青木美希2020年4月18日
政府と福島県が原発事故の避難先住宅の提供を2017年3月末で打ち切ったため、一家で新潟県に避難していた庄司範英(のりひで)さん(55)は苦渋の選択を迫られた。
長男の黎央(れお)さん(14)は避難で転校を余儀なくされ、当初は「福島の友達がいい」と寂しがった。今は友達を笑わせるのが好きで、いつも楽しそうだ。再びつらい思いはさせられない。家は原発から北北西22キロで、雨どいや側溝の放射線量を測ったときに、年5ミリシーベルトを超える値が出た。子どもと戻る選択肢はなかった。
だが、提供が打ち切られると家賃月9万円が自己負担となる。避難指示区域外のため多額の賠償金はない。「子どもを守るために精いっぱいやろう」と、庄司さんだけが福島県南相馬市の実家に戻って仕事を探すことを決めた。庄司さんは新潟県長岡市と実家を行き来しながら、南相馬市で除染作業員の正社員の仕事を見つけた。17年6月12日からの勤務だった。
初出勤を1週間後に控えた日、長岡市の避難先住宅で庄司さんは夕飯を作り子どもたちと食べた。食後に黎央さんが聞いてきた。
「お父さん、もう帰っちゃうの?」
「うん、来週から仕事だからね」
「いつ帰ってくるの」
「まだわかんない」
[…]
庄司さんは離婚し、実家で母の淑子(としこ)さん(81)と暮らしている
今年2月に庄司さんを訪ねた。
「原発事故は終わっていないんだということは言いたい」
そして庄司さんは、黎央さんの遺影に語りかけた。
「タイムマシンが出来たら、お父さんはすぐ前の日に帰ります。あなたの死を防ぎます」