(核リポート 原発銀座:4)「脱原発」叫ぶだけでは via 朝日新聞

敦賀半島の北西、敦賀市・白木地区。元区長の橋本昭三さん(85)は毎朝5時になると、和室の机に向かう。硯(すずり)の墨汁を含ませた毛筆を手に取り、和紙に郷土史「白木の里」をつづる。20歳の元旦から書き始め、65年続ける日課だ。書き連ねた和紙は4万1200枚にものぼる。「5万枚になったら本にまとめたいね」と話す。

白木地区の名は朝鮮半島の古代国家・新羅に由来するとされる。住人は15世帯約80人。世帯数は江戸時代から変わらないという。海岸近くまで崖が迫り、平地は猫の額ほどしかない。集落は棚田を開墾し、半農半漁の生活を営んできた。しかし、生活苦は抗しがたく「分家禁止」を申し合わせ、今も固く守られている。

敦賀市の中心街にも西隣の美浜町にも、山越えか舟に乗って繰り出すしかなかった。冬は日本海の荒波で出港もままならない。「病人が出たら背中にかついで峠を越えた。かんじきで雪道を歩くと一日仕事。生きること自体が大変だった」と橋本さんは振り返る。

陸の孤島」と呼ばれた敦賀半島は、1970年に節目を迎えた。この年の3月、半島の東側で日本原子力発電敦賀原発1号機が営業運転をはじめ、大阪万博の会場に「原子の灯」を送る。同11月には半島の西側に関西電力にとって初の原発となる美浜1号機も運転開始した。

原発ができた集落に港ができ、道路が舗装され、補償金で家々が立派になっていった。その変化をまざまざと見せつけられたのが、出稼ぎの白木地区の男たちだった。

70年2月11日の夜のことだ。当時、白木区長だった橋本さん宅に、3人の男が突然訪ねてきた。旧動力炉・核燃料開発事業団(現・日本原子力研究開発機構)の職員と名乗った。「ここに新しい原発を造りたい」。もんじゅ建設の申し入れだった。

「立ち退きか」。集落の世帯主15人が一堂に集まり、反対の声が上がった。しかし、内心は違った、と橋本さんは言う。「心の底では、みな、この機 会を失えば、集落はいずれ消えると思っていた」。翌71年、旧動燃は建設予定地を集落の東約1キロの棚田への変更を伝えてきた。「集団離村しなくて済 む」。住民一致で誘致を決めた。

白木地区はみるみるうちに変わった。港と防波堤ができ、道路がつながり、もんじゅで職を得た。「これで、子どもたちが将来を選べるようになった」。橋本さんは区長の責任を果たしたと思った。

もんじゅは、発電で消費した以上の燃料を生み出す「夢の原子炉」――。国と旧動燃はそう説明した。「資源の少ない日本のエネルギー事情を考えると必要な施設。それも、他のどこにもない施設」。橋本さんはもんじゅに特別な感慨を持った。

(略)

もんじゅは2014年度当初予算で、投じられた国費がついに1兆円を突破した。

安全性への不信感、経済性の悪さから、もんじゅは脱原発に取り組む人たちにとって、特別な対象となる。2013年12月にはもんじゅを望む白木地区で集会が開かれ、全国から集まった約1千人が廃炉を訴えた。

政治家、官僚、事業者、脱原発の市民ら……。その姿を、原発のすぐそばで暮らす人たちの多くが冷ややかにみる。「反対であれ、推進であれ、一度でも集落に入って、地元の住民と直接話そうとする人はほとんどいない」と、橋本さんは嘆く。

2012年7月の関西電力大飯原発の再稼働でも、反対する多くの人たちが全国から集まった。このときも、地元のおおい町民も冷淡な反応だった。橋本さんは「われわれの暮らしを見ようともしないし、話を聞こうともしない。それで理解しろというのは難しい」と話す。

交通の不便な所に、原発はある。何度となく安全性を揺るがすトラブルに直面しながらも原発を容認してきた。地元の人たちにとって、頭ごなしの原発の否定は、原発を受け入れてきた長い歩み、葛藤や不安を否定されるに等しい。

今年1月、脱原発を主張する自民党の衆院議員がもんじゅ視察のため配車を依頼したところ、地元のタクシー会社に拒まれた。この会社は作業員を原発に送迎するバスも運行している。菅義偉官房長官は「言語道断」と強い言葉で批判した。一方で、河瀬市長は「追い詰められた市民の気持ちが誤った形で表れてしまった」と話した。

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