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「ヒロシマ原人」の熱を知る via 中國新聞

 「ヒロシマ原人」という言葉は死語だろうか。全人生を懸けて原水爆を告発した市井の人たち。20年前、亡き先輩記者が用いていた。広島折鶴の会世話人、河本一郎さんの追悼記事だった▲いつも荷台に箱をくくり付けた自転車を押し、帽子に作業服。被爆者で「原爆の子の像」の生みの親だった。もっと古い記事だと、住まい兼事務所は足の踏み場もない6畳一間。妻が内職のミシンを踏む傍らで少年少女は鶴を折る。「子どもを利用している」と中傷されたことも▲旅立って35年になる「原爆一号」吉川(きっかわ)清さんも、「原人」か。広島大本部跡地のクリップ・ヒロシマに、きょうまで吉川さんの土産物店が再現されている▲自らのケロイドを内外の観光客にさらし、原爆ドーム近くで商いをした。「平和屋」とたたかれても屈せず、晩年は米空母の核持ち込みに怒り心頭だったという。変わり者とされた人こそ、熱を帯びていた時代だった▲この夏「原爆スラムと呼ばれたまち」と題した一冊が世に出た。やむなく爆心地近くの川土手に住み着いた人たちの詳細な記録。50年前に訪ね歩いた著者たちもきっと、ヒロシマの「地熱」に触れている。あの季節に学ぶ夏でもある。 原文

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