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「いかに放射能が人間の体を食いつぶすか」…原爆から77年でがんを発症、先月亡くなった被爆者・李鐘根さんが、最後に小川彩佳キャスターに話したこと。via TBS News Dig

7月、連日の猛暑がひと段落したその日、李鐘根(イ・ジョングン)さんは娘さんの押す車いすに乗ってやってきた。柔らかな笑顔。しかし、ここには「本当は余り来たくない」と言う。そこは77年前、李さんがまだ16歳だったとき、大変な光景を目の当たりにした場所。広島市を流れる猿猴川にかかる、荒神橋のたもとだった。 執筆:「TBSテレビ つなぐ、つながるSP 戦争と嘘=フェイク」プロデューサー・山岡陽輔 (略) 「『生きていたか』と私を抱きしめてわいわい泣くんですけども、韓国語で『アイゴー』という言葉があるんですね。喜怒哀楽を表すときにいろいろ使うんですが、そういうときの『アイゴー』というのが、ものすごく胸にしみるんですね。その時を考えると…すみません…この歳になってもあの言葉が、まだ頭に残って…もう悲壮なあの言葉で私を抱きしめて泣くんですけど、私も一緒につられて良く泣きました」。 その後、李さんは4か月、ほとんど家にこもりきりに。やけどにはウジがわき、原爆の放射線による下痢や嘔吐にも襲わた。毎日毎日…もだえ苦しみ続ける李さんの姿を見るに堪えず、母親の口から、こんな言葉もこぼれたと言う。 李さん:「寝ようとしても痛くて眠れないんですよ。朝になって私の顔を見ながら母が『このまま生きてもどうしよもないじゃないか。人間じゃないよ』と。『チュゴ』という韓国語の言葉があるんですが、『早く楽に死ねよ、楽になれよ』と。『チュゴ』という言葉が私のこの胸にどきっと刺さるような状態でしたけども、本当に死ねという意味じゃなくて『苦しいだろう、出来れば早く楽になれよ』という、母の気持ちだったと思うんですよね」。 「首の後ろのやけどしたところがだんだん腐ってきます。物凄い膿がでてきてウジ虫がわきました。私は被爆体験を話すのが嫌だった一番の理由は、このウジ虫の話です。生きた人間の身体にウジ虫がわく。そういうことは人には言えません、恥ずかしくて。それと在日という、2つの自分の気持ちの中での差別、人にこんなことを言えるわけがない。私が被爆体験をお話しすることはずっとなかったんです」。 (略) 李さん:「毎日です。私も出ましたね。必ず下痢嘔吐があるんです、原子爆弾の場合は。その当時、髪が抜けると死ぬと言われていたんですね。そういう風評があった。実際に亡くなった方もいた。私は毎朝髪を引っ張ってみるんですけど、抜けないや。きょうは大丈夫だと確認していました。4か月くらい後に職場に復帰するんですけども、好きで入ったところなのでやはり一生懸命仕事をしていましたけれども、ケロイドが白く浮き出ているところがあった。同期生なんかが『江川(当時、李さんが名乗っていた苗字)のところ行くなよ。あれ原爆で、うつるぞ』と。友達がだんだんだんだん離れていくんですね。原爆がうつると」。 「ピカがうつる」。そんな根拠のない噂がたち、差別されたと言う。 原爆は、爆発に伴い、熱線や爆風に加え、大量の放射線を出す。放射線は、人体の奥深くまで入り込み、やけどの傷が癒えても深刻な障害を引き起こすことがある。 多くの被爆者が被曝7~8年後をピークに白血病を発症。その頻度は、被爆していない人の約20倍だった。今も、原爆症と認定された人だけでおよそ7000人が、がんなどと闘っている。 原爆症を60年以上研究する第一人者、広島大学の鎌田七男名誉教授は次のように指摘する。 「20年30年たって、ある時には肺がんが出てきたり、さらにそれから10年たったら大腸がんが出てきたり、というふうにして一人の身体に2つも3つもがんが出てくるという状況が稀ではありません。生涯にわたっていくつものがんを発症する」。 16歳で被爆し、その後長く被爆体験を語ってこなかった李さんだが、80歳を過ぎてから語りはじめた。チョルノービリ原発事故の被害があったウクライナやベラルーシも訪問。 また、在日韓国人をめぐる被爆の実態について訴える活動も行ってきた。 (略) 李さん:「最終的に、ガンですと。放射能によるガン。77年たってもこうして出るということは、いかに放射能が人間の体を食いつぶすかという。だからその事実を、なんとか元気なうちに。今ちょうど証言活動を中止しているんだけれど、何校か証言活動をしてほしいというのが入ってきているんですよ。それを何とか、放射能の恐ろしさというものを子どもたちに話をしながら、『核反対しようよ。恐ろしいよ』と伝えていきたい」。 7月30日、李さんは亡くなった。93歳。盲腸がん…原爆症による死。インタビューを終え、ほっとしたような笑顔を浮かべた。そして…「お願いしますよ」。私たちスタッフや小川キャスターの目を見て、李さんはそう言った。 全文は「いかに放射能が人間の体を食いつぶすか」…原爆から77年でがんを発症、先月亡くなった被爆者・李鐘根さんが、最後に小川彩佳キャスターに話したこと。 当サイト既出関連記事:原稿から削られた6文字 原爆の日1週間前に急逝した韓国人被爆者の”遺言”とは via Buzzfeed

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原稿から削られた6文字 原爆の日1週間前に急逝した韓国人被爆者の”遺言”とは via Buzzfeed

広島の原爆の日の1週間前、ある被爆者の男性が亡くなった。男性のメッセージを収録した映像が平和記念式典の会場で流されたが、広島市の手で6文字削られていた。なぜか。男性が死の淵で言い残したかったことは。 原爆ドームがある選挙区が地盤の岸田文雄首相が参列した広島の平和記念式典。 その会場で流れた動画メッセージに登場した被爆者の中に、原稿の一部を広島市の手で削られ、その無念を訴えて式典の1週間前に亡くなった男性がいた。 一連の経緯を見つめてきた広島在住のフリーランス記者、宮崎園子さんが報告する。 原爆ドームがある選挙区が地盤の岸田文雄首相が参列した広島の平和記念式典。 その会場で流れた動画メッセージに登場した被爆者の中に、原稿の一部を広島市の手で削られ、その無念を訴えて式典の1週間前に亡くなった男性がいた。 一連の経緯を見つめてきた広島在住のフリーランス記者、宮崎園子さんが報告する。 自らの被爆体験を国内外で精力的に証言してきた広島の被爆者が、原爆の日(8月6日)の1週間前に、93歳で息を引き取った。盲腸がんのため亡くなった韓国原爆被害者対策特別委員会委員長の李鍾根(イ・ジョングン)さんだ。 広島市の求めに応じ、被爆者としての思いを述べたメッセージ映像を収録したが、用意していた原稿の一部を削るよう市の担当者に求められた。「なんで言いたいことを言わせないの」。亡くなる直前、悔しさを語った。 死の淵で、彼が伝え残したかったことは何だったのか。 会場に流れた映像 戦後3人目となる広島県選出の首相、岸田文雄氏ら多くの来賓を招き、6日に平和記念公園で開かれた広島市の平和記念式典。 午前8時の開式に先立ち、会場に設置された大型ディスプレイで、被爆者19人がそれぞれの思いを語るメッセージ映像が流された。年齢順で最後となった李さんのメッセージは、こうだった。 「あの日被爆した朝鮮半島出身者たちは、同じ被爆者でありながら、終戦を境に『外国人』として援護を受けられないまま多くの人が死んでいきました」 51秒の短いメッセージは、李さんが7月30日に逝去したことや、動画は6月30日に撮影されたものだというおことわりつきで流された。 しかし削られていた6文字 式典に参列していた私は、この映像がこの内容で流れるのを、悔しい思いで眺めていた。 「一番言いたかった部分を削るように、広島市の担当者に言われたのよ」。生前の李さんから、そう聞いていたからだ。 李さんの手元にあった原稿の文言は、こうなっていた。 「あの日被爆した朝鮮半島出身者たちは、同じ被爆者でありながら、終戦を境に外国人として切り捨てられ、援護を受けられないまま多くの人が死んでいきました」 しかし映像では、「切り捨てられ」の6文字が削られていたのだ。 […] 全文

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原爆の遺伝的影響「将来世代まで、許せない」 被爆2世の開さん via 朝日新聞

田井中雅人 長崎県被爆二世の会は、長崎市内で「被爆二世の体験を聞く会」を開き、全国被爆二世団体連絡協議会元会長、開(ひらき)彰人さん(72)=諫早市=が証言した。開さんは「(原爆の)遺伝的影響を明らかにしてほしい気持ちと、してほしくない気持ちが同居している」と複雑な胸の内を語った。  聞く会は15日にあり、約20人が聞いた。開さんの祖母、母、2人の兄は爆心地から約4キロ離れた長与町の自宅で被爆。家具や窓が壊れてめちゃくちゃになり、母は翌日から行方不明者を捜して爆心地近くに入ったという。  戦後生まれの2歳年上の兄は45歳の時に職場で会議中に突然倒れ、のちに死亡。自身も結核や心臓病、大腸がんなどの病気を患った。長女の左腕にも障害があるが、医師は「原爆による遺伝的影響については、わからない」としている。 続きは原爆の遺伝的影響「将来世代まで、許せない」 被爆2世の開さん

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「原爆投下は戦争犯罪の可能性」 アイゼンハワー氏に教皇が苦言 via 朝日新聞

田井中雅人 「広島・長崎への原爆投下は戦争犯罪にあたる可能性がある」。戦後間もない1945年10月、当時のローマ教皇ピウス12世(在位1939~58年)が、後に米国大統領になるアイゼンハワー欧州戦線最高司令官にそう伝えていたと、バチカンが最近公開した文書でわかった。核兵器禁止条約(核禁条約)を推進するバチカンの姿勢の源流ともいえそうだ。  松本佐保・日本大教授(国際政治史)が、ピウス12世ファイルと呼ばれるこれまで非公開だった文書で確認し、長崎市で10日に開かれたシンポジウム「バチカンに眠る日本の記憶」で発表した。  原爆投下についてピウス12世は、人類の最大の悲劇という内容の発言をしており、バチカンはそれ以来、核問題に関して国際社会に対して深く関与してきたことは知られている。だが、教皇が「戦争犯罪」という強い言葉を使って米側に苦言を呈していたことが今回、明らかになった。 日本での信徒拡大狙う?  松本教授が確認した文書によれば、ピウス12世は謁見(えっけん)したアイゼンハワー氏らに対して、米軍を主軸とした連合国軍による日本占領政策について、かつての敵であった日本に対する慈悲を説き、米国と日本のより良い関係を築くことによって平和を構築すること、特に日本の市民への配慮を求めたという。 全文は「原爆投下は戦争犯罪の可能性」 アイゼンハワー氏に教皇が苦言

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「当時もこんな空だったのかな」──カラー化した原爆写真がネットで反響 AIと人力で戦時中などの写真を色付ける「記憶の解凍」 via IT media news

76回目となる終戦記念日に先立ち、原爆の“きのこ雲”の白黒写真をカラー化した画像に「76年前の今日」というコメントを添えた投稿がTwitterで注目を集めている。 このうち9日に投稿された長崎原爆のきのこ雲の写真は、14日までに1万8000リツイート、4万1000件のいいねを記録。色が付いて現実味が増した一連の画像に対しては「当時もこんな空だったのかな」「色が付くことでタイムスリップする感覚になる」など、当時に思いをはせる声が寄せられた。 投稿したのは、東京大学大学院で情報デザインとデジタルアーカイブを研究する渡邉英徳教授(@hwtnv)。渡邉教授は、広島出身で東京大学在学中の庭田杏珠さん(@Anju_niwata)とともに、第二次世界大戦にまつわる白黒写真を、AIツールと戦争体験者との対話、当時の資料、SNSで寄せられたコメントなどを活用してカラー化する活動「記憶の解凍」に取り組んでいる。AIと人のコラボレーションによって、凍りついていた記憶を「解凍」し、戦争体験者の「想い・記憶」を未来に継承するというものだ。  渡邉教授と庭田さんの2人は、活動の一環でカラー化した写真から355枚を厳選し、2020年7月に写真集「AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争」(光文社新書)として出版。戦争をテーマにした写真集としては異例の発行部数6万部を超えるベストセラーになった。 […] 全文はこちら

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「ヒロシマ原人」の熱を知る via 中國新聞

 「ヒロシマ原人」という言葉は死語だろうか。全人生を懸けて原水爆を告発した市井の人たち。20年前、亡き先輩記者が用いていた。広島折鶴の会世話人、河本一郎さんの追悼記事だった▲いつも荷台に箱をくくり付けた自転車を押し、帽子に作業服。被爆者で「原爆の子の像」の生みの親だった。もっと古い記事だと、住まい兼事務所は足の踏み場もない6畳一間。妻が内職のミシンを踏む傍らで少年少女は鶴を折る。「子どもを利用している」と中傷されたことも▲旅立って35年になる「原爆一号」吉川(きっかわ)清さんも、「原人」か。広島大本部跡地のクリップ・ヒロシマに、きょうまで吉川さんの土産物店が再現されている▲自らのケロイドを内外の観光客にさらし、原爆ドーム近くで商いをした。「平和屋」とたたかれても屈せず、晩年は米空母の核持ち込みに怒り心頭だったという。変わり者とされた人こそ、熱を帯びていた時代だった▲この夏「原爆スラムと呼ばれたまち」と題した一冊が世に出た。やむなく爆心地近くの川土手に住み着いた人たちの詳細な記録。50年前に訪ね歩いた著者たちもきっと、ヒロシマの「地熱」に触れている。あの季節に学ぶ夏でもある。 原文

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「やめて」真っ赤なケチャップに血相変えた母…父の命奪われた県内被爆者の「語り継ぐ」覚悟 核兵器禁止条約発効 via 南日本新聞

22日発効した核兵器禁止条約に、唯一の被爆国である日本は参加していない。5歳の頃、長崎で被爆し、父を亡くした南さつま市加世田川畑の木原幹雄さん(80)は、最近の政治が「戦中回帰」に映り心配でならない。批准国に感謝し「悲劇が二度と繰り返されないよう、語り継いでいかなければ」と覚悟を新たにした。 […]  家族によると、造船工場で働いていた父は全身にやけどを負い、裸同然の姿で帰宅した。近所の安否確認のため駆け回り、10日後に息を引き取った。最後はつじつまの合わない話をした。遺体は田んぼで焼き、みそつぼに遺骨を納めた。幼かった幹雄さんに父の記憶はなく、家が焼けたため、残る写真も遺影1枚。「頑張り屋で優しい人だったのだろう」と想像する。  故郷加世田に戻った母は、4人の子を育てるため、農家の手伝いや行商で働きづめ。貧しく、生活保護も受けた。昔話は嫌がり、真っ赤なケチャップ料理を見て「これだけはやめて」と血相を変えたことも。「思い出すのもつらかったのだろう」と察する。  妻の民子さん(75)は、親の反対を押し切って幹雄さんと結婚した。「被爆者だから、早死にするかも」と不安もあったと明かす。  幹雄さんは戦争を知る世代が減り、異論を封じ込めるような最近の政治に不安を覚える。条約発効を機に、核廃絶に向けた世論が高まり、政府を突き動かすことを期待する。「孫たちに同じ思いはさせたくない」。被爆者の願いだ。 […] 全文

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原爆は悪ではないのか。では原発は? via 北海道新聞

 原爆と原発は、いずれも核分裂で発生する巨大なエネルギーを使う。米国では広島、長崎への原爆投下を正当化する世論が根強いが、原爆は絶対悪ではないのか。被爆国・日本では戦後、原発が国策として推進され、東京電力福島第1原発事故後も原発を手放さない。原発は必要なのか。26日は「原子力の日」。道内で核のごみ(高レベル放射性廃棄物)の処分問題が注目される中、日米の「核」への意識について識者に聞いた。(編集委員 関口裕士) 全文

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3年前「どこの国の総理ですか」 安倍首相に80歳被爆者「私たちには後がない」<長崎原爆の日> via東京新聞

 安倍晋三首相は9日、長崎市平和祈念式典でのあいさつや被爆者代表との面会で、核兵器禁止条約に批判的な姿勢を取り続けた。3年前の同じ面会の場で、一人の男性被爆者が「あなたはどこの国の総理ですか」と、核禁条約参加を直接求めた。今年の面会にも出席したが「今回も同じことの繰り返しだった。私たちにはもう後がないんだ」と、参加を拒み続ける首相の姿勢に憤りを隠さない。(柚木まり)  男性は、長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会の川野浩一議長(80)。  2017年8月9日の首相と被爆者代表の面会で、核禁条約への署名などを求める要望書を手渡す際、首相に「あなたはどこの国の総理ですか。今こそ、あなたが世界の核兵器廃絶の先頭に立つべきです」と、強い口調で迫った。例年なら書面を渡すだけの役割だが、前月に国連で採択された核禁条約に、唯一の戦争被爆国である日本が賛同しないことが納得できなかったからだ。 「どうして私たちの気持ちが分からないのか。何とかひと言言わなければと怒りを禁じ得なかった」。川野さんは面会当日の朝、「あなたはどこの国の総理ですか」などの言葉をメモし、要望の際に手にしていた。要望書を手渡そうとしたが、その手を引っ込めて、思いを首相にぶつけた。  5歳の時、爆心地から3.1キロの自宅前で被爆した川野さん。5年前に食道がんを発症し、原爆症に認定された。ともに活動を続ける協議会のメンバーも、高齢化で施設に入所したり亡くなったりして、これまでのような活動ができなくなりつつある。  核禁条約への日本の参加を願って迎えた被爆75年の「原爆の日」。首相に会える1年に一度の機会に、少しでも被爆者の思いを分かってもらいたい。そんな気持ちを抱き、今回も被爆者代表の一人として出席した。被爆者側は「長崎を最後の被爆地に」と条約批准を改めて求めたが、首相はまたも賛意を示さなかった。面会は首相の日程を理由に予定時間の30分で終わり、質問もできなかった。  川野さんはつぶやいた。「首相から、ちっとも中身のある答えが返ってこない。80歳を超え、ぎりぎりだと思って活動しているのに、挫折感ばかりが大きくなっている」 原文

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2020ヒバクシャ 高東征二さん 執念の「黒い雨」降雨図 遺志継ぐ via 毎日新聞

1945年8月6日に米軍が広島に原爆を投下してから75年。あの日、放射性物質を含む「黒い雨」に遭ったものの、今も国の援護を受けられない人がいる。記録報道「2020ヒバクシャ」の3回目は、病に侵されながら、国に被爆者と認めさせるため闘い続ける元高校教諭の姿を通して、黒い雨を巡る運動の歴史をたどりたい。 4月9日。4歳で黒い雨を体験した広島市佐伯区の高東征二さん(79)は市立大大学院で黒い雨の運動史を研究する向井均さん(77)を市内の自宅に訪ねた。 (略) <子どもを連れて行く途中ピカ、顔が熱かった。帰りに夕立のような雨に遭った。髪が抜け薄くなった> 詳細な様子が鉛筆で数十枚にわたってつづられていた。1970年代から国に黒い雨の被害を訴えた被爆者の市民運動家、村上経行(つねゆき)さん(2011年に93歳で死去)が、県境の集落まで訪ね歩いて集めた証言の一部だ 先駆者・村上さんに誓う 国が76年に指定した援護対象区域の外で黒い雨に遭った高東さんは、高校教諭を退職後、02年に「佐伯区黒い雨の会」を設立し、援護対象を広げる運動に加わった。87人の仲間と被爆者健康手帳の交付を求める訴訟をして4年。7月29日に言い渡される判決を待つ。 全ての『黒い雨被爆者』が報われる判決を勝ち取る」。先駆者の村上さんが残した約2800点の資料を前に高東さんは誓った。【文・小山美砂、写真・山田尚弘】 (略) 「黒い雨はもっと広い地域で降り、多くの人が内部被ばくした」。高東征二さん(79)は国が44年前に定めた援護対象区域に異を唱え、被爆者と認めさせるため、黒い雨訴訟の先頭に立ってきた。  4月9日。広島市立大大学院で黒い雨の運動史を研究する向井均さん(77)の広島市内にある自宅で、「黒い雨降雨域図」と墨書された1畳ほどもある地図と向き合った。赤い丸印の爆心地から北西側に描かれた二つの楕円(だえん)。大きな方は、気象台の技師らが終戦直後に実施した住民百数十人への聞き取りなどの調査で黒い雨が降ったとした地域、小さな方は大雨だったとした地域だ。二つの楕円が収まる、青い線で囲われた複雑な形の「新しい小雨域」は、高東さんらが黒い雨が降ったと主張している地域を示す。 (略) 黒い雨が流れ込んだ川の水を飲んだからか。小学3年まで体が弱く、腫れたリンパ節を3回手術した。だがその後は大病をせず、父の後を追って63年、広島大を出て県立高校の生物の教諭になった。 その2年後、作家・井伏鱒二が小説「黒い雨」を発表する。各地で四大公害病を巡る訴訟が相次ぎ、市民運動への関心が高まった。黒い雨を体験した人の救済を求める声も強まり、国は76年、終戦直後の気象台調査による「大雨雨域」を援護区域とし、指定する11障害を伴う病気と診断されれば被爆者健康手帳を交付することにした。 (略) 85年の原水爆禁止大会で「雨があんなにきれいな卵形に降るのか」と村上さんに問いただされた気象学者の増田善信さん(96)=東京都狛江市=は、2000人以上の証言を基に4年後、降雨域は気象台調査の4倍だったとの見解を発表する。国を動かせる科学的根拠だと周囲の期待は高まった。1畳もある「黒い雨降雨域図」は、村上さんが増田さんの見解を紹介するために手作りしたものだ。 (略) だが、県と市の専門家会議は、援護区域外では「(黒い雨による)人体影響の存在を認めることはできない」と退ける。証言や行動記録など村上さんが残した約2800点の資料の中にあったメモには、無力感が弱々しい筆致でつづられていた。 「『もうだめ』という気分」  運動はしばらく停滞する。 (略) それでも、15年に起こした黒い雨訴訟の原告に名を連ねた。この3年前、運動を受けて3万人超にアンケートをした県や市が、援護区域の6倍の範囲で雨が降ったとして国に区域を広げるよう求めたが退けられていた。区域外の体験者を「被爆者」と認めさせるには司法の判断を仰ぐしかない、と考えた。          ■    ■  19年春、裁判所の要請に応じて受けた健康診断で高血圧性心疾患と診断され、脳梗塞(こうそく)で2週間入院した。国が「放射線の影響を否定できない」と定める11障害の一部を伴う病気だった。「わしも被爆しとる。一日一日を大事にこの問題を追及せにゃあいけん」。病気になって芽生えた「被爆者」の自覚が迷いを消し去った。 (略) 提訴から4年が過ぎ、88人だった原告のうち14人が鬼籍に入った。昨年10月、高東さんは法廷で訴えた。「病気だらけの人生でお金に困り、多くの人が死んだ。全ての『黒い雨』被爆者の声を代弁するため、ここに立っています」  75回目の8月6日を迎える直前に判決が言い渡される。「原告になれんかった人も、救済される判決がほしい」。先駆者、そして多くの仲間たち……。半世紀にわたる運動の歴史に終止符を打つ。その日が必ず来ると信じている。【文・小山美砂、写真・山田尚弘】

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