「2年4か月、何も対策は進まなかった」 via 福島原発告訴団

刑事裁判傍聴記:第8回公判(添田孝史)

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酒井氏は1983年に東電に入社。1986年に本店原子力建設部土木建築課に配属された。それ以降、組織改編で所属先の名前は「原子力技術・品質安全部土木グループ」「原子力設備管理部土木グループ」などと変わったが、ずっと原発の津波や活断層評価の仕事に携わってきた。2006年7月に土木グループを統括するグループマネージャーになり、事故前年2010年6月まで務めた。現在は電力中央研究所に所属している。

酒井氏も、高尾氏と同じように、地震本部の長期評価(2002)に基づく15.7mの津波を想定する必要があると2007年段階から考えていたと証言した。原発の安全性を審査する専門家の意向を踏まえると不可欠というのが大きな理由だった。

ところが慣例として、審査までには対策工事を終えていなければならない。大がかりな対策工事は目立つから、着手する段階で、新しい津波想定の高さを公表する必要がある。東電は運転を止めないまま工事したい。しかし従来の津波想定より約3倍も大きな値を公表した途端、「運転を止めて工事するべきではないか」と、当然住民は思う。それに対し、運転を続けながら工事しても安全だと説得できる理由が見つからない。

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酒井氏は、「(津波対策の工事が必要になることは)120%確実だと思っていました」とも証言した。浸水で壊れた後に冷却再開するため、予備のポンプモーターを用意するなど暫定策が社内で挙げられていた証拠も示された。しかし、そんな簡単で安くて早い対策さえ、事故時まで何一つ実行されていなかった。

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◯カギ握る「武藤氏の1か月半」

酒井氏や高尾氏ら津波想定の担当者らは2008年6月10日に、武藤氏に15.7m想定を取り入れるべき理由や対策工事の検討内容を説明した。酒井氏の証言によれば、この時は説明途中で一つ一つかなり技術的な質問が武藤氏からあり、一時間半ぐらいかかった。

2回目の説明が、約1か月半後の7月31日だった。今度は、ほとんど質問も挟まず30分ぐらいの説明を聞いた後、すぐに武藤氏が対策着手先送り(ちゃぶ台返し)の方針を酒井氏らに伝えた。

酒井氏は「6月10日から1か月以上経っていたから、こういう方向性でものごとを考えられていたんだなと思いました」と証言。そして、それは酒井氏らが考えていた、対策を進めるというシナリオとは異なっていた、とも述べた。

この間7月21日には、武藤氏、武黒氏らが出席して「中越沖地震対応打合せ」(いわゆる御前会議、ただしこの回は勝俣氏は欠席)も開かれていた。この回には、2007年の地震で大きな被害を受けた柏崎刈羽原発の耐震強化にかかる費用が巨額になること、それと同等の対策を福島第一、第二に施すのにかかる費用が「概算900億円、ただし津波対策を除く」と報告されていた。

6月10日から7月31日の間に、武藤氏は何を考え、誰と相談し、「ちゃぶ台返し」の方針を決めたのだろう。巨額の対策経費や、対策工事の間、福島第一、第二の計10基が止まるリスクがあることは、武藤氏の判断に、どう影響を与えたのか。それらを解き明かしていくことが、裁判で今後の一つのカギになりそうだ。

 

 

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