(抜粋)
原子力については、昔から、あらゆる分野の知見を総動員した異様に難解な論戦が展開されることになっている。
それゆえ、素人には、ほとんどまったく意味がわからない。
が、実際のところ、原子力議論の難解さの大きな部分は、対立する立場の人々が、互いに議論を有利に運ぶために科学技術や政治学上のテクニカルタームを援用しまくっているという、論争技術上の問題として発生しているものに過ぎない。要は目眩ましなのだ。
その「目眩まし」の部分をのけて観察すれば、議論は、いつでも「マッチョ」の周辺にある。原子力発電を推進しようとしている人々の共通項は、「マッチョ」というところにある、と、少なくとも私は、かように考えている。
理由は、私自身が、原子力のパワーに魅力を感じているからだ。
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