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アーサー・ビナード 「広島70年式典の言葉について」(2015年11月 滋賀県近江八幡市)via Facebook

70年たって、広島では被曝体験をどのように語り継ぐかを色んな人が議論し行政も取り組んでいる。 今年、平和記念式典で語り継ぐ「演出」のようなものがあった。 これまで、今年の8月6日の式典ほど整ったものはなかった。滞りなく、つつがなく、すべてがスムーズに進んでいった。 あんまりにも整っていたから、電通か博報堂のスピーチライターを雇ったんじゃないか、と思う。うまい人がつくったキーワードは「命」。 「命」はすべてのスピーチに入っていた。少しずつ違う表現だったけど。スピーチライターが書いていることがばれないように、少しずつずらした。 市議会議長は「多くの尊い命を失った」。安倍総理大臣は同じ「とうとい」という言葉を使ったけど、漢字が違う。「一発の原子爆弾により、十数万人にものぼる幾多の貴い命が奪われ」と言った。市長は「その年の暮れまでに、かけがえのない14万もの命が奪われ」。みんな「奪われ」という動詞を使っている。 子どもたちが読んだ平和への誓いでは、「一発の原子爆弾が、建物、自然そして、たくさんの人々の大切な命を奪いました」。 全員、「命の大切さ」を言うことで、さも70年の節目の年に、命を大切に語り継ごうという演出。でも、細かく耳をかっぽじってきくと、違う意図があることに気づきます。 市長のスピーチは「私たちのふるさとには温かい家族の暮らし、人情あふれる地域の絆、季節を彩る祭、歴史に育まれた伝統文化や建物、子どもたちが遊ぶ川辺がありました。1945年8月6日午前8時15分、そのすべてが一発の原子爆弾で破壊されました。その年の暮れまでにかけがえのない14万もの命が奪われて……」と続く。 僕はクスノキの下で聞いているんだけど、松井さんがこれを読み上げた時に、広島の観光客のパンフレットを間違えて読んでいるのか、と思った。だって、これ、現在形だったら、今の広島に来てくださいね、って内容ですよね。でも「ありました」。過去形です。 これを、その通り受け止めると、広島という町は1945年8月6日まではパラダイス、こんないいところはない。広島という町は原爆投下の瞬間までは、温かい家族の暮らしと人情あふれる地域の絆があって、川辺で子どもたちが遊んでいる町だったんだよ?どうですか?この歴史認識、正しいですか?広島ってそういう町だったのかしら?僕はどうも、その時代は体験していないし、日本に来ていなかったけど、どうも僕の知ってる広島とは違うと思うんだ。広島が嫌いになったんじゃないよ。でも、1945年8月5日の広島は、家族の温かい暮らしと絆ではないような気がする。1940年も35年も30年も、どこまでさかのぼっても桃源郷の広島は見えてこない。 1945年8月5日の広島がどういう町だったかというと、日本第二の軍都です。東京が一番で、広島は西日本で一番の軍の都だった。軍の拠点です。三歩歩けば軍事施設にあたる町。平和記念式典が行われる場所が見えることころに練兵場があって、その練兵場で毎日毎日毎日毎日、他国の人を大量虐殺する練習を兵士たちがやっていて、広島で訓練を受けたやつが海を渡って、大量にアジアで人を殺したのが広島だった。広島は軍需産業で経済が回っていた。広島の経済はすべて軍需産業、人殺しの帝国の経済。温かい「貴族」の暮らしはあったかもしれない。でも、「家族の絆」なんて話をしている人は誰もいなかった。1945年8月5日の広島は「本土決戦」に備えて、一億総玉砕という言葉が飛び交っていて、そのために子どもたちを強制労働の現場に送り込んでいた。12歳、13歳、14歳の子どもたちが建物疎開という愚かな無意味な悪質な詐欺の作業をやっていた。建物疎開が何かというと、焼夷弾が降ってくると町が燃える、町が燃えると金持ちの家とか軍の施設まで燃える。それは困る。庶民の家が燃えても、庶民が全部失っても知ったこっちゃないけど、軍の施設は守りたい。そのために貧乏人の家を貧乏人の子どもに壊させるのが建物疎開。で、7000人ほどの12~14歳の広島の子どもたちが、上から軍から命令を受けて、8月6日の朝8時に、現場に入って解体作業をやっている。その子たちが全滅なんです。 誰が殺した?もちろん、原爆による大量殺戮をやった米政府が殺したんだけど、でも、それはいわば日米共同演習。松井さんだって、責任から逃れることはできないんだよ。松井さんは「かけがえのない14万もの命」と言った。1945年8月5日に、もし僕がタイムマシンで戻って、桃源郷の広島に戻って、僕が広島の人たちに「みなさんの命はかけがえのないものです」と言ったらどうなる?憲兵が来て、僕が捕まってぶちこまれる。学校現場で「貴い命」という言葉は絶対言っちゃいけない言葉だった。貴い命、かけがえのない命なんて1945年8月6日の8時の時点で広島に貴い命なんて、一片もない。 貴い命があるとしたら、それは千代田区一番町1の1それだけなんだ。あとは貴くない。日本国民は貴い命じゃない。貴くなりたかったら、命を捧げて靖国神社に行くのがいいんです。貴い存在になりたかったら、1945年には、他国にいて、大量に人を殺して、国のために虐殺して、運良く死んで靖国神社にまつられたら、あなたは貴い存在になれるんです。それが唯一の貴い命になる道です。だから貴い命は大本営発表では放送禁止用語。言えない。1945年8月6日午前8時15分の時点で貴い命という言葉は言論空間には存在しない。安倍さんが「この貴い10数万もの命」と言ったけど、噓八百。思ってないし、本人も。僕らの命が貴かったら、初めから、福島県や福井県に原発は作らない。僕らの命が貴かったら、安保法制は通さない。僕らの命が貴かったら、一億総玉砕とか一億総活躍とか言えない。もし、僕らの命が貴いって、この人たちが思っていたら、ああいう「演出」にはならなかった。 […] 日本政府と日本の企業、広告代理店はみなさんが永遠に、被爆者や戦没者のことを上から目線で見るようにしかけてくる。広島の被爆者、長崎の被爆者、福島の被曝者、セミパランチスクでずーっと被曝に苦しんでいる人、こういった各地でもっともっと増えるヒバクシャを自分とは違う存在として見るようにしかけてくる。米軍の兵士たちがどうして、長崎や広島のヒバクシャと連携しなかったのか、どうして戦後あれだけの米兵が同じように放射能にさらされて被曝させられて、大連合ができなかったのかというと、米兵の一人一人の心理の中には、勝ち組と負け組という観念、これで戦争を終わらせた、大変なことを成し遂げたという勘違いにだまされて、それで現地に入ってみたら長崎の人と同じように被曝した。それでも、長崎の人の被曝と自分の被曝が同じと捉えると、自分たちがやられた、自分たちが負けた、自分たちが被害者となる。その線を越えたくない。そう思いたくない。 それをどこまで僕たちが意識するか。そこに自分たちが立てれば、歴史の認識を見抜くことができる。 安倍総理は8月14日に、8月6日のあいさつと関わる「70年談話」を発表した。 「日本では戦後生まれの世代が人口の8割を超えています。あの戦争にはなんら関わりのない私たちの子や孫に、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わすつもりはありません」 あの戦争にはなんら関わりのない子や孫。 マスコミがちょっとだけ騒いだのは、「謝罪を続ける宿命を背負わすつもりはありません」。でも、僕はここはどうでもいい。みんなが素通りする言葉に僕は衝突した。 「あの、戦争には、なんら、関わりのない、子や孫」。 僕はここにひっかかった。 あの戦争に何ら関わりのないものは、この地球上に一つもないんだ。あの戦争の影響は今も、世界中で続いている。なのに、安倍さん、あなたは総理大臣であることはあの戦争とは何の関わりもないというんですか?岸信介は満州の植民地化と関わりないんですか?あなたの副総理の麻生さんの財産は、あの戦争とは関わりがないんですか?朝鮮人の強制労働と何の関わりもないことなんですか?あの戦争と関わりのないことは一つもないんです。その最たるものが被曝。いま、福島で日本民族がむしばまれていることはあの戦争、あの原爆と直結しているんです。長崎に落とされた爆弾と同じ原理の装置で、原発が運用されているんだから。そして原発、核開発は同じ人脈、同じ顔ぶれで延々と続いている。自民党の一握りの人たちがずーっとそれを握っている。だから、安倍総理は、「気にしなくていいんだよ、忘れていいんだよ」といった。それは「忘れて被曝しなさい、忘れてみんな地獄にいきましょう。忘れて無人の地球のまわりをぐるぐる回りましょう」とそういう道筋を安倍総理は日本の未来として、示している。 […]   続きは アーサー・ビナード 「広島70年式典の言葉について」(2015年11月 滋賀県近江八幡市)

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原爆症訴訟判決 裁判をしなくてもすむ制度にvia しんぶん赤旗

広島・長崎の被爆者が原爆症と国に認められなかった処分の取り消しを国に求めた「ノーモア・ヒバクシャ訴訟」で、東京地裁は6月29日、被爆者の原告6人全員の病気について原爆症と認定する判決をだしました。昨年10月、被爆者17人全員が勝訴した同地裁判決に続く重い判決です。平均年齢80歳を超えた被爆者をいつまで司法で争わせるのか。国は控訴を断念し、速やかに認定すべきです。 国の「線引き」の転換迫る  原爆症認定制度は、原爆の放射線が原因とされる被爆者の病気やけがについて、医療を受ける必要があるときは、全額国の負担で医療の給付が受けられ、約14万円の医療特別手当を受給することができる仕組みです。  判断するのは厚生労働相ですが、被爆者健康手帳所持者約17万4000人のうち認定されたのは8500人余、5%未満です。爆心地からの被爆距離が近いほど浴びた放射線量が多く、病気が発症しやすいとの考え方にもとづいて、がんなら3・5キロメートル以内の被爆者を「積極的」に認定するという厳しい「線引き」があるからです。  訴訟の原告も、認定基準よりも遠くで被爆した人、基準では「積極的」に認定する病気から外されている人がほとんどでした。  東京地裁判決は、「放射性物質による放射線が人の健康に及ぼす危険については科学的に十分解明されていない」として、被爆者の病気が原爆放射線によるものかどうかの判断(放射線起因性)についての基準は「いわば一般的な目安として定められたものにすぎない」から、「各数値を形式的に充足しないからといって、直ちに放射線起因性が認められないことにはならない」と断じました。  形式的な線引きを使い、病気に苦しむ被爆者を切り捨てる国の認定行政の転換を迫った判決です。  被爆者が浴びた原爆放射線量を軽く、小さく、狭いものとして、初期放射線の影響しか認めようとしない認定行政のあり方が改めて問われます。誘導放射線や放射性降下物からの残留放射線の影響を低く評価するやり方は非常に問題です。被爆者が71年前に浴びた放射線量は、多くが未解明です。  今回の地裁判決が指摘したように、放射線が人の健康に及ぼす危険も科学的に十分解明されていません。これまでの司法判断が示してきたように、被爆の状況やその後の健康状態の変化など、総合的に判断することこそ必要です。  2009年、国は被爆者との間で、「今後、訴訟の場で争う必要のないよう解決を図る」ことを約束したはずです。これを反故(ほご)し続けることは、もはや許されません。 […] もっと読む。

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「黒焦げの少年」身元判明か 長崎原爆 妹2人名乗り出て鑑定 「71年かかりやっと会えた」 [長崎県] via 西日本新聞

 長崎原爆の写真調査を続ける長崎平和推進協会写真資料調査部会は13日、長崎原爆の投下翌日に爆心地近くで撮影された「黒焦げとなった少年」に写っている人物が、長崎市岡町の当時中学生の13歳、谷崎昭治さんの可能性があると発表した。昨夏、写真を見た谷崎さんの妹2人が「兄ではないか」と名乗り出たため、同会が専門家らに依頼し鑑定した。被爆から71年、原爆の悲惨さを世界に伝えてきた写真の少年が誰なのか、解明に近づいた。 写真は1945年8月10日、写真家の故山端庸介さんが撮影。故伊藤一長前長崎市長が95年、オランダ・ハーグの国際司法裁判所で写真を掲げて陳述し「この子たちに何の罪があるというのでしょう」と訴えたことで世界的に知られた。長崎原爆資料館でも常時展示されている。 被爆70年の昨年、谷崎さんの妹で長崎市大宮町の西川美代子さん(78)と同市住吉町の山口ケイさん(76)は長崎市であった原爆写真展を訪れ、写真を見るなり「兄ちゃんだ」と声を上げ、思わず2人でなでたという。引き延ばされた写真だったため、顔がはっきり確認でき、兄昭治さんの面影と重なったという。 […] 13日に記者会見した西川さんは「兄と信じていた。71年かかって、やっと(きょうだい)みんなで会えたという気持ち」と感慨を語った。 昭治さんは45年4月、実家の旧瀬戸町(現長崎県西海市)から下宿し、旧瓊浦中(長崎市竹の久保町)に進学。8月6日の広島原爆を受け、父の故己ノ作(みのさく)さんが帰省を促したが「9日に試験がある」と断り、原爆で亡くなったという。 全文・写真は 「黒焦げの少年」身元判明か 長崎原爆 妹2人名乗り出て鑑定

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広島とオバマ大統領 守るべき一線 譲ったのか 神戸市外国語大准教授・繁沢敦子 via 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター

広島とオバマ大統領 守るべき一線 譲ったのか オバマ大統領の勇気ある決断を支持したい。一方で、その記念碑的な瞬間を前に手放しでは喜べないのも事実だ。 謝罪抜きの訪問だからではない。原爆を投下したことについて米国は謝罪すべきだと私は思う。しかし、これまでの背景をいくらか知る一人としては、公式謝罪は期待できないことを理解している。 問題は「被爆者は謝罪を求めていない」という言葉が一人歩きしていることだ。  それを根拠に、広島市長や政府要人が謝罪を求めないことを明らかにし、結果的にその言葉がオバマ氏訪問の交換条件として機能してしまった。「謝罪」を巡って米国側と議論にもならないまま、いや、むしろそれを避けるために、日本国内で一方的に言説がつくられた感がある。 米国との駆け引きというより、国内の世論操作を通じた米国への協力だったのではないかという印象さえ受ける。 確かに、謝罪は求めないと明言する被爆者もいる。恩讐(おんしゅう)を超えてそうした心境に達した人の言葉には感動を覚える。一方で、米国に過ちを認めてほしいとする声や謝罪を求める声も存在する。しかし、憎しみや恨みといった負の感情は表に出したくないというのが人間のさがだろう。最も個人的な部分の感情であり、一見の取材者に露呈できるような話でもない。 盛り上がるばかりの歓迎ムードに水を差すことはしにくい。過去にこだわることを「前に進めない」「乗り越えられない」ことと同等に捉える風潮もある。こうした繊細な事情が考慮されないまま、一つの言説が集団の総意として演出されてしまったのではないか。 その下地は少し前からつくられていた。「被爆者は謝罪を求めていない」という言葉は2008年ごろから聞かれるようになった。全米原爆展を開催していた時期で、投下を巡る問題よりも、核拡散や核廃絶の問題に米市民と協調して取り組むことが優先されたということもあろう。それゆえに、守るべき一線を譲ってしまったのではなかったか。今回の言説の伏線になったように思えてならない。 「原爆と検閲」の研究をしていると、軍や行政機関による検閲と、書き手や編集者による自己検閲の違いを問われることがある。制度にのっとって行われたか、誰が行ったかという点を除くと、両者を区別するのは難しいことも少なくない。自己検閲といっても裏では権力による圧力が働いていることが多いからだ。  検閲ではないにしても、今回の問題では同様の力が働いた可能性がある。一定の立場にある人物の発言には、それに反する趣旨の発言を封印するだけの力がある。 集団の威を借りるレトリックも用いられた。恐らくは周囲の数人が述べた言葉が「多くの人」が言ったことになり、次には「大多数の人」が言ったことになる。それを政府の要人が「私たち」という主語で語ることで「日本人の総意」になってしまうのだろう。 安倍晋三首相は14日、「原爆や戦争を恨まず、人の中に巣くう『争う心』と決別する」訪問にしたいと述べた。しかし、原爆や戦争を恨む心と争う心はまったく違う次元のものだ。原爆と戦争を恨む心が、次の世代に自分たちと同じ目に遭わせたくないという反戦反核運動を育んできた。オバマ氏も唱える「核兵器のない世界」に向けて先駆けて活動してきたのは、こうした人々であることを忘れてはならないだろう。 続きは 『今を読む』 神戸市外国語大准教授・繁沢敦子

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原爆投下正当化論、米の若い世代に変化の兆しも via TBS

[…] 戦後50年の節目に、博物館はエノラ・ゲイとあわせて、被爆資料を展示する原爆展を企画します。しかし、退役軍人を中心に、日本は一方的な被害者ではないと批判が巻き起こり、結局、事実上の中止に追い込まれました。 「アメリカの人たちにとって、キノコ雲の下で何があったのかということが消えてしまう」(被爆者 沼田鈴子さん〔故人〕) […] 「日本では原爆の話が、炸裂した午前8時15分に始まる。原爆開発施設を保存することで、日本の人たちは、なぜアメリカが化け物のようなものをつくらざるを得なかったか、理解できるでしょう」(アトミックヘリテージ財団 シンディー・ケリーさん) ただ財団は広島・長崎の被害に関する資料は、ほとんど収集できていないと言います。 「さまざまな見方があることを考えなければなりません。71年後の現在の見方に偏ることなく、私たちがどこに向かおうとしているか考えなければいけません」(アトミックヘリテージ財団 シンディー・ケリーさん) アメリカで重視されてこなかった原爆による被害。しかし、ニューヨークで原爆投下について聞くと、意外な答えが返ってきました。 「米メディアは第二次世界大戦をロマンチックに語る傾向があります。メディアが伝えることを検証し、疑問をもつことが常に必要です。私は罪や責任が全くないとは思いません」(大学生) 去年、イギリスの調査機関が発表した世論調査では、原爆投下を正当だったとするアメリカ人は、誤りだったという人を大幅に上回っています。しかし、世代別に見ると、40代半ばより若い世代は、その割合が逆転しています。若い世代になるほど、誤りだったという認識が広がっていることがわかったのです。 シカゴにあるデュポール大学です。ここで学ぶ学生は、若い世代の原爆観の変化をどのように考えているのでしょうか。 「第二次世界大戦中、私の祖母は私と同じくらいの年齢で、そのころ、日本はアメリカの敵国でした。そしてメディアも、そういった報道をしていました。今の私たちはもう少し中立的な立場です。なぜなら、戦後世代の人たちとも話し合う機会があるからです」(学生) 「今ははるかにグローバルなコミュニティーがあります。インターネットでも調べられるし、さまざまな情報がYouTubeにもあります。上の世代は、『これが正しい』『こうしなければいけない』と言われてきました。私たちはもっとリベラルに育ち、広い視野をもって育てられています」(学生) 広島市出身の被ばく2世で、デュポール大学の宮本ゆき准教授は、就職など現在や将来に不安を抱えるアメリカの若い世代が、従来の固定概念に疑問を持ち始めていると指摘しています。 「原爆に対して懐疑的に見る。上から来る大きな物語に対して、懐疑的に見られるようになった」(宮本ゆき准教授) もっと読む。 動画はこちら。

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広島大学医師 双葉郡に派遣へ via NHK

(抜粋) 東京電力福島第一原発が立地し原発事故の影響が今も続く双葉郡では一部の町や村で避難指示が解除されましたが、帰還する住民などのための医療体制の構築が課題になっています。 こうしたなか原発事故の直後から被ばく医療などの分野で支援してきた広島大学が、ことし、「福島医療支援センター」を設け秋から双葉郡の地域医療に携わる医師を派遣することになりました。 26日は、報告のために広島大学の神谷研二副学長が県庁に内堀知事を訪ねました。 このなかで神谷副学長は「双葉郡の地域医療を長期的に支援していく」と述べて今年度、県立医科大学に設置された「ふたば救急総合医療支援センター」に医師2名が出向して訪問診療などの支援に当たることを説明しました。 これに対して内堀知事は「復興に資する支援に感謝します」と応じました。 また会談では、県立医科大学の担当者が、救急医療体制の強化のため、6月1日から平日の日中、楢葉町にある消防署の分署に医師を常駐させることも明らかにしました。 全文は広島大学医師 双葉郡に派遣へ

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中沢啓治さん 「ゲン」から米大統領へ…生前の手紙発見 via 毎日新聞

被爆者の声を聞いて  実体験に基づき原爆の悲惨さを描いた漫画「はだしのゲン」の作者、故中沢啓治さん(2012年に73歳で死去)が、オバマ米大統領に宛てて09年に書い た手紙が見つかった。核なき世界を訴えた演説への感銘をつづり、広島と長崎を訪ねて被爆者の声を聞くよう求めている。手紙は当時大統領に届かなかったとみ られるが、中沢さんの妻ミサヨさん(73)は「夫が『見つけてほしい』と訴えたのかもしれない」と話し、大統領の広島訪問実現を喜んでいる。【石川裕士】 (略) ミサヨさんによると、プラハ演説後に中沢さんは「これまでの大統領とは違う」と心を動かされ、手紙を書き始めた。「『この人なら被爆者の苦しみを分かって くれる』と思ったのでしょう」と話す。中沢さんは、英訳した手紙と「ゲン」英語版をオバマ氏や家族に届けようと試みた。大統領の家族と親交のある米国在住 の女性に送ったが、大統領には届かなかったとみられる。 (略) 中沢啓治さんの手紙(抜粋)  米国大統領バラク・オバマ&家族の皆さま  「はだしのゲン」の英訳化が完成したのを機会に、どうしても貴方(あなた)と貴方のご家族に読んで頂きたいと思い、手紙を書きました。  原爆投下から64年の8月6、9日を迎えたヒロシマ・ナガサキは初めて悲願の「核兵器廃絶」が現実の目標になった事を実感し、歓迎しています。それは、貴方の“プラハ宣言”が核兵器廃絶に向けた希望の灯(あか)りになったからです。  2007年の暮れ、シカゴのデュポール大学で広島市が開催していた「原爆展」に、偶然に足を運ばれてご覧になった……という新聞記事を見て深い感銘を覚 えました。「原爆展」が貴方の心に触れて「核兵器廃絶」に思いを至らせる契機になったのではないか……と推察したからです。  貴方がおっしゃる様に核廃絶は「生きているうちの実現は難しいかもしれない」極めて困難な課題だと思います。しかし、核兵器を使った唯一の核保有国の “道義的責任”と貴方の意思をより強固なものにして他の核保有国の意見をまとめる為(ため)には、何としても一度広島と長崎においで頂いて被爆者の声を聞 き、原爆資料館をご覧頂きたいと思います。  「はだしのゲン」が貴方の決意を世界中の平和を希求する人達(たち)のより確かな目標にするための手助けになることを心から祈ります。  2009年8月20日「はだしのゲン」原作者 中沢啓治 全文は[要有料登録] 中沢啓治さん 「ゲン」から米大統領へ…生前の手紙発見 

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長崎・被爆体験者側の控訴を棄却…福岡高裁 via Yomiuri Online

 長崎原爆の投下時、爆心地から約12キロ圏内にいたものの、被爆者と 認められない「被爆体験者」388人が、国と長崎県、長崎市に被爆者健康手帳の交付などを求めた第1陣訴訟の控訴審判決で、福岡高裁は23日、被爆体験者 側の訴えを退けた1審・長崎地裁判決を支持し、控訴を棄却した。  佐藤明裁判長は「健康被害の可能性があると認める証拠はない」と述べ、いずれも被爆者と認めなかった。  別の被爆体験者161人による第2陣訴訟で、長崎地裁は2月、被爆体験者10人を被爆者と認める判決を出しており、司法判断が分かれる結果となった。被爆体験者側は上告を検討する 続きは長崎・被爆体験者側の控訴を棄却…福岡高裁 

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「デーモン・コア(悪魔のコア)」で被ばくした科学者はどのようにして死んでいったのか via Gigazine

(抜粋) 1945年8月21日、ニューメキシコ州のロスアラモスから3km離れた場所にあった秘密研究所のロスアラモス研究所で働いていた物理学者のハリー・ダリアン博士がプルトニウムの塊を用いて中性子反射体の働きを見る実験を行っていました。同実験の中でダリアン博士はミスから致死量の放射線を浴びてしまい、急性放射線症候群のため死亡してしまいます。 (略) 事故後、救急車が手配され、研究所から関係者たちは避難します。救急車が到着するまでの間、研究室にいた科学者たちは「自分たちがどれくらいの放射線を浴 びたのか」を計算しようとしていたそうです。この時、スローティン博士は事件が起きた際に研究室内にいた同僚たちの位置を記すスケッチを描いていました。 その後、デーモン・コアの近くにあったブラシや空のコカ・コーラのボトル、ハンマー、メジャーなどの放射線量を放射線検出器を使って検出しようとします が、スローティン博士自身が大量の放射線を浴びていたため、計測することはできなかったそうです。 そこで、スローティン博士は同僚のひとりにまだ危険な状態のデーモン・コアの近くまで行って周囲の放射線量を検知するように指示します。しかし、この調査で得た情報は有用なデータにはならなかった、と後の報告書には記されています。 その後、実験の参加者はロスアラモス病院に搬送されました。スローティン博士は検査の前の数時間で数回嘔吐しますが、翌朝にはその症状も治まっていたそう で、「健康状態は良好に見えた」と報告されています。時間と共にスローティン博士の左手はマヒし、徐々に痛みが増していったとのこと。スローティン博士の 左手はデーモン・コアに最も近い位置にあったため、推定でなんと1万5000レムもの低エネルギーX線を浴びていたことが判明しています。人間の致死量は 500レムと言われており、スローティン博士は全身でもその4倍以上である2100レムのニューロン、ガンマ線、X線を浴びていました。 その後、博士の左手は青白く変色して大きな水ぶくれができ、担当医は左手を氷で冷やすことで腫れと痛みを和らげようとしました。実験時にドライバーを持っていた右手にも、軽度ながら同じ症状が見られたそうです。 事件後、スローティン博士は両親に電話しており、事故発生の4日後に両親が博士の元に到着します。事故発生から5日目になると、スローティン博士の白血球 数は劇的に減少し、体温と脈拍も大きく上下し始めます。そして、「その日から患者は急速に動けなくなっていった」と、医療報告書には記されています。ス ローティン博士はその後も嘔吐と腹痛に苦しみながら徐々に体重を減らしていくのですが、これは「体内の放射線やけどによるもの」とのこと。 事件から7日後、スローティン博士は精神錯乱に陥ります。唇は青色になり、酸素テントの中での生活を余儀なくされた模様。更にその後、スローティン博士は 昏睡状態に陥り、事件発生から9日後に35歳の若さで死亡しました。なお、死因は放射線障害として知られる「急性放射線症候群」として記録されています。 全文は 「デーモン・コア(悪魔のコア)」で被ばくした科学者はどのようにして死んでいったのか 当サイト既出関連記事: The Demon Core and the Strange Death of Louis Slotin via The New Yorker

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広島 被爆遺構、一時埋め戻し 米大統領訪問発表の直後 via 毎日新聞

広島市は「景観を考慮した」と説明  オバマ米大統領が27日に広島を訪問するのを受け、広島市が原爆資料館本館で行っている地下遺構の発掘調査を中断し、現場を土で埋め戻したことが18日、分かった。周囲の囲いを撤去し、アスファルトを敷いて歩けるようにする。市は「景観を考慮した」と説明しているが、「原爆投下で街が廃虚になったことを示す遺構を、なぜわざわざ埋め戻すのか」と批判の声も上がっている。  原爆資料館の周辺は、原爆投下前は民家や理髪店、幼稚園などが建ち並び、市内有数の繁華街の一角だった。原爆で街は廃虚と化し、住民らは即死。戦後、平和記念公園として整備され、資料館から北側に原爆慰霊碑、原爆ドームを一直線に見通せるよう設計された。  市によると、本館の耐震補強工事が必要になり、昨年11月、工事範囲の地下遺構を調査し記録するため発掘調査を始めた。本館の周りに囲いを設置し、北側出口は閉鎖していた。3月の終了予定だったが、想定以上に多くの被爆資料が発掘され、調査が長引いている。  これまでの調査で、三輪車や時計、万年筆などの遺品のほか、民家の敷石や道路の縁石など被爆前の街並みが分かるものが見つかっている。  市によると、オバマ大統領の広島訪問が今月10日に発表され、翌11日に埋め戻しを開始。発掘調査現場の西側の一部を除き、掘り返した土を戻してアスファルトを敷く作業をしている。囲いは西側部分だけを残して撤去する。未調査部分はオバマ大統領の訪問後に再び掘り返す。  埋め戻しの理由について市は「警備上の理由ではない。資料館の出口から慰霊碑、ドームまでを本来のように見通せるようにしたい」としている。 続きは 広島 被爆遺構、一時埋め戻し 米大統領訪問発表の直後

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