そんなことにこだわっている場合じゃない。とにかく今は非常事態なのだから。
そんな声が聞こえてくる。でも、そうやって小さな違和感にフタをして、あとで落ち着いてから話せばいいという「後回し」を、いろんな所で、何回もやってきた気がする。
3・11以降、脱原発デモやエネルギーシフトパレード、国会議員会館での院内集会や交渉に行って、あるいはツイッターやネットの情報を読んでいて、そしてマスコミ報道、政府や関係機関の対応をみていて、感じてしまう違和感。それは「母」の使われ方だ。
まずは、私が原子力発電に反対しなければと思った一九八〇年前後、心に響いた文章を紹介したい。
当時の「盛り上がり」に対して、「母として反対する」というトーンになじめない、「母であろうがなかろうが、女であれ男であれ、一人の人間として原発に反対したい」という意見もあった。同時に、放射能の影響で「奇形が生まれる」という表現に危機感を持つ障害者もいた。堤愛子さんはこう書いている。
「『お化け』であれ『巨大』であれ、タンポポの『奇形』を強調することによって放射能汚染の恐怖をあおり立てることに、私は言いようのない苛立ちとたまらなさを感じる。(略)『障害者』に対する恐怖感や差別感、『自分はあんなふうにはなりたくない』という意識が人々の心にしみついていたからこそ(また母性が強調されている時代だからこそ)、本書[引用者注:『まだ、まにあうのなら』]はこれほど多くの人々の共感を得、広がっていったと思うのは、うがった見方だろうか。(略)かけがえのない生命をおびやかすものに対しては、私も断固反対する。公害然り、原発然り。そして『障害者はかわいそう』『障害児なんて産みたくない』とする考え方や、『障害』を恐怖の象徴に仕立てようとする人々の意識も、『障害』をもつ人々のかけがえのない生命と人生をおびやかすものとして、やはり『反対!!』といいつづけていくつもりだ」(堤愛子「ミュータントからの手紙」『クリティーク』12号、一九八八年、青弓社より)
反原発運動をしていた人のなかにも、こういう意見がある。伊藤書佳さんは、「ワタシは、障害のある子が生まれるから、かわいそうだから原発を止めなくちゃ、というふうにははっきりいって思えない。障害を持っている人のことを不幸だとは思わないし、障害のない人なんていないんじゃないかとも思う。(略)だけど、人のつくった放射能によって、遺伝子が傷つけられたりして、障害をもった子が多くなったり少なくなるのは、話がべつ。そういうことで自然のバランスがくずれるっていうのは大問題だ。」
と『超ウルトラ原発子ども』(ジャパンマシニスト社、一九八九年発行)で書いている。