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福島からの証言・6 via Yahoo! Japan ニュース

土井敏邦 | ジャーナリスト 概要〉  橋本あきさんの一人娘の希和さんは、生まれて間もない長男を守るために、「大阪より西に避難を」という母親の助言で、福岡市へ避難を決意した。郡山の会社に勤めていた夫を説得して家族3人での避難だった。福岡市で仕事をみつけたが、慣れない土地で友人もできず、うつ状態に。郡山に帰りたいという夫と、子どもを守るために残りたい希和さんは、離婚を決意した。 【避難先でのすれ違いと離婚】 (略) なんとか家は崩れずに済んで、ちょっと揺れが収まったときに庭に飛び出しました。さっきまで晴れててぽかぽかしてたのに、急に雪が降ってきたんです。電線が波打っていました。まるで映画のシーンのようでした。  家はいつ崩れるか分からないから、中に戻るのは怖いので、母の小さな軽自動車に4人で入りました。でも車の中でも揺れを感じて、「うわー!」と叫んでいました 電気は大丈夫でしたから、母は米が炊けるうちと炊きました。ミルク用のお湯もわかしました。  夕方になって寒くなってきました。父が帰ってきて、家の中を掃除してくれました。夜は家の中で布団を敷きました。電気だけはかろうじてずっと通っていて、テレビも見れました。炬燵も入れました。しかし水道とガスはだめでした。ガスは比較的早くに復旧したんですけど、水道が一週間弱ぐらい断水しました。飲み水は母が以前に買っていたので、そのペットボトルの水を使ってお茶を飲んだりしてました。  テレビはつけっぱなしで、夜は眠れませんでした。「ちょっと体休めようかな」って思っても、グラグラと揺れがくれば、体起こして子どもを庇う。ジャンバーは着っぱなしで、枕元に靴を置いて、いつでも外に出られるような態勢でした。 (Q・放射能が危ないって感じるってことありましたか?)  原発が爆発したのはテレビで知って、そのときは現実なのか夢なのかと思いました。 「危ないな」って感じ始めたのは、次第に地震も収まってきて、普段の生活に戻ってきたころです。「洗濯物は外に干していいですよ」という報道がされてきたころですかね。「出かけるときはマスクして、肌の露出を避けて」「帰宅したら、着たものすべてゴミ袋に入れて、シャワー浴びて」とか、あれほど言ってたのに、1ヵ月も経たたないうちに、みんなマスクはしていませんでした。「それでいいの?」「もう大丈夫なの?」と疑いました。放射能は目に見えない分、疑っていいんじゃないかと思ったんです。  母の影響も少なからずあるとは思います。海外に住む叔母が、「国内では大丈夫だって言っているかもしれないけど、海外からから見ると日本は危ないから、とにかく子どもと2人だけでもいいから逃げてきて!」と言うんです。「ああ、危険なのかな」と思いました。  「郡山を出なければ」と思ったきっかけは、2011年10月から1ヵ月間、オーストラリアの叔母のところに「保養」(注・放射能の不安を抱える人びとが、居住地から一時的に距離をとり、放射能に関する不安から解放される時間を確保して心身の疲れを癒そうとする行動)に行ったことです。その時、現地では、何も心配せずに子どもを外に遊びに行かせたり、靴を履かせて歩かせたり、這い這いさせたりできました。震災前は郡山でも当たり前だったのに、震災後はそうではなくなっていることに改めて気づいたんです。そのとき、「郡山では、子どもを安心して外に出せない中では生活できないな」と思ったのが大きなきっかけでした。 (略) 一番、大きいとは思います。「保養」についての説明会も母と行って、どういうところに保養場所があるかも知りました。各地で支援してくださっている方が多くいることもわかりました。  郡山を出る決断したのは、2011年の12月でした。叔母のいるオーストラリアからちょうど帰国して、夫と話し合いましいた。ようやく夫が折れて、そこから、ポン、ポン、ポンと話が決まりました。  「福島からの避難者のための借り上げ住宅」の期限が12月末でしたが、福岡県庁に電話して「まだ応募できますか?」と尋ねると、まだ大丈夫だというので、12月中旬に博多まで下見に行って家を決めました。そして1月の中旬に郡山を出ました。  震災直後に、「叔母からオーストラリアに逃げてって言われている」と話をしたとき、夫は「飛行機の中でも放射能飛んでるんだから」と言うので、「これはもう、たぶん話にならんな」と思いました。だからオーストラリアへ「保養」に行く時は、夫に告げませんでした。現地から「いまオーストラリアに来ている」と手紙を書きましたが。  帰してすぐ夫と話し合うとき、もう離婚届も提出されるんじゃないかと思って、ハンコを持っていきました。  (子どもを避難させることで)夫を説得しようとするとき、目にも見えない放射能について一から説明しなきゃいけないのかと考えると、自分にはできない。だったらもう離婚したほうが楽だと思いました。 (略) 「離婚の覚悟」「生活の不安」ですか?とりあえず、母に事情を話すと、「なんとかするから」と言ってくれ、すぐに援助してもらったので、経済的なことでは不安はなかったです。  これまで母に頼りっぱなしだったので、そこはなんとかなるかなと思いました。母も「そのくらい養う力はあるから」と言ってくれたので、「とことん甘えちゃえ」と思ったんです。子どももまだ小さかったので、父親がいなくなるっていうことに対しての抵抗感はなかったです。 全文は福島からの証言・6

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福島復興論  対談・母子避難と帰還を支えるvia 毎日新聞

古里捨てていない避難者 孤立する母親に「安心」を 山形避難者母の会代表・中村美紀さん 異なる選択、認め合って 再スタート、支援する場を NPO法人ビーンズふくしま みんなの家事業長・富田愛さん […] 中村 山形では、保育所入所や父親のための福島との無料バスなどが実現しましたが、大きいのは12年5月に「村山地区ふくしま子ども未来ひろば」を開設できたことです。そこに行けば福島の人に会える場です。山形の方は本当に親切でした。  富田 避難先を回っている中で、いつかは福島に帰りたいけれど、福島で自主避難経験者の居場所があれば安心できるという話を聞きました。帰還した母親のための居場所作りをと考えたのが「ままカフェ」でした。その運営を進めていく中で、避難しなかったお母さんや震災後に出産したお母さんも不安を感じていることが分かりました。ままカフェに来ている方々の次のステップとしても常設の居場所が必要だと考え、15年3月に民間の助成で開設したのが「みんなの家@ふくしま」です。 −−郡山に戻ったのは?  中村 避難者として非日常の中で生活することに少し疲れたこともありますし、大きかったのは4番目の子ができて、その子を福島で育てたかったからです。親として上の娘たちを一番安心させられるのは、私が福島で子どもを産んで育てて見せることだと思いました。戻ることに不安もありましたが、除染なども進んで避難当初よりはある程度放射線量も下がったし、食べ物の検査体制もずいぶん整った。福島に暮らす人の力で何とかなってきた部分が見えてきたので戻れると思いました。母の会では顔を出して発信する役目を引き受けていたこともあり、代表のまま福島に戻りました。 −−福島に戻ったお母さんたちはどんな思いでしょうか。  富田 最初のうちは、誰もマスクをしていないことや、洗濯物を外に干していることが信じられない、浦島太郎のような気持ちの人が多いようです。生活の一つ一つに悩み、「気にしているのは私だけ?」と思ってしまう。でも、生活していくうちに、だんだん安心していく。ままカフェで、先に戻った人の経験を聞き、不安を感じるのは自分だけでないことを知ることも大きいようです。  中村 避難先では福島から来た人が集まる場所があり、放射能を気にしている人たち同士で楽に話ができるんです。ところが福島に戻ってくると誰にも話せずに孤立してしまう。先に帰った人がそんな葛藤を乗り越えた経験を話してくれることが一番の安心材料になるんです。私たち家族にとっては日常を取り戻せた気がして、帰ってきて良かったことも多いです。一方でまだまだ帰れないと考える方も多く、帰還だけを良しとされているように感じて苦しんでいる避難者もいらっしゃいます。 […] −−最後に一言お願いします。  中村 避難した方々は決して古里を捨てたのではなく、福島の本当の情報を知りたいだけなんです。私は、福島で安全のために誠実に積み上げてきた生産者の方たちの努力を伝えたいです。「中村は安全派に寝返った」と言われるかもしれませんが、それが不安を抱えて孤立している方たちの安心につながるのならぜひ伝えたい。  富田 避難している方々、帰って来た方々、避難しなかった方々、それぞれの選択をこれからも大切にしていきたいし、お互いを認め合える場として「みんなの家」を続けていきたいと思います。悩みを一つ一つ共有しながら、また福島での生活を再スタートできるんだよということを、今も避難している方々に伝えたい。最後に、福島の子どもたちが将来、いわれなき偏見で傷つくことのないよう、福島だけの問題ではなく、全国の皆さんで考えてほしいです。 […] 全文を読む。

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福島第1原発事故 避難の母子、支援の現状説明 山形で報告via毎日新聞

 原発事故で福島県から山形県に避難した母子の生活に関する報告会が支援団体のメンバーを対象に山形市で開かれ、故郷に戻るべきか悩みながら周囲に相談できない母親が多い現状などを専門家が説明した。  山形市に避難した親子のケアに取り組む臨床心理士、伊藤洋子さんは「時間がたち、人により故郷に帰るかどうかの選択に幅が出ている。誰にも相談できずに悩む母親も多く、支援者の重要性は増している」と話した。 […] 「母親の場合、妊娠などで放射性物質への不安が高まることがある。その際、悩みを聞ける関係を、避難先で支援者とつくっておくのが重要だ」と語った。  山形、福島、新潟3県から約60人が参加した。 もっと読む。

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福島から母子避難の森松さん 震災、原発…2年半の思いを本に via 神戸新聞

福島第1原発事故で関西に避難し、昨年、東京電力と国を相手に賠償を求めて集団提訴した原告団代表の森松明希子さん=大阪市在住=が、手記「母子避難、心の軌跡 家族で訴訟を決意するまで」を出版した。 森松さんは伊丹市出身。東日本大震災で福島県郡山市の自宅は大きな被害を受けた。放射線量も高く、2カ月後に幼児2人を連れて大阪に避難した。仕事のために福島に残った夫との二重生活は今も続く。 「普通のくらし」を求めて避難を選択したものの、物心両面の負担は重い。自分たちの選択を時に理解してもらえない状況に「これで良かったのか」と思う一方で、そんな社会に疑問も感じる。 そして悩み抜いた末、避難しても、とどまっても、支援が受けられるようにと、原発賠償関西訴訟原告団代表になった。 (略) 「母子避難‐」はかもがわ出版、四六判、167ページ、1470円。 全文は福島から母子避難の森松さん 震災、原発…2年半の思いを本に  

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