核の傷痕 続・医師の診た記録/25 「御用学者」にがく然=広岩近広via 毎日新聞

原発の立地する地方自治体に巨額の交付金を出す制度が電源開発促進税法などの「電源三法」である。1974年10月に施行され、財源の乏しい地方自治体は交付金を目当てに原発を受け入れてきた。

「電源三法」が施行される7カ月前、日本原子力発電敦賀原発で作業した岩佐嘉寿幸(かずゆき)さんは、大阪大学付属病院で被ばくによる「放射線皮膚炎」と診断された。原発建設にやっきの政府が反発してきたため、岩佐さんは原子力損害賠償法による責任追及を求めて、日本原子力発電を相手取り損害賠償請求訴訟を大阪地裁に起こした。わが国初の原発被ばく裁判「岩佐訴訟」だった。

 提訴から7年に及んだ裁判の判決は81年3月にあり、大阪地裁は「障害を受ける線量を浴びていない」として、岩佐さんの請求を棄却した。大阪府松原市の阪南中央病院副院長の村田三郎さんはこう解説する。

 「岩佐さんの外部被ばく線量は、公的記録では1ミリシーベルトとされています。確かに、この線量では放射線皮膚炎は起きません。しかし、作業現場の状況をつぶさに見れば、岩佐さんは局所的に放射線量の高い床面に接して、ベータ線熱傷を起こしたと考えられます。また岩佐さんが身につけていたポケット線量計は、ガンマ線しか拾えません。ベータ線は飛距離が短いので足元に線源があっても、被ばく線量として測定値が出ないのです。岩佐さんは局所の障害ですから、右脚の接した部分の線量は非常に高かったはずです。それなのに判決は、作業現場の放射線量は高くないと決めつけました」

 この判決を受けて岩佐さんは「支援する会」の機関紙に、こう書き留めた。

 <国民の信頼を絶対とする裁判所が、安全性を無視して原発推進を強行する自民党政府、原発独占企業に加担することは、原発の完全犯罪を許して、放射線下の非人間的な労働条件の中で働く労働者に生きる権利を放棄しろといっているに等しい。原発被曝(ひばく)労働者をボロ雑巾のように使い捨て、見殺しにして、又(また)もや日本には原発被曝労働者や原発病患者は一人もございませんと強行推進に一役買ったことが許せない>
[…]
村田さんは「放射線皮膚炎」を否定して、血液の鉄分による「静脈瘤(りゅう)性症候群」と鑑定した「御用学者」にがく然とする。そんな医師らのいる「大学医学部の科学の論理」に疑問をいだき、村田さんは市民のための内科医に徹すべく、78年に阪南中央病院に移った。

 この病院で岩佐さんが77歳の生涯を終えたのは、2000年10月11日だった。村田さんは、岩佐さんの次の言葉を胸に刻んでいる。

 「私の闘いは、人類との共存を許さない核との闘いであり、私の背後には大勢の被ばく作業員がいる」(次回は12日に掲載)

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