概要〉
橋本あきさんの一人娘の希和さんは、生まれて間もない長男を守るために、「大阪より西に避難を」という母親の助言で、福岡市へ避難を決意した。郡山の会社に勤めていた夫を説得して家族3人での避難だった。福岡市で仕事をみつけたが、慣れない土地で友人もできず、うつ状態に。郡山に帰りたいという夫と、子どもを守るために残りたい希和さんは、離婚を決意した。
【避難先でのすれ違いと離婚】
(略)
なんとか家は崩れずに済んで、ちょっと揺れが収まったときに庭に飛び出しました。さっきまで晴れててぽかぽかしてたのに、急に雪が降ってきたんです。電線が波打っていました。まるで映画のシーンのようでした。
家はいつ崩れるか分からないから、中に戻るのは怖いので、母の小さな軽自動車に4人で入りました。でも車の中でも揺れを感じて、「うわー!」と叫んでいました
電気は大丈夫でしたから、母は米が炊けるうちと炊きました。ミルク用のお湯もわかしました。
夕方になって寒くなってきました。父が帰ってきて、家の中を掃除してくれました。夜は家の中で布団を敷きました。電気だけはかろうじてずっと通っていて、テレビも見れました。炬燵も入れました。しかし水道とガスはだめでした。ガスは比較的早くに復旧したんですけど、水道が一週間弱ぐらい断水しました。飲み水は母が以前に買っていたので、そのペットボトルの水を使ってお茶を飲んだりしてました。
テレビはつけっぱなしで、夜は眠れませんでした。「ちょっと体休めようかな」って思っても、グラグラと揺れがくれば、体起こして子どもを庇う。ジャンバーは着っぱなしで、枕元に靴を置いて、いつでも外に出られるような態勢でした。
(Q・放射能が危ないって感じるってことありましたか?)
原発が爆発したのはテレビで知って、そのときは現実なのか夢なのかと思いました。
「危ないな」って感じ始めたのは、次第に地震も収まってきて、普段の生活に戻ってきたころです。「洗濯物は外に干していいですよ」という報道がされてきたころですかね。「出かけるときはマスクして、肌の露出を避けて」「帰宅したら、着たものすべてゴミ袋に入れて、シャワー浴びて」とか、あれほど言ってたのに、1ヵ月も経たたないうちに、みんなマスクはしていませんでした。「それでいいの?」「もう大丈夫なの?」と疑いました。放射能は目に見えない分、疑っていいんじゃないかと思ったんです。
母の影響も少なからずあるとは思います。海外に住む叔母が、「国内では大丈夫だって言っているかもしれないけど、海外からから見ると日本は危ないから、とにかく子どもと2人だけでもいいから逃げてきて!」と言うんです。「ああ、危険なのかな」と思いました。
「郡山を出なければ」と思ったきっかけは、2011年10月から1ヵ月間、オーストラリアの叔母のところに「保養」(注・放射能の不安を抱える人びとが、居住地から一時的に距離をとり、放射能に関する不安から解放される時間を確保して心身の疲れを癒そうとする行動)に行ったことです。その時、現地では、何も心配せずに子どもを外に遊びに行かせたり、靴を履かせて歩かせたり、這い這いさせたりできました。震災前は郡山でも当たり前だったのに、震災後はそうではなくなっていることに改めて気づいたんです。そのとき、「郡山では、子どもを安心して外に出せない中では生活できないな」と思ったのが大きなきっかけでした。
(略)
一番、大きいとは思います。「保養」についての説明会も母と行って、どういうところに保養場所があるかも知りました。各地で支援してくださっている方が多くいることもわかりました。
郡山を出る決断したのは、2011年の12月でした。叔母のいるオーストラリアからちょうど帰国して、夫と話し合いましいた。ようやく夫が折れて、そこから、ポン、ポン、ポンと話が決まりました。
「福島からの避難者のための借り上げ住宅」の期限が12月末でしたが、福岡県庁に電話して「まだ応募できますか?」と尋ねると、まだ大丈夫だというので、12月中旬に博多まで下見に行って家を決めました。そして1月の中旬に郡山を出ました。
震災直後に、「叔母からオーストラリアに逃げてって言われている」と話をしたとき、夫は「飛行機の中でも放射能飛んでるんだから」と言うので、「これはもう、たぶん話にならんな」と思いました。だからオーストラリアへ「保養」に行く時は、夫に告げませんでした。現地から「いまオーストラリアに来ている」と手紙を書きましたが。
帰してすぐ夫と話し合うとき、もう離婚届も提出されるんじゃないかと思って、ハンコを持っていきました。
(子どもを避難させることで)夫を説得しようとするとき、目にも見えない放射能について一から説明しなきゃいけないのかと考えると、自分にはできない。だったらもう離婚したほうが楽だと思いました。
(略)
「離婚の覚悟」「生活の不安」ですか?とりあえず、母に事情を話すと、「なんとかするから」と言ってくれ、すぐに援助してもらったので、経済的なことでは不安はなかったです。
これまで母に頼りっぱなしだったので、そこはなんとかなるかなと思いました。母も「そのくらい養う力はあるから」と言ってくれたので、「とことん甘えちゃえ」と思ったんです。子どももまだ小さかったので、父親がいなくなるっていうことに対しての抵抗感はなかったです。
全文は福島からの証言・6