東日本大震災から3日たった2011年3月14日、東京電力福島第1原発の方角から爆発音が響いた。午前11時1分。第1原発の北約25キロの福 島県南相馬市内にいた新妻(にいづま)友加里さん(34)には、3号機の原子炉建屋の吹き飛ぶ音が「ボフン」と聞こえた。母子家庭で実家に身を寄せ、息子 2人は当時、小学4年生と2年生。両親や親類ら12人は行く当てがないまま計3台の車で古里を脱出した。
実姉の川里女久美(めぐみ)さん(37)も一緒に逃れた。震災2週間前に長男が生まれたばかり。「生き延びたくて必死で、まるで戦争のようだった」。栃木県内を移動中、浜松市中区で暮らす伯父と連絡が取れた。同市内で落ち合った時は出発から18時間たっていた。
姉妹がそれぞれ暮らしてきた南相馬市原町区の一部は「緊急時避難準備区域」に指定された。政府が住民に、いつでも屋内退避や避難ができるよう準備 を求めていた区域だ。11年秋に解除され、戻った両親は「帰ってこい。専門家も放射線の影響はもうなく、食材も安心できると言っている」。
しかし、被ばくの影響を受けやすい子どものことを考えると、不安で足がすくんだ。悩み抜いた末、浜松市内で生活していくために川里さんは夫(31)とともに定職に就いた。
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生活の拠点を浜松に定めた姉妹だが、離れて暮らす両親は現在、がんと闘う。姉妹は「親が心配。帰ろうか」と悩む。
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「どうして古里に戻ってこないの」。友人に聞かれるたびに、姉妹は張り裂けそうな気分になる。
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