太平洋戦争中に旧日本海軍から原爆研究を委託された京都帝国大(現京都大)の荒勝文策研究室が、ウラン濃縮の遠心分離装置開発に取り組んでいたこと を示すノート3冊や関連資料が24日までに、京大放射性同位元素総合センター(京都市左京区)で見つかった。京都帝大による原爆開発の全容は、終戦直後に 連合国軍総司令部(GHQ)が一切のデータや研究ノート類の提出を命じ、押収した資料は米国で機密指定されていたため、明らかになっていない。なぜ押収を 免れたかは不明だが、秘められた日本の原爆開発と科学技術史を検証する上で、貴重な発見といえる。
[…]
京都帝大の原爆開発は43年に旧海軍が委託し、fission(核分裂)の頭文字を取って「F研究」と呼ばれていた。海軍がウラン鉱石を提供したとの複数の記録や証言がある。遠心分離法によるウラン濃縮を目指したが、終戦までに完成しなかった。
京都帝大は戦中、原子核物理の研究に用いる円形加速器「サイクロトロン」の建造中だった。終戦後にGHQは「原爆開発につながる」と破壊し、荒勝研のデー タやノート類は米軍が持ち去ったとされる。戦後見つかった荒勝研資料は、米議会図書館で2006年に発見された清水氏らの加速器開発過程のノート2冊な ど、ごく限られている。
また京大総合博物館では関係者遺族が寄贈した資料の中から、サイクロトロンの図面を見つけた。
日 本における戦中の原子核研究に詳しい政池明京大名誉教授は「荒勝教授らは、この戦争中に原爆は完成しないだろうと考えていたようだ。一方で、ノートと資材 リストの発見はウラン235の分離、濃縮に向けて実際に遠心分離装置を作ろうとしていたことを裏付ける貴重な証拠となる」と話している。
<原爆とウラン濃縮>第2次大戦中に旧日本陸軍は理化学研究所の仁科芳雄研究室に、海軍は京都帝大の荒勝文策研究室に原爆の研究開発を委託。原爆の製造に は原料のウラン鉱石から、ウラン235の濃度を90%以上に分離・濃縮する過程が必要と言われる。仁科研究室は「熱拡散法」で、荒勝研究室は「遠心分離 法」で分離を試みようとしたとされる。戦局の悪化で、海外から十分な量のウラン鉱物確保が難しく、京大は終戦までに完成しなかったとの見方が通説になって いる。