原発賠償関西訴訟原告団代表 森松明希子さんインタビュー via 通販生活

「原発事故の被災者には、避難する権利、とどまる権利、帰還する権利が認められるべきです」

福島第一原発の事故後、たくさんの人が全国各地へ避難しました。しかし、国と東京電力は、避難者に対して十分な賠償や必要な支援策を講じていません。そのため、国と東京電力を相手どった避難者による訴訟が各地で起こされています。その中の一つ、関西へ避難した被災者による「原発賠償関西訴訟」の原告団代表、森松明希子さんに訴訟に至った敬意を詳しく伺いました。

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森松 震災後、実家の家族はみんな、「早く福島を出なさい」と言っていたんです。
でも私は、この人たちは何を言うんだろうと思って、あまり真面目に取り合っていませんでした。被ばくに対する漠然とした恐怖があったとはいえ、その報道を見るまでは避難しようとは思ったこともなかったのですから。

――具体的には、どういう内容の報道だったのですか?

森松 原子力施設で起きた事故の深刻度を示す国際原子力事象評価尺度(INES)で、福島第一原発の事故は、最も深刻度の高いレベル7 とされたという報道でした。同じくレベル7と評価されたチェルノブイリでは、事故後20年以上が経過しても健康被害が絶えないことなども、その報道で始め て知りました。
当時、福島県内で報道されることと言えば、どこの学校で授業が再開されましたとか、流通が元に戻ってきましたとか、復興に関するものが圧倒的に多かったんです。原発事故に関する報道で、しかも危険を知らせる報道なんて、少なくとも私は見たことがなかった。
福島第一原発事故の深刻度を伝えるその報道を見て、「もう福島には帰れない」と思いました。
郡山で生活を再建しようと思っていたのは事実なんです。一方で、郡山での生活に強烈な違和感があったのも確か。

――どんな違和感だったんですか。

森松 原発事故後の4月、長男は幼稚園に入園したのですが、制服を着せることができたのは入園式の1日だけでした。入園式の翌日からは、長そで長ズボンの服を着用するようにと言われたのです。
それから、数日後には幼稚園からマスクが配られ、外出時にはマスクを着用させるようになりました。外遊びもさせられないので、週末になると、ブランコやすべり台があるだけの普通の公園で1時間ほど子どもを遊ばせるためだけに車で県外まで行っていました。
娘は、できる限り外に出さないようにしました。徒歩5分の距離にある幼稚園に息子を送迎する時も、家に一人で残していました。寝返りができるようになっ た娘に、「寝返りしないでね」と言い聞かせ、窒息させないようにと周りをきれいに片づけて、まだ0歳の娘を一人で自宅に残して、大急ぎで息子の送迎をして いました。
もう、何が普通で、何が普通でないのかが、分からなくなっていました。子どもを被ばくさせないための暮しにはいろんな制約があり……。「一体いつまでこんな暮しが続くんだろう」。そんな先行きの見えない不安がありながらも、郡山で生活を再建するために、必死でした。

――それでも、避難をしようとは思わなかったのですね。

森松 そこが、福島を中から見るか、外から見るかの圧倒的な違いだと思うのです。福島県内で生活していると、日頃どれだけ苦労して放射 能と闘っていても、「避難しよう」とまでは、あまり思えないんです。放射能があることは分かっていても、他の地域と比べてどれだけ汚染されているのか、と いうような情報が手に入りにくいからです。

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森松 自主避難者が必ずしもそうであるわけではありませんが、私たち親子は、住民票を移動していません。住民票を大阪に移すと、県民健 康調査の通知などが届かなくなるかもしれない。福島県は、事故当時福島県内に住んでいた子どもに関しては、追跡調査をするとしていますが、避難先に住民票 を移動した避難者の中には、通知が届いていない方もいるのです。 ですが、もう2年以上、大阪に暮していますし、私も大阪で仕事をしているのに、行政サービスが受けられずに困ることがありますね。

――具体的には?

森松 私が働き出した時に、長女の預け先を探していたのですが、住民票が大阪にない、という理由で、保育所の入所手続きすらできなかったんです。郡山と大阪の市役所に掛け合っても、「できません」と言われるばかりで。
何とか自分で、特別な事情がある場合には、住民票のある自治体以外の保育所に子どもを入所させることができる「広域入所」という制度があることを調べて、入所手続きをしました。
今年の4月には、長男が小学校に入学しましたが、やはり手続きはスムーズにいきませんでした。
この時も、郡山と大阪の市役所へ行って事情を説明し、ようやく大阪の小学校への入学が認められました。

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――「とどまる権利」と「帰還する権利」ですね。

森松 そうです。ですが、被災地で生活することを選択した人に、被ばくをおしつけるようなことがあってはいけません。被災者がどんな選択をしようとも、放射線被ばくの恐怖から免れ健康を享受する権利が侵害されないようにするには、国の支援が必要です。
原発事故の真相を究明し、国の法的な責任を明らかにするよう訴え、原発事故の被災者が被ばくから免れるために必要な支援を受けられるように求めることも、今回の訴訟の目的です。
私たち被災者が何よりも求めているのは、被ばくから免れるために必要な具体的な施策です。「原発事故子ども・被災者支援法」(注)の当初の理念に基づいた具体的な支援策の実施こそが、この裁判の真の目的なのです。

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森松 震災後、郡山の水道水からは放射性物質が検出されましたが、その水を子どもに与えました。
震災直後は、食料も、なんとか息子に食べさせるのがやっとという状態でした。でも、避難所には水道水があるから、私が水さえ飲んでおけば、娘に母乳をあげられる、助かったと思っていました。
なのに、その水には放射性物質が入っていたんです。テレビのニュースでそれを知った時、言葉が出ませんでした。
でも、水道水から放射性物質が出ていると分かっていても、どうすることもできませんでした。流通も十分に回復していない状況では、ペットボトルの水を買うことすらできなかったんです。
飲みたくないと思っても、飲まないわけにはいきません。私たち夫婦は、子どもの将来の健康リスクを覚悟してでも、放射性物質の入った水道水を与えざるをえないという、決断をしたのです。
その水を飲んだ後、母乳を娘に与えましたし、息子がのどがかわいたと言えば、その水を飲ませました。

――…………。

森松 こういう話は、あまり知られていませんよね。でもこの決断は、私たち夫婦だけの決断じゃない。郡山には当時、留まっている住民がたくさんいたんですから。
これが、被ばくと直面するということです。現実に起きていたことなんです。世の中の人はあまりにも原発事故の真実を知らな過ぎる。

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森松さんの著書『母子避難、心の軌跡 家族で訴訟を決意するまで』(かもがわ出版、定価1400円+税)。震災直後の郡山市での暮しから、訴訟に至るまでの経緯を森松さん自身の言葉で書いた手記。

原発事故被災者支援関西弁護団
http://hinansha-shien.sakura.ne.jp/kansai_bengodan/
原発賠償関西訴訟の弁護団。

全文は原発賠償関西訴訟原告団代表 森松明希子さんインタビュー

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