Tag Archives: 核兵器

日本の交渉不参加、被爆者「裏切られた」 核禁止条約 via 朝日新聞

米ニューヨークの国連本部で開かれている「核兵器禁止条約」の交渉会議で28日、カナダ在住の被爆者、サーロー節子さん(85)が演説し、日本の交渉不参加を痛烈に批判した。「自国に裏切られ、見捨てられ続けたという被爆者の思いを深めた」と述べ、参加国に対し、核兵器を違法化する条約の制定を求めた。 サーローさんは「広島に人々を招くことで、核軍縮で重要な役割を果たしていると日本政府は言うが、米国の『核の傘』に入り続けるのなら、空っぽでごまかしの行動だ」と非難した。 13歳で被爆したサーローさんは「広島を思い出すとき、認識不能なまでに黒ずみ、膨らみ、溶けた肉体の塊となり、死が苦しみから解放してくれるまでの間、消え入る声で水を求めていた、4歳だったおいの姿が脳裏に最初によみがえる」と証言。人類は二度と核兵器の苦しみを体験するべきでないとの確信から、生存者たちは核廃絶の運動を続けてきたと説明した。 さらに、各国の外交官に「将来世代だけでなく、広島や長崎の犠牲者の支持も感じながら」交渉に当たって欲しいと呼び掛け、核兵器の違法性の国際基準が確立されることを期待した。 全文は 日本の交渉不参加、被爆者「裏切られた」 核禁止条約 スピーチの映像 被爆者が日本政府批判 核兵器禁止条約会議 via Yahoo! Japan ニュース 当サイト関連記事 核禁止交渉、日本不参加 岸田外相「対立招く」via 中国新聞

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トランプ氏に被爆者抗議文 「地獄絵図想像したのか」via琉球新報

 長崎の被爆者でつくる五つの団体は28日、核戦力拡大への意欲を示したトランプ米大統領に宛てて「核妄想に抗議する」と題した文書を郵送した。「ヒロシマとナガサキの地獄絵図を想像したことがあるのか。強力で危険な武器を大量に持って、他国を威圧する時代は終わった」と記した。 抗議文は「ブーメランのように自国を滅ぼす危険性がある」と、核兵器の脅威を指摘。2001年の米中枢同時テロで核兵器が使用された場合を想像して考え方を改めるよう促した。さらに、3月下旬から国連本部で制定交渉が始まる核兵器禁止条約について「賛同することを強く望む」とした。   原文

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宗教と原発 via Blogos

菅直人   福島原発事故から5年9か月。今日の朝日新聞朝刊には宗教界でも原発に対する思索が深まっている様子が紹介されている。仏教界では多くの宗派が脱原発に傾斜している。またキリスト教でも原発の廃止を求める動きが強まっている。 私は先日、生長の家の山梨県北杜市に建設された新しい本部「森の中のオフィス」を訪ねた。国産材を使った木造の建物で、徹底した省エネの建物。太陽光発電、太陽熱暖房、バイオマス発電を備えた自然エネルギーによるエネルギー自給のオフィスであった。生長の家も脱原発を明確にし、環境重視の路線を強めている。 原発の問題は人間と科学技術の関係をどう考えるかということにつながる。私は学生時代、核兵器に反対する科学者が集ったパグウオッシュ会議に関心を持った。人間を滅ぼす核兵器を人間が開発した矛盾。原発も同じ矛盾を抱えている。 安倍政権は日本の原発を再稼働させ、さらにイギリスにまで原発建設費用を貸し付けようとしている。目先の利益だけを考え、子や孫の将来の安全を無視した狂気の政策だ。全ての宗教団体が原発に反対という一点で結集すれば、政府の方針を覆すことができる。 原文

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安倍首相のワシントンポスト報道否定こそ大嘘だ! 過去にも核武装発言を「発言してない」と虚偽の弁明 via LITERA

オバマ大統領が現在、検討しているとされる「核兵器の先制不使用宣言」をめぐって、安倍首相がハリス米太平洋軍指令官に反対の意向を示していたことを先週、各紙が報じた。元となったのは15日付けのワシントンポストの報道だ。 だが、昨晩、安倍首相は記者団に対し、「ハリス司令官との間において米の核の先制不使用についてのやりとりは全くない。どうしてこういう報道になったか分からない」と、ワシントンポストの報道を全否定した。 しかも、この安倍首相の否定を受けてネット上では安倍応援団が、ワシントンポストにそういうくだりはなく報道を後追いした朝日や毎日が記事を捏造した、などとわめき立て始めた。 (略) 以下が原文と翻訳したものだ。 〈Japan, in particular, believes that if Obama declares a “no first use” policy, deterrence against countries such as North Korea will suffer and the risks of conflict will rise. Japanese Prime Minister Shinzo Abe personally … Continue reading

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高知市でビキニ水爆実験を巡る健康相談会と講演会 via 高知新聞

1950年代に米国が実施したビキニ水爆実験を巡り、高知県は7月17日、健康相談会と講演会を高知市内で開き、元船員や遺族らが出席した。被ばくによる遺伝への影響を心配する声に対し、船員の被ばく線量を調べている星正治・広島大学名誉教授は「遺伝への影響はないだろう。(実験については)さらなる調査が必要」と述べていた。  約35人が参加した講演では、星氏が高知県内の船員の血液や歯を調べた結果を報告。「100ミリシーベルト以上の被ばくがあった」とした上で、「評価が難しい。いろいろな調査を組み合わせ、慎重に評価する必要がある」とした。 個別相談には元船員3人を含む計5人が訪れた。高知市の増本和馬さん(79)は「白血病で死んだ仲間も多い。因果関係を知りたい」と初めて参加。「魚のわたを食べた」「港に着いたら白衣の人に体の放射線を測られた」などと証言した。  遺伝への影響を心配する別の遺族に対しては、星氏らが「(広島原爆による)放射線の遺伝への影響は見つかっていない。(ビキニ被ばくも)安心していいだろう」と話していた。 […] もっと読む。 ◇ 厚労省がビキニ被爆の健康影響を否定 星氏らの研究取り上げず ◇操業記録発見で高知県宿毛市の船員遺族がビキニ訴訟の原告に

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(核の神話:16)水爆汚染、日本を覆った 映画で告発 via 朝日新聞

[…] ■ビキニ被曝追う、南海放送ディレクター・伊東英朗さん  ぼくがビキニ事件に出会ったのは2004年です。それからずっと取材し、ほぼ1年に1本は番組をつくって放送しています。南海放送という愛媛県のローカル放送局ですが、当初は放送してもほとんど関心を持ってもらえなかった。ほぼ反応ゼロ。多い年は年間200本くらいの番組をつくりますが、これほど関心を持たれない番組はないと思いました。それでも毎年、毎年、放送し、さすがに公共の電波でここまで関心が持たれないもの、つまり誰も見ない番組を放送していいのか、個人の思いだけでやっていていいのか、もうこの事件はだれにも興味を持ってもらえないから無理かなと思っていた矢先に福島の原発事故が起こり、放射能や「ビキニ事件」に関心が集まった。  1954年のビキニ事件発覚から10年後に東京オリンピックが開かれ、日本人は事件のことを忘れてしまいました。2011年の福島原発事故の9年後にまた、東京オリンピックが開かれようとしている。また、忘れてしまうのでしょうか。  福島の原発事故が起きてからは、もうひとつ目的ができました。福島の今後をどう見るのか、どういうふうにしていけばいいのか。ここに重大なカギがあります。「ビキニ事件なんて古い話を追っかけてないで、今のことをやれよ。福島だろう、伊東さん」と言われることがよくあるんですけど、福島を考えるうえで、このこと(ビキニ事件)はすごく重大なこと。福島は過去から学ばないといけないのに、事件は全く解明されていない。被曝(ひばく)したら、そのX年後、人間はどうなるか。これは、残念ですが、乗組員たちが死をもって伝えているという厳しい現実があるんです。死んでるわけです。ぼく自身、今までに130人ぐらいの乗組員や遺族からしか聞き取りできていませんけれども、取材した乗組員の多くが亡くなってしまっている現実がある。ところが、全容は全くわかっていない。130人はアメリカの核実験で被曝した人の何万人分の1かもしれない。この事件の全容を解明することによって、福島で今後どういうことが起こりうるのかということがシミュレーションできる可能性があるかもしれない。  戦後、太平洋で104回の大気圏内核実験をしたアメリカ原子力委員会は、アメリカ国内でも人体実験をたくさんした。旧日本軍が中国で人体実験をした731部隊と同じようなことをやったわけです。勝手に放射線を浴びせたり、プルトニウムを注射したり……。その人たちが核兵器を造り上げた。(ビキニ環礁で)核実験をしていた1950年代当時の原子力委員会のトップは、(ルイス・)ストローズという人物でした。彼は元金融家です。よく「核の抑止力」なんて言いますけど、確かに政治的に見ればそういうところもあるかもしれませんが、造ってる人たちは、実はビジネスでやっていたんだということを認識しておかなくてはならないでしょう。 【第五福竜丸だけじゃない】 […] 第五福竜丸の被曝が発覚した1954年3月から10カ月間だけ、人や船や魚の放射能検査が実施されました。検査を受けた船は延べ2729隻です。それだけの船が汚染海域を通った可能性があるということです。その2年前の1952年には、すでにたくさんの船が爆心地付近の汚染海域にいたわけです。この年が重要なのは、アメリカが勝手に決めていたマッカーサーライン(太平洋の禁漁区域)が撤廃された。だから、日本の漁船が「さあ、マグロをとるぞ」ということで勇んで爆心地近くの漁場にまで乗り込んでいき、被曝させられた。第五福竜丸が最初の船でも何でもない。すでに被曝が続いていたわけです。たまたま、第五福竜丸という船の被曝がスクープされただけです。  それから、アメリカの核兵器実験は1946年から1962年まで続けられている。104回です。核実験期間中、魚の検査をしたり廃棄処分をしたりしたのは1954年の10カ月間だけ。それ以外の期間は検査せず、強烈な被曝をした魚も水揚げされた。そういったものを私たちは食べ続けてきたという現実があります。しかし、何が起こっているのか、どういう健康被害があったのかはわかりません。  それから、もう一つ。フォールアウトが日本列島に届いていることは明らかです。アメリカ原子力委員会は1日ごとに調べている。機密文書によると、1952年にはすでに世界の107カ所にモニタリングポストを設置しているんです。うち日本は5カ所です。フォールアウトが広がることを予測し、それが分かってて彼らはやり続けていたんです。どれぐらいの放射性物質が降ってきたかというと、沖縄の気象台に「17万カウント」という記録があることは知っていたが、実はそれどころではなかった。福岡が35万カウント、鹿児島が24万カウント、そういった雨が日本列島に降っていたんです。もちろん、その1日だけじゃなく、多かれ少なかれ降り続いていた。そういうものが土壌に付き、作物に含まれ、私たちが摂取し続けた。映画の制作過程で、当時の放射性物質が現在も残っていることも分かりました。  無農薬野菜を選んで、放射性物質を摂取しないように気をつけていても、ごく微量ですがストロンチウム90とかセシウム137とかが、土壌に残っている。ビキニ事件というのは第五福竜丸1隻が被曝した事件ではなく、日本人の多くが強烈な放射能の影響を受けていることが分かった。ただ、そのことでどんな健康被害が起こっているかの実態はよく分からない。死んだ人は何も言いませんから。今生きている人は、たいしたことなかったんだろうなと思うかもしれません。ぼくもそうなんです。でも、生き延びられたということの奇跡をぜひ感じてほしい。もっと言うと、爆心地(漁場)に通ったマグロ漁船、爆心地近くを航行した貨物船、捕鯨船の人たちは、ほんとに良く生き延びられたなあ、と。よく80歳まで生きてるなあ、ほんとに奇跡だなあと感じます。  映画「X年後2」に登場する関東在住の川口美砂さんは小学校6年生だった時に、高知県室戸市のマグロ漁船員だったお父さんを36歳で亡くされています。朝起きたら、突然亡くなっていた。そういう人が室戸に行くといっぱいいます。今回の映画では、川口さんが故郷の元船員や遺族ら70人に聞き取りをしました。それに密着したのが、この映画です。実は一番好きなカットがあります。それはラストシーン。川口さんがある被曝者(元船員)の方に出会い、「おんちゃん、何歳?」「83歳」「あ、うちの父ちゃんと一緒や」って言うところがあるんです。自分で撮影しながら涙が出そうになりました。「酒を飲み過ぎたから早死にした」と言われた川口さんのお父さんも生きていれば83歳。ああ、今、川口さんはお父さんに会ってるんだなあ、そのときすごく実感しました。  お父さんが亡くなると、12歳の川口さんは家計を支えるために働き始めました。「なんちゃーことなかったですよ」って川口さんはいつも明るく言うんです。でも、改めてインタビューでそのことを聞くと泣き始めた。その時は正直、カメラを止めようと思ったんですけど、それが彼女の素直な気持ちだと思ったので収録し、映画で見ていただくことにしました。ぼくだったら耐えられないですね。小学校の時に自分の親が突然死んで、胸に耳を当てたとか、体が冷たくなってるとか。やはり僕らが考えなくちゃならないのは、じゃあ、何でそうなったのかということです。そして乗組員の死は家族を絶望させ、地域を破壊していくことを考えなければならない。 【原爆を落とした人がいる】 […] もっと読む。

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(核といのちを考える)米国内のヒバク、伝えたい 博物館建設めざしNPOvia 朝日新聞

米国の原爆開発「マンハッタン計画」の関連3施設が先月、国立歴史公園に指定された。この動きに対して、健康被害を受けたと訴える周辺住民らが「核開発の犠牲者の歴史も伝えるべきだ」と主張。原爆が使われた広島・長崎や原発事故があった福島などとの連帯を視野に入れた「ヒバク博物館」を米国内に造るためのNPOを設ログイン前の続き立した。  関連3施設の一つ、米ワシントン州ハンフォード。そこの技術者の娘で法律家のトリシャ・プリティキンさん(65)らがNPO「コア」を設立した。「米国内の核関連博物館は称賛ばかり」。プリティキンさんらはこう訴え、米西海岸の同州シアトルに新たな博物館を建設するため、寄付や資料の提供をウェブサイトで呼びかけている。 ■長崎原爆も生産  ハンフォードでは1945年、ニューメキシコ州での世界初の核実験や長崎原爆のプルトニウムが生産された。戦後も長崎原爆約7千発分の兵器用プルトニウムが造られた。86年に住民らの情報公開請求で米エネルギー省が公開した機密文書によると、49年12月の実験では740テラベクレルのキセノン133、287テラベクレルのヨウ素131が放出された。冷戦期も様々な放射性物質によって周辺が汚染された。生産停止後の89年から除染作業が続くが、地中の177個のタンクに貯蔵する大量の高レベル放射性廃液は1滴も処理できていない。  90年代以降、がんや甲状腺障害などの症状を抱える「風下住民(ダウンウィンダーズ)」ら約5千人が事業請負会社を提訴し、プリティキンさんも原告に。だが放射能との因果関係が認められず、多くの人は結審前に亡くなった。両親が甲状腺がんなどで死亡し、自身も頭痛や胃腸障害などの症状に悩まされたプリティキンさんは「次は自分が死ぬ番かもと思いながら声を上げ続けている」と言う。  ■日本と連携視野  ともにNPOを立ち上げた農家のトム・ベイリーさん(68)も子どもの頃から様々な病気を抱え、18歳の時に無精子症とわかった。家族らもがんで死亡。流産や奇形児、がん、白血病が多発した近所一帯を「死の1マイル」としてメディアを通じて告発した。日本映画の「ヒバクシャ~世界の終わりに」(03年)にも出演したベイリーさんは「核兵器であれ原発であれ、人類とは共存できない。これをよく知る日本の皆さんと博物館をつくりたい」と話す。 […]シカゴ大のノーマ・フィールド名誉教授は「マンハッタン計画を米国勝利の歴史として称賛せず、自国民の命も犠牲にしていることこそ示すべきだ。核が人類に強いる犠牲は世界共通だ」と指摘する。 田井中雅人 もっと読む。

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「放射線を浴びたX年後2」来月7日から上映開始via日テレニュース24

南海放送がアメリカの太平洋での水爆実験による被ばく問題を取り上げた映画、「放射線を浴びたX年後」の続編がこの程完成し14日試写会が開かれた。報道関係者らを招いた「放射線を浴びたX年後2」の試写会では伊東英朗監督が映画製作を通じた真実の掘り起こしの必要性を訴えた。南海放送では太平洋での被ばく問題を取り扱った映画「放射線を浴びたX年後」を3年前に公開、今回の続編では被ばく者の遺族が真相解明に向け活動する様子などを描いている。 全文を読む。

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<小出裕章さんに聞く>研究所、病院の核ゴミはどう処理してる?viaアジアプレスネットワーク

「核のゴミ」は原発から出るものだけではない。それ以外にも、研究所、病院などいろいろなところで放射線が用いられ、「核のゴミ」は生み出される。それらはどのように処理されているのだろう。 [..] 小出:まず、「放射性廃物」という言葉を使って下さってとてもうれしいです。普通は皆さん「放射性廃棄物」という言葉を使うのです。そして、廃棄物というのは「ダメになったから棄てる物」と書くのです。 […] けれども放射能に関しては、自然には全く分解作用も浄化作用もありませんので、放射能のゴミは棄ててはいけないのです。だから、私は廃棄物ではなくて廃物と呼ぶようにしてきたのです。 […] 小出:私自身、京都大学原子炉実験所の中では放射能のゴミのお守りをするという部署におりまして、なんとか放射能を環境に漏らさないようにして、長い間、仕事を続けてきた人間です。なんとかこれまでは、福島第一原発のような大きな事故は起こさずに稼働させてきました。けれどもこれからは、核のゴミの始末が本当にできるのか、頭の痛いことになってしまっています。 R:聞くところでは、核のゴミはこれまではアメリカに引き渡されていたということですが、2019年5月以降、この契約は延長されない可能性があるということですね。まず、研究炉での使用済み燃料がもしも今後アメリカに引き取ってもらえないということになったら、どうなるのですか。 […] 小出:おっしゃる通りです。原子力発電所の原子炉もそうですし、研究用の原子炉も全て日本というこの国では、米国におぶさってきたという歴史です。 R:そうですね。そうして私たちが突然、大量に残されていく放射性廃物を目の当たりにして、どう引き受けて処理したらいいのかという問題が、今後突きつけられていくというのが実情なのですね。 小出:そうです。いずれにしても研究炉であれ、これから長い年月動かすことはできませんし、原子力発電所にしたって、どちらにしてもウランは枯渇してしまって、数十年の後にはもう動かなくなるわけです。けれども、その後には膨大な放射能のゴミが残されてしまって、そのゴミのお守りを何百年、何千年、あるいは何十万年と引き受けなければならないということになるのです。 原発の燃料となるウランは数十年後には枯渇する。わずか数十年しか続けられない原子力発電のために、我々は数千年、数十万年先の人類までをも苦しめる放射性廃物をせっせと生み出していることになる。きっと多くの人が、原発が人類にとって「割に合わない」ものだと気付き始めている。その一方で、石油や天然ガスを輸入するよりは「安くつくから」と原発の経済性を唱える人々が数多いる。人類の遥かな未来より、自分だけの明るい明日をイメージする方が簡単だ。 もっと読む。

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終戦直後に爆心地見た元ソ連スパイの死 晩年の証言とはvia 朝日新聞

 モスクワで今年、101歳の男性が生涯を閉じた。原爆が投下された直後の広島、長崎へ、米国よりも先に調査に入ったソ連軍(当時)のスパイだった。同僚は放射線障害で死亡し、自らは生き延びた。報告書の所在は被爆70年が迫る今も分からないが、元スパイは晩年、親しい友人にその内容を明かしていた。 特集:核といのちを考える  スパイはミハイル・イワノフ氏。第2次世界大戦末期は東京のソ連大使館に在籍し、ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)の一員として活動していた。戦後も1970年代に武官(軍人外交官)として日本で勤務した。  「彼が日本人を悪く言うのを聞いたことがない」。日ロ関係史を研究するアレクセイ・キリチェンコさん(78)は、自宅があるロシアのモスクワでこう振り返った。かつて旧ソ連国家保安委員会(KGB)第2総局(防諜(ぼうちょう)局日本担当)に勤め、「知られざる日露の二百年」(現代思潮新社)の著者でもある。  スパイの諜報活動内容は漏らしてはならないとされるが、生前のイワノフ氏はキリチェンコさんに対し、国家の命令で調査した原爆投下直後の広島、長崎での体験を語っていた。キリチェンコさんはその証言の記録をまとめていた。 ■広島「SF世界のような光景」  米軍は45年8月6日と9日、広島、長崎に原爆を相次いで投下した。8日に参戦し、日本に宣戦布告したソ連は原爆を開発しておらず、威力の解明を急ぐ必要があった。  「現地調査を命じる」。イワノフ氏と同僚のゲルマン・セルゲーエフ氏は上層部から指示され、終戦翌日の8月16日に広島へ、翌17日に長崎へ入った。米国が広島で予備調査を始める20日以上も前だった。  2人は列車で広島駅にたどり着いた。想像した被害をはるかに超える「SF世界のような光景」に言葉を失った。「恐ろしい病気がはやっている」。日本の公安職員から「視察」を控えるよう説得された。  爆心地を突き止め、爆発でできたくぼみの深さを確認する――。爆弾の威力を算定するデータとなる状況をつかむことが最大の任務だった。だが、爆心地で見たのは約1キロ四方の真っ平らな空間。巨大なローラーで突き固めたようだった。  異様な色に溶けた石を拾っていた時、吐き気をもよおすような臭いがした。残留放射線の影響や怖さを知らないイワノフ氏らはそれらを包み、かばんに入れていった。  長崎では、米国の偵察機が原爆投下前に空からまいたという警告の紙片を見つけた。生き残った人はがれきを使い、一時しのぎのあばら屋を建てていた。死体から出る臭い、うめき声、叫び声……。役所の建物の床で一夜を過ごしたが、一睡もできなかった。 ■生死分けたのはウイスキー?  イワノフ氏とセルゲーエフ氏の生死を何が分けたのか。ソ連当局は調べた。  広島と長崎での視察後、イワノフ氏はモスクワの軍事病院に1年間入院させられて、徹底した検査を受けた。その結果、ある結論が導かれた。  「命を救ったのはウイスキー」  イワノフ氏は東京から広島へ向かう列車の中で、サントリーのウイスキーを1人で1本空けた。セルゲーエフ氏は酒を断っていた。  その後、ソ連は原子力施設で働く職員に少量のアルコール摂取を義務づけ、原子力潜水艦では、摂取のための一杯を「イワノフのコップ」と呼ぶようになったという。 […] 広島への原爆投下直前の45年7月、スターリンはトルーマン米大統領から原爆開発の話を知らされた際、極めて平静を装った。原爆の意義を低く見たいというスターリンの願望があったともいわれる。スターリンの意思を忖度(そんたく)するあまり、これらの報告書にもバイアスがかかり、原爆の威力を過小に記そうとした可能性がある。粛正を恐れた官僚国家ソ連では、真実の報告よりも権力者への配慮を優先した土壌がある。  これらの調査団より早く、45年の8月16~17日に広島と長崎に入ったミハイル・イワノフ氏の報告書は、彼から直接聞き取りをしたアレクセイ・キリチェンコ氏によると、「駆け引き無しに、隠さず見たままを書いた」とされる。  当時、スターリンにまで上げた報告書が今も見つからない以上、101歳で今年亡くなったイワノフ氏が晩年、キリチェンコ氏に明かした証言こそが、現時点では最もニュートラルな資料といえるだろう。  ただ、「核の時代」の幕開けに直面したソ連が当時、原爆の被害をどう直視して記録したのか、それを知るためにも、イワノフ氏の原爆報告書がいつか見つかることを期待したい。 もっと読む。

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