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【関電原発マネーの闇】(中)貧しかった街が…原発と歩んだ立地町のジレンマ via 産経新聞

(略)

 「親から小遣いなんてもらったこともない。新聞配達で稼ぐ、そんな子供ばかりだった」。町内の自営業の男性(72)は、原発建設以前の昭和30年代をこう振り返る。

父は漁師だった。だが船が小さく、満足な漁獲も得られない。土木作業で日銭を得る毎日だった。

懐中時計を質店に持ち込み、金を受け取る。そんなおつかいを頼まれたこともあった。「貧しかったのは私だけでない。町のあちこちが苦しかった」

町は小さな農村や漁村ばかりで、主だった産業はない。企業誘致もままならず、働き口を求めて若者は都市部に流出した。

そこで起死回生の策が持ち上がった。原発の誘致だった。

高浜原発1号機は49年に運転開始。50年に2号機が稼働し、60年には3、4号機が続いた。

「関電の仕事の方が給料が高くて、地元住民はみんなそちらで働いた。人手が足りないと地元業者に泣きつかれたこともあった」。57年から平成8年まで町長を務めた田中通(とおる)氏(93)が語る。

県道の整備、貿易港の開港…。原発建設を機に町は一変した。数々の恩恵を町誌はこう刻む。《財政規模は増大し、町は飛躍的に発展した》

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地元で高浜原発誘致の立役者とされる元助役の森山栄治氏(故人)は関電にとっても「功労者」だった。

「先生のおかげでこのように立派になることができました」

関電の原子力事業本部(同県美浜町)の幹部の1人は、異動で本部を離れるにあたり森山氏の元にあいさつに出向いた。高浜原発の地元対策を図る上で重要な人物だったからだ。

それゆえ、関電は原子力事業本部に森山氏との窓口となる担当者を置いた。

森山氏は担当者からの連絡がしばらく途絶えたり、休日に電話してつながらなかったりすると激怒した。それでも関電は、森山氏との良好な関係が欠かせないと考えていた。幹部であっても担当者はへりくだるように接するしかなかった。

原子力事業を円滑に進めるため-。町の「大物」はこうして作られていった。

原発の建設や運転、再稼働には地元合意が不可欠だ。一方、原発が立地する自治体には国の交付金や電力会社からの税収などのメリットがあり、持ちつ持たれつの関係を築いている。人口約1万人の高浜町では、100億円ほどの一般会計のうち原子力関連収入が50%を占める。

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今回の不祥事を受けても、関電が原発事業を進める上で地元への配慮は無くすことはない。廃炉が決定している美浜原発1、2号機(美浜町)についても、地元で相談会などを開いて関連工事などの発注を増やす方針だ。

全文は【関電原発マネーの闇】(中)貧しかった街が…原発と歩んだ立地町のジレンマ

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