小野昌弘| イギリス在住の免疫学者・医師
今の日本には白昼堂々おばけが歩き回っている。放射能おばけというおばけが。おばけは人々に恐怖を吹き込み、恐怖は毒となって社会の全身を巡り、放射線問題の解決を困難にするばかりか、民主政治を麻痺させている。
[…]
2.放射能おばけ
ネット上には放射能おばけがいる。「どんなに少ない放射線でも人 体に影響がある」「放射性物質は人体に入ったら内部被曝として二度と出てこずにいつまでも細胞を破壊しつづける」「内部被曝は少ない量でもやがて白血病・ がん・先天奇形を引き起こす」「東京の汚染は深刻である」ー誰しもこうした記事や警告を目にしたことがあろう。
科学的知識が十分でないままこの考えに取り憑かれたら、大抵のひとは低線量放射線および内部被曝に対する無限の恐怖を持ってしまうだろう。そしてしばしばこうした危険を煽る文章は、グロテスクな写真とともにばら撒かれる。
しかし少し冷静に考えれば、ほとんどの人に影響を与えないレベルで決められた法的上限値より小さな放射線被曝量で、こうした過酷な障害が多 発することはおよそ考えにくい(特に、公衆の被曝量は、原発労働者のものよりも低く設定されていることに注意)。なぜなら、放射線による生体効果は閾値 (しきいち)がないとはいっても、物理的作用である以上、基本的にはより少ない量ならば、多い量に比べればより安全であるはずだからだ。年齢や妊娠による 感受性の違いは存在するが、それらを考慮しても、現状は過剰なまでに恐怖を煽るような状態ではない (1)。
ここで私は、内部被曝や低線量放射線の影響を否定しているのではない。これらは科学的に調査・検証されるべきものである。ところが一方で、 こうして見えないものに対する恐怖を植え付け、ひとの感情に取り憑く力をもったこの思念は、「おばけ」としかいいようがない。しかも、このおばけは人を驚 かすだけの良性なものではない。国民が正当に参加するべき政治プロセスから、恐怖の力で人々を追い出し、また人々のあいだの理性的な合意を妨害している。 そうして、全く奇妙なことに、このおばけのせいで放射性物質による汚染問題がかえって混乱し、解決が遠のいている。だから私はこの思念を「放射能おばけ」 と呼ぶ。
もちろん、外部・内部被曝とも、 十分注意する必要があるものであり、不必要に晒されることのないようすべきだ。そしてこのように薄く広く放射性物質が撒き散らされた以上は、この汚染によ る影響がないか、注意して観察するべきである。しかしそれは、あらゆる放射線を過剰に恐怖して被曝の無い「完璧に清潔な」世界だけを求めて他を拒否するこ ととは違う。
[…]
この現実を受け入れた時、われわれが考えるべきことは、現在の問題に対する最適解をいかにして見つけるかだということがようやく見えてく る。この大問題を誰も一人で解決できない以上、社会の幅広い人のあいだで合意を形成することが致命的に重要だ。しかも、いくら国中の人が集まって考えたと しても、予算・技術・人的資源にも限りや限界はあるのだから、どういう作業手順で、どのようにして問題を片付けるかを、数字に基づいた政治的交渉で理性的 に決めなければならない。総論としては、無茶ではない程度に最善を尽くすということになるだろうが、詰めるべき各論は山のようにある。
この作業をするためには、社会における関係者がなるべく幅広く話し合いに参加して合意事項を作っていかなければならない。ところが実際には みな自分の仕事があるわけだし、日本は大きな国なので、全員がそういう作業に直接参加することは現実的ではない。しかし幸い日本は民主主義だ。国民が選挙 で代表を選んで議員を議会に送り、議員同士の話し合いでこの合意を間接的に行うことができる。また関係団体(企業・学会・NPO)などを通じてその話し合 いに間接的に影響することもできよう。あるいは行政が積極的に国民の意見を求めたり、政治参加を求めることもあろう。
3.おばけが吹き込む毒
こうして人々が助け合って新しい公共の仕組みを作り上げるべき時に、おばけが社会に毒を吹き込んでいる。見えないものに対する恐怖をかきたてて、人をこうした政治的なプロセスから脱落する方へと追いやろうとしている。
数は少ないだろうが、「日本は終わった」と国の先行きに大きく悲観している人は、問題解決のための地道な作業には参加する気もおきないだろ う。行政・科学者・医師らの言うことを全く信じられなくなった人もまた、話し合いに参加することができない。どちらも底にあるのは、深い絶望である。
また、被曝恐怖は、市井の人々と、 原発の技術者・労働者とのあいだに溝を作る。普通に人々が暮らしている場所での被曝(公衆被曝)に過剰なまでの恐怖を持っている人は、福島原発施設内で働 く原発技術者・労働者の被曝問題に目を遣ることはできない。原発で(法定限度内でも公衆と比べて)相当な被曝をしながら働いている人の目には、微々たる公 衆被曝に大騒ぎしている人々は自分たちの存在を無視しているように映ろう。原発技術者・労働者こそが、危機の前線で国民を救うべく働いているというのに。 今後少なくとも30年かかると言われる原発の後処理のため、原発労働者は相当な延べ人数になることが予想されるというのに、まるでこの問題はなかったかの ような静けさである。
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マルクスまで引用しあたかも俯瞰的な位置から冷静に述べているかのようですが、限りなくご都合主義的な解釈に基づいた意見に思えます。「幸い民主主義だ」と言い切れるほど、現在の日本において情報の公開、共有はおこなわれているのか、人々の声は意志決定にどこまで反映されているのか。そうした民主主義の根幹が揺らぎかけているからこそ人々は不安を感じるのではないでしょうか。そうした不安の表明は、小野氏にとっては、彼の言う合意形成の過程においてそもそもとりあげられる価値がないかのようです。「行政が積極的に国民の意見を求めたり、政治参加を求める」のであれば、連日のデモのみならず、パブリックコメント、公聴会など、さまざまな場面における東電と政府のあのお粗末な対応はどう説明できるのでしょう。