(朝日新聞 2011年4月28日) 震災とことば
新聞掲載からもう二ヶ月ちかく経ちますが、あえて乗せます。
東北を地震と津波が襲った3月11日から何日かたって、東京から新幹線に乗った人がいた。車両では、子ども、というか赤ん坊をつれた母親ばかりで、通路には、何台もの乳母車(バギー)が置かれていた。その人は、最初、母親と子どもの団体が乗りこんだものと考えた。だが、通過する駅ごとに、母親と子どもが消えてゆくのを観て、偶然、同じ列車に折り合わせただけだとわかった。母親たちは、手短かに情報を交換し、「義援金を送ったわ」といい、それから、目的地に着くと、「ごきげんよう」と残る母親にいって降り立った.破壊された原発から流出した放射性物質による汚染を恐れて「疎開」する母親たちだ。その人は、母親たちが、情報を鵜呑(うの)みにすることなく、自分の「身の丈」に従って取捨選択し、行動している様子を、好ましい、と感じた。そうわたしに話してくれたのは、66年前の3月10日、東京大空襲で10万人が亡くなったとき、炎の中を逃げまどい、かろうじて生き残った人だった。