨てた」「(太平洋で操業中)夜なのに突然、昼間のような明るさになった」「灰のようなものが降ってきた」……。元漁船員らのそんな証言も多数載っている。
(略)
あのころ、漁を終えて東京・築地に入ると、ガイガーカウンターを持った係官が魚を調べていた。多くの病気を経験し、今から20年ほど前には「白血球が異常に多い」と診断されていた。医師の見解は「原因不明」。前立腺がんも患った。若くして死んだ仲間も少なくない。
元船員や遺族らは2016年、国を相手取り、「第五福竜丸以外の漁船に関して日本政府は必要な健康調査や情報公開を怠ってきた」ことを問う国家賠償請求訴訟を起こした。その提訴の前、増本さんは「ひめ丸の調査を手伝ってほしい」と弁護士に頼まれ、それをきっかけに自ら調査に関わっていく。
(略)
同じ「ひめ丸」に乗っていた仲間の調査も続けた。それぞれの経歴や病歴を調べ、遺族らから当時の様子などを聞き取っていく。「(核実験の)光を見た」と言う船長に会うこともできた。町内には別の漁船に乗り、20代で死んだ船員がいたことも分かった。その兄は「最期は全身の穴から血が出ていた」と語ったという。それらは妻の美保さん(78)が丁寧に整理し、ファイルは少しずつ厚みを増している。
高知地裁は昨年7月の一審判決で、元船員らに関する被ばくの事実を認定した。賠償請求は認めず、原告敗訴となったものの、被ばく直後の健康調査が不十分だったこと、病気と被ばくの因果関係を立証するのは難しいことなどに言及。そして、元漁船員らの救済については「改めて検討されるべき」とした。
厚労省研究班の「調査」とは
ビキニの問題が再燃していた2015年、当時の漁船員らの被ばくの程度を調査するとして、厚労省は研究班を立ち上げた。研究代表者は「放射線医学総合研究所」の明石真言理事。この「放医研」は16年4月に改組して、国立研究開発法人「量子科学技術研究開発機構 放射線医学総合研究所」となり、明石氏は現在、同機構執行役だ。放射線被ばくの専門家で、東京電力福島第一原発の事故に伴う福島県の「県民健康調査」でも委員を務めている。
この研究班ができた時、元船員らは「ようやく国が自分たちの声に直接耳を傾けてくれる」と期待したという。ところが、2016年5月に「報告書」をまとめるまで研究班は、被ばくの健康被害を訴えて原告となった元船員を一人も訪ねていない。
この研究班は何をやっていたのだろうか。その一端を知ろうと、同研究所に情報公開請求をしたところ、2016年4月までの1年2カ月に及ぶ領収書が開示された。
その間に支出された経費は約500万円で、人件費に約190万円。さらに書籍(約10万円)、研究班メンバーが千葉市の同機構に集まるための交通費(約33万円)。外部委託費として約180万円が使われていた。研究班とは別の「ビキニ環礁水爆実験による元被害者の被ばく線量に係る研究」の経費では、ノートパソコン2台(42万円と25万円)、PDFや文書のソフト(20万円)、トナー(6万円)、シュレッダー(8万円)などが購入されている。
(略)
研究班は、1954年3〜5月に実施された一部の実験を対象に、米軍が設置したモニタリングポストの数値や、近くで操業していた10隻の航路などから外部被ばく線量を推計した。同年7〜8月に操業した「ひめ丸」は含まれていない。
結論は「漁船員の被ばく線量は最大でも1.12ミリシーベルト相当であり、健康に影響を及ぼすほどの被ばく線量があったと明確に示すことはできなかった」という趣旨である。
ところが、研究代表者の明石氏は16年、筆者の取材に「最大1.12ミリシーベルト」とした結果には「実際と2〜3倍の誤差がある」と明言し、「健康への影響はないということは変わらない」としつつも、報告書の結論は実態よりも過小評価になる可能性を認めた。
明石氏によれば、同じ方法で第五福竜丸を計算した場合、船員の被ばく線量は約1300ミリシーベルト。これに対し、実際に計測された船員の被ばく量は「最大約7000、平均約3000ミリシーベルト」だったという。実測値のほうがかなり高い。「(福竜丸の)数値は検討の余地がある」として報告書には記さなかったという。
当時の漁船員たちは汚染の強いマグロの内臓を食べたり、海水を日常的に使ったりしていた。「それに伴う内部被ばく、漁の実態が十分に考慮されていない」といった疑問も残っている。
(略)
この1年間に、極めて重要な二つの診断書も手に入った。一つは、同じ「ひめ丸」に乗っていた男性の死亡診断書だ。この男性は1994年、66歳のときに白血病で亡くなっている。
増本さんは遺族の協力を得て、「急性単球性白血病」と記された死亡診断書を入手した。「死亡診断書」を第三者が入手することは難しい。社会保険事務所の窓口では、遺族の委任状に加えて「銀行の口座番号」も必要だとされた。何度も遺族の元を訪れ、承諾を得ることができたという。
放射線被ばくと病気の因果関係は証明が難しいが、この男性もかかった「白血病」は、労災認定において被ばくとの因果関係が比較的認められている病気だ。国が定めた放射線業務従事者の労災認定では、白血病の場合、年5ミリシーベルト以上の被ばくが基準の一つであり、原発労働者らが認定を受けている。
もう一つの診断書は、増本さん自身の病気についてのものだ。第五福竜丸の労災認定に関わっていた医師から「いくつかの病気について、被ばくとの因果関係が認められる」とする当時の診断書を得ることができた。これには、看護師だった妻・美保さんの協力が大きかったという。
(略)
外務省の開示文書からは、ひめ丸が実験場の周辺海域で操業していたことが分かった。米国の公文書は同船の操業海域にも放射性物質の降下があったことを示している。そして、増本さんが捨てずにいた船員手帳も、裏付けの一つとなった。
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