◆漫画家 手塚治虫さん(1989年死去、享年60)
◇科学の子の哀しみ 「欲望の結末」問い続け
「アトムが住んでいた」という街に出かけた。都電に揺られて。
池袋の隣町なのに、時が止まったようなたたずまいが残る東京都豊島区雑司が谷の鬼子母神前。セミの声が降るケヤキ並木から入った路地に、手塚治虫さんが1950年代に暮らした2階建てアパートがある。
55年の雑誌「少年」新年号の付録「鉄腕アトム」表紙裏には、アトムから読者への手紙という体裁で、こんな一文がある。
<いま、ぼくは東京の雑司ケ谷に、一年あとで生まれた、ロボットのおとうさんとおかあさんといっしょにすんでいます>
(中略)
「アトムについては、原子力関係の方からキャラクターとして使いたい、という話がずいぶんありました」。新宿区高田馬場、アトムの石像が正面玄関で出迎 えてくれる手塚プロダクションの一室でこう語るのは松谷孝征さん(66)。出版社の「手塚番」編集者から、マネジャーとして73年に手塚プロ入社。85年 からは社長を務める。最晩年に至るまでの手塚さんの仕事ぶりを知る人物だ。「でも、手塚は『原発は安全性が確立されている技術ではない。まして人間が管理 している。人間は間違いを犯すものだ』と言って、原発関係は一切断っていました」
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