「福島は危ない」にどう応じればいいのか 回答には「1冊の本」が必要だった via President Online

「福島は危ないのか」。そう聞かれたとき、どう答えるのか。毎日新聞記者として被災地を取材し、現在はBuzzFeed JAPANで記者を務める石戸諭さんは、この問いへの答えを探して、初の著書『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)を出版しました。なぜ一冊の本が必要だったのか。書籍の担当編集者が、改めてその意図を聞きました――。

(略)

――冒頭、岩手県宮古市の漁村で、漁師さんから「原発はどうなりそうなんだ。教えてくれ」と尋ねられたエピソードを書かれていますね。執筆をお願いしたときに石戸さんから聞き、これこそがこの本のテーマだと思ったのをよく覚えています。

年は六〇代半ば、白髪交じりの頭を短く刈り上げている。黒のタートルネックニットの上に、紫と黄緑のナイロンの上着を羽織り、足元は漁業用のゴム長靴を履いていた。「原発ですか。放射性物質が飛散してはいるけど……」と説明しようとしたが、「健康はいいんだ。もうほれ、年寄りだから。海だ、海。この海にどんな影響があるんだよ。教えてくれ。情報が入らないんだ」。
(中略)
伝えられるだけの情報を伝えたが、おそらく納得していなかったと思うのだ。住居を無くしても海の優先度が高い。何より海の無事を願う。それが漁師なんだ、と男性は言った。彼は特別な存在だろうか。――石戸諭『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)より

新聞記者として東日本大震災の取材を続けるなかで、原発事故の影響がそれほど大きくなさそうな場所でも、放射能の問題が覆いかぶさっているのを感じることが増えました。「リスク」についてどう伝えればいいのか。これまでやってきたことが試される局面が訪れたんだ、と思いました。

(略)

ひとつのアプローチを試さないといけないと思いました。つまり、割り切れない思いを包摂しながらリスクについて語ることはできないのか、ということです。人間は誰だって、時として不合理なことをする。だからこそ、科学や医学だけではない別のモノサシを組みこみたかった。そのためには、一人ひとりが生活のなかでどうやってリスク判断をしているのか、そこに接近しないといけないと思ったんです。

たとえばこの本には、科学を学び、自ら土壌検査を行い、収穫後の検査もクリアして農協に出荷した米を、それでもわが子には食べさせられないと捨てた農家が出てきます。科学のモノサシで測れば明らかな矛盾ですが、納得できる人も多いと思うんです

自分が担任しているクラスの生徒たちは福島県内の学校に通っているのに、自らは子供を連れて、新潟県で仕事を決めた教師がいる。新潟に避難せざるを得なかった、福島の子供たちを支援する仕事を選んだ。彼は、これは担任している子供ではなく、自分の子供ために「避難」を選んだと捉えて、苦悩することになる。

これも同じで、理解することと納得することの間にはそれぞれに溝がある。取材しながら、自分自身のモノサシも変化していきました。

(略)

――「発がん率~%」「空間線量~mSv(ミリシーベルト)」といったモノサシは同じでも、そのモノサシが置かれた机の上は、人それぞれにまったく違うということですね。

全然違います。納得するまでにかかる時間もまったく違うし、納得の度合いも違う。言うまでもなく、科学的なモノサシは重要です。ただ「モノサシが使えるよ」ということと「だから受け入れろ」ということはまったく違うんだということを、お互いに理解したほうがいいんじゃないかと思うんです。

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