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あの島はどうなったのだろう 被爆70年、4世代の旅 via 朝日新聞

(抜粋)

■90歳の記憶、子に孫にひ孫に

70年前の1945年8月6日。中川タマさん(90)=神奈川県茅ケ崎市=は、朝礼で並んだ同僚らと体操をしていた。広島湾に浮かぶ周囲5キロほどの小さな島「金輪島(かなわじま)」。タマさんは陸軍船舶司令部(通称・暁部隊)の「野戦船舶本廠(ほんしょう)」で事務員として働いていた。

午前8時15分。「ドカーン」という爆音が突然響いた。「なんだろうね」。タマさんが同僚らと話していると、島の山を隔てた約6キロ北西の広島市中心部で大量の煙が立ち上った。みるみる大きくなり、「きのこ雲」になった。

それから、どれくらい時間がたったのか。船に乗せられた人たちが次々と島に運ばれてきた。全身にひどいやけどを負い、皮膚はだらりとむけていた。男性か女性か、区別がつかない人も少なくなかった。

うめき、苦しむ人たちを軍人が担架に乗せ、山中の防空壕(ごう)へ。タマさんら女性たちも手伝った。少し前まで話ができていた男の子は直後に絶命した。目を背けたくなる惨状だった。

夜になると、タマさんを含む100人ほどの女性たちは、金輪島から約3キロ南西の「似島(にのしま)」へ船で向かわされた。暗闇には、ずらりと横たわったたくさんの負傷者たち。尿を空き缶でとり、傷口を縫う軍医を手伝っていった――。

あれから70年。結婚で広島を離れて以来、タマさんは初めて金輪島に戻った。そして3人の息子、2人の孫、1人のひ孫に当時の壮絶な体験を島の慰 霊碑の前で語った。今の日本では、想像がつかないかもしれない戦争と原爆の話をどこまできちんと聞いてくれるのだろうか。だが、杞憂(きゆう)だった。

(略)

2カ月前、タマさんが車の中で「金輪島はどうなったのだろう」とつぶやいたことがきっかけとなり、実現した4世代・7人の被爆をたどる旅。行ってみようか、と提案した長男の重年さん(68)=同県厚木市=は「地獄を見た母の経験を次の世代に伝える仲立ちができれば。そう思ったんです」と明かした。

「私には『戦争はだめ』と旗を振る力はもうないけど、そうした思いを持っていると知ってほしかった」とタマさん。息子や孫が原爆の惨禍と平和の大切さに向き合う姿に触れ、改めて誓った。「この島で亡くなった人たちのことを、けっして忘れない」

■「水をください」 刻んだ碑

負傷者は血だらけで、手をにぎると皮がつるりとむげ、水をくださいと叫びながら、次々に恐怖と苦悶(くもん)の中で息絶えた

(略)

〈金輪島〉広島市南区の沖にあり、面積は約1平方キロメートル。1894(明治27)年に陸軍の造船・船舶修理工場が造られた。「広島原爆戦災誌」によると、原爆が投下された時、島には将兵や工場労働者ら約1千人がいた。島外から約500人の負傷者が運び込まれたとされるが、死者数や負傷者の行き先を詳しく示す資料は残っていない。軍需施設があった瀬戸内海の島々は軍の検閲によって写真から削除され、戦時中の金輪島も「消された島」の一つだった。現在も造船工場などがあり、80人ほどが暮らしている。

全文はあの島はどうなったのだろう 被爆70年、4世代の旅

 

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