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福島第一原発から約6キロ、ある家族の「一時帰宅」に同行した via Business Media 誠

東日本大震災から4年が経ったが、原発事故で避難生活を続ける人たちはどうしているのだろうか。筆者の烏賀陽氏は、ある家族の「一時帰宅」に同行、そこで目にしたものは……。

(略)

西原さん夫妻はワゴン車のエンジンをかけて待っていてくれた。1月、東京圏のボランティア団体「ウシトラ旅団」に同行して、泉玉露団地のもちつき大 会を取材に来た。その時に紹介してもらったのが西原さん夫妻だった。千賀子さんは、もちをこね、きな粉やあんこをまぶす奥さんたちの間をてきぱきと走り 回っては、全体の作業を前に進めていた。仮設団地の役員なのだろう。世話好きな人に見えた。

「ひとつだけ条件があります」

一時帰宅に同行させてもらえませんか、とお願いすると千賀子さんは厳しい声で注文を出した。

「今までいろんな新聞や雑誌が取材に来たんだけど、東京新聞以外はどこも掲載した紙面を送って来ないのよね」

(略)

「あなたみたいに、事故の後に東京から来た人は『フクイチ』『フクニ』って言うでしょ? 地元じゃ違うのよ。『イチエフ』『二エフ』って言うのよ」

清士さんは助手席でうなずいている。

聞けば、清士さんはバルブ検査の会社で長年働いていたという。福島第一原発、第二原発とも「職場」としてよく出入りしていた。1990年に福島第一原発6号原子炉の工事のときに東京から富岡町に引っ越してきた。

「それからずっと、原発のお仕事ばっかりでしてね」

清士さんは笑った。地震当日も、午前中まで「イチエフ」で仕事をしていた。午後は半休を取って自宅に戻ったので、難を逃れたという。

私はあまり驚かなかった。福島県太平洋岸部では原発関連の仕事をしている人は非常に多い。原子力や電力に直接関係がなくても、トラック輸送や電設 工事でも原発関係の仕事はある。これまで避難者の取材で何人もそういう人に話を聞いた。原発の仕事をしていたのに、その原発の事故で家を追われるというの は痛々しい話に思えた。2つの原発はここ「浜通り」地方では数少ない大きな仕事先だったのだ。

(略)

「向こうはこっちのクルマのナンバーを記録してるんだから。何があるか分からないでしょ?」

千賀子さんが言った。私は黙っていた。原発事故の責任を負う行政が強圧的で、家を追われた被害者が彼らに遠慮しているのも奇妙だと思ったが、ここでそれを議論してもしょうがない。

(略)

一時帰宅は半年ぶりだ。2014年から年に15回ほど帰宅できるようになった。それまでは3カ月に一度ほどだった。

しかし、頻度は徐々に減っている。高い線量のため、1回の帰宅が5時間に制限されているのだ。それもチェックポイントから入り、出るまでが5時間 である。午後3時ごろには出て、被ばくした線量のチェックを受けなければならない。家まで行っても、とても片付けきれないのだ。そして次は数カ月後、いつ 帰宅の順番が回ってくるのか分からない。

全文は福島第一原発から約6キロ、ある家族の「一時帰宅」に同行した 

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