Daily Archives: 2021/03/03

原発事故後の被曝「国と県の過失を認めず」〜福島地裁 via OurPlanet-TV

[…] 安全な地域での教育認めずこの裁判は、福島県内の子どもとその保護者が約170人が、国、県、市町村を訴えているもので、初期被曝の責任と被ばくをせず教育を受ける権利の確認の2つの内容が争われていた。このうち、福島県内の小・中学生14人が、年間1ミリシーベルトを下回る地域での教育を求めた訴えについて裁判所は、低線量被ばくや不溶性セシウムによる内部被ばくのリスクを否定はしなかったものの、「直ちに不合理とはいえない」と判断。原告の生命や身に対する違法な侵害があるとは認められないと、原告の訴えを退けた。 また福島県内の子どもと保護者158人が、国と福島県に初期被曝の責任を求めて、一人あたり10万円の損害賠償を請求していた裁判についても、裁判所は訴えを棄却。「SPEEDI」の情報を正しく提供しなかったことや、安定ヨウ素剤を服用させなかったなどについて、事実関係は認めながらも、「違法であったとは言えない」と判断した。 […] 涙にくれる地裁前原発事故後、全国で数々の損害賠償裁判が起きている中で、放射線の感受性が高いとされる子どもを原告とし、被曝問題に正面から取り組んだのは、この裁判が唯一となる。訴訟の過程で原告は、福島原発事故では、従来の原子力事故ではほとんど見られなかった不溶性微粒子(セシウムボール)が数多く観測されていると指摘。原告の通う学校周辺地域の環境を独自調査し、少量の吸引でも莫大な内部被ばくを起こす可能性があると主張してきた。しかし、裁判所は、現在まで研究中であるなどとして、「予防原則」の立場に立つ判決を下さなかった。 主文を読み上げると、わずか1分ほどで法廷を後にした遠藤裁判長。判決理由を一切述べないまま、裁判官が退廷したため、原告も弁護人も呆然と立ち尽くしていた。 原告代表の今野寿美雄さんらが、「不当判決」「子どもの未来を閉ざす」と書かれた垂れ幕を広げると、裁判所前は怒号に包まれ、肩を寄せ合って号泣する支援者もいた。判決について今野さんは「納得できるものは一つもない。不当判決そのものだ」と控訴する意向を表明した。 ビデオと全文

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Cancer plagues West Valley nuke workers via Investigative Post

Federal program has paid former employees $20.3 million in compensation. Other claims are pending and still more workers are unaware of the program.By Phil Gambini David Pyles says he lives on painkillers and moves with the help of a cane and … Continue reading

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原発事故は終わっていない。反原発を貫いて50年、信念の科学者が渾身の訴え―小出 裕章『原発事故は終わっていない』via Yahoo! ニュースJapan

[…] ◆ 原発事故は終わっていない。反原発を貫いて50年、信念の科学者が渾身の訴え 2021年3月11日、この日は、東京電力福島第一原子力発電所で事故が起きてから10年にあたります。地上でどれだけ過酷な事故が起きようとも、時だけは確実に、そして容赦なく流れていくことを改めて不思議に思います。 原発事故直後から、日本の政府も電力会社も原子力産業も、とにかく事故の規模を小さく見せることばかり考えていました。2011年3月11日に事故が起き、翌12日には1号機の原子炉建屋が爆発して吹き飛ぶという大惨事が起きました。国際原子力事象評価尺度に照らせば最悪のレベル7とわかっていたにもかかわらず、レベル4だと発表したのです。原発推進派の片棒を担いできた科学者たちもマスコミの取材に対して、「たいしたことはない、事故は収束に向かっている」という発言を繰り返しました。 事故が起きた時、私は京都大学原子炉実験所に勤務していました。 実験所では私が担うべき仕事があり、事故当日も放射線管理区域内で仕事に従事していました。翌日以降もその手を抜くことはできないうえ、事故の状況を正確に知るための仕事が増え、それに加え、マスコミの取材やテレビやラジオへの出演、さらに、講演会などで各地を奔走することになりました。そのため、事故後しばらくの間、休みはおろか、寝る時間すらも満足に取れない状態でした。 でも、私にとってこれは戦争なのだと思いました。国や電力会社、原子力産業など巨大な力の前では、私はあまりにも非力で、福島第一原子力発電所の事故が起きることを防げませんでした。私は原子力の旗は振りませんでしたが、原子力の場にいた人間として、事故が起きる前に原子力をやめさせることができなかったことについて大きな責任があります。国や電力会社から決して出てこない情報を、自分なりに伝えていかなければいけない、その一心でした。 2015年3月に京都大学原子炉実験所を退職した後も、自分にできることをやってきたつもりですし、これからも続けたいと思います。 ただし、人間が生き物である以上、年をとることから逃れることはできません。もちろん私もそうで、いつまでも若い時と同じように活動はできません。退職前から続けてきた講演も、私にしかできないことは何かを考えながら、より一層、厳選しようと思います。 私が講演を引き受ける際に大事にすることが3つあります。 ひとつは〝敵地〟であること。原子力推進派と公平に議論できるなら、いつでもどこでも行くつもりです。次が〝現地〟です。福島をはじめ、原発のある場所で原発とともに生きる人たちに原子力の真実を少しでも伝えたいと思っています。3つ目が〝若い人たちを相手に話ができること、です。若い世代に福島第一原子力発電所が今どうなっているのか、福島の人たちがどのような苦難を強いられているのか、そして、原子力がいかに危険なものかを伝える必要があると考えています。 東海地方のある中学校の授業に招かれた時、ある生徒から「福島の子どもたちはどうしているんでしょうか」という質問を受けました。その中学校は福島から離れていることもあり、事故について生徒たちはなかなか実感を持てないのかもしれません。それでも、授業を受けた生徒からこうした質問が出るということは、少しでも福島の事故に興味を持ってもらえた証しなのではないかと思いますし、この先も忘れないでいてほしいと願います。 2020年は新型コロナウイルスの猛威が日本だけでなく世界中を襲いました。2021年1月には2度目の緊急事態宣言が出されました。でも、日本にはいまだに解除されていない緊急事態宣言があります。それが2011年3月11日に発令された「原子力緊急事態宣言」です。 事故から10年が過ぎても原子力緊急事態宣言は解除できないままで、福島第一原子力発電所では多くの作業員が被曝の危険と闘いながら廃炉に向けた作業を続けています。事故によって生活を根こそぎ奪われた人たち、汚染地に置き去りにされた人たちは今も苦難のなか、必死で毎日を過ごしています。そうした現状を知れば、原子力など決して手を出してはいけないことがわかるはずです。 原子力を進めてきた人たちは、「原子力は絶対に安全だ」と言い続けてきました。それでも、事故は起こるわけで、そのたびに「ああ、しまった」と思ってきたはずです。それでも原子力を進めるためには、「絶対に安全だ」と言い続けるしかありませんでした。 どうしてそのような「誤った安全神話」ができてしまったのか。その理由は、いくつも挙げられていますが、決定的なのは絶対的安全への「願望」でした。要するに、事故が起きないよう、ひたすら願っていたのです。なんと愚かなことでしょうか。 福島第一原子力発電所事故が起きた後も、原子力推進派の人たちは、ひどくなってほしくない、なんとかほどほどのところで収束してほしいと「願望」していたと思います。だから、レベル4と発表し、逃げ続けていたのです。 しかし、願望で安全を確保できる道理はありません。少なくとも科学の分野にいる人間にとって、一番大切なものは事実です。願望などに依拠する限りは科学とはいえません。事故は現実に起きてしまい、被害は冷徹に進行しています。だからこそ、原子力を推進してきた人たちに、「せめて今のこの事態を直視して、しっかり考えて対処してほしい」と思います。 事故から4年半が経過した2015年9月、福島第一原子力発電所の現状を伝えたいとの思いで、『原発と戦争を推し進める愚かな国、日本』(毎日新聞出版)という本を上梓しました。悲しいことに、前著でお伝えした深刻な状況は、今も変わらず続いているのです。それなのに、日本に住む人たちから事故の記憶はどんどん薄れていっています。原子力緊急事態宣言が解除されていないことが示す通り、事故はまだ継続中で、これからも長期間にわたって続きます。そのことを国も電力会社も原子力産業も、そして読者のみなさんにも改めて知ってほしいと思います。 [書き手]小出裕章(元京都大学原子炉実験所助教) 全文

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津波・原発事故 消防士10年目の証言“忘れられない言葉”via TBS

東日本大震災からまもなく10年。JNNでは「つなぐ、つながるプロジェクト」として、各番組・横断で被災地のいまをお伝えします。福島県では、震災の発生直後から消防士たちが、津波が襲った現場での救助や原発事故への対応など、前例のない活動に奔走しました。最前線で任務にあたった当時の隊員が“あの時”を振り返りました。  福島県の富岡消防署楢葉分署に勤務する笹田丞さん。震災当時、津波で被害を受けた浪江町で津波被害の救助にあたった職員のひとりです。自分の家族とは連絡がとれず、安否すらも分からない中、救助を続けた笹田さん。津波で流されそうになった男性を救助したことが一番記憶に残っているといいます。  「男性がぽつりと『こんな状況だったら俺も死んだほうがよかった。なんでこんな風になってしまったのかな』と、おぶっていた時に言われた。『とにかく命があって、よかったじゃないですか』と声をかけて救出した。10年たっても一番記憶に残っている」(当時浪江消防署に勤務 笹田丞さん)  実は震災から2週間前、笹田さんには待望の第一子となる女の子が生まれたばかりでした。  「家族に会いたいという気持ちはありますが、まずは地元の消防としてやるべきこと、果たさなければいけないことが目の前に見えていたので、そちらを優先した」(当時浪江消防署に勤務 笹田丞さん)  災害対応を終え、笹田さんと家族が一緒に暮らせるようになったのは震災から1年後でした。  「初めての子どもだったので、成長を見届けてあげたい部分が、どうしても見てあげられなかった」(当時浪江消防署に勤務 笹田丞さん)  双葉消防本部では、管内にある福島第一原発の事故への対応も求められました。遠藤朗生さんは自衛隊車両への給水の指示を受け、大熊町で活動中、3号機が爆発するのを目撃しました。  「ものすごい爆発音と、きのこ雲が上がって、大量の水蒸気らしきものが上がってきたのを、まさにこの場所で見た」(当時浪江消防署に勤務 遠藤朗生さん)  今度は4号機で火災が発生。現場近くの放射線量が高く、消防士になって初めて、「消火活動を行えずに戻る」経験をしました。  「消火をしないで帰ってくることがあり得ないことだったので、悔しいというか、やるべきだと思ったけど、線量を考えると消火しないという決断もありだったなと」(当時浪江消防署に勤務 遠藤朗生さん)  現在、富岡消防署の署長を務める遠藤さん。海に面し、原発を抱える双葉消防本部で壮絶な現場を経験しながらも、これからも地域を守りたいと考えています。  「廃炉までがまだまだ安全ではない、予断を許さないところもあるので、この地方で起きた災害には立ち向かって、この地域の安全を守っていきたい」(当時浪江消防署に勤務 遠藤朗生さん) (2021年3月3日 08:02) 原文

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