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NHK、ドキュメンタリー番組「”原爆の絵”は語る」を8Kで制作。ナビゲーターの波瑠が収録の感想を語った。2Kは8/6放送 via Stereo Sound Online

(抜粋) 「”原爆の絵”は語る」は、広島平和記念館に収蔵されている、被爆者自らが描いた膨大な原爆の絵を元にしたドキュメンタリー。昭和40年代に、ある一人の被爆者の発案によって始まったものだそうで、NHK広島が募集を行ない、これまでにおよそ4200枚もの絵が、同館に寄せられているという。 NHKではまず、その貴重な絵を、約1億画素のセンサーを持つスチルカメラによって静止画撮影。広島平和記念館の一角に専用の撮影ルームを作り、およそ2ヵ月の時間をかけてデジタル化したという。絵のサイズによってはレンズの収差が目立ってしまうものもあるため、複数のショットをステッチ(つなぎ合わせ)して1枚に仕上げたものもあるそうだ。完成した画像は1枚あたり15K相当のデータ量があり、拡大表示しても8K相当の解像度で見られるようになっている。 (略)  番組のチーフ・プロデューサーの大久保氏は、「絵のリアルさを(8Kの映像を通して)体感してほしい」と語っていた。また、なせ8Kなのかについては、2年前の2015年に、被ばく遺品を8Kで撮影したミニ番組を制作した際、映像から伝わってくるリアルさに魅了されたのがその理由だという。 なお、デジタル化した画像については、NHKが専用のアプリ「インタラクティブ8Kビュアー」を開発。手元のタブレットで操作した映像を、8Kモニターに表示して見られるシステムを構築。8月1日~16日まで、広島平和記念資料館で展示する予定だ。 具体的には、4200枚の絵の中から時系列の判別のつく約1000枚を、広島の爆心地を中心にした写真に、時間、場所のタグをつけてマッピング。同時に、絵の裏書や聞き取り調査などによって、絵の説明文も表示できるようにしている。時系列の分からないものについても、作者や内容などによって検索できるようになっている。 ●番組「”原爆の絵”は語る」 <2K放送> 8月6日 NHK総合 13:05~13:48 <スーパーハイビジョン(SHV)試験放送> 7月31日~8月2日、8月4日~9日、8月11日~16日 13:00~13:43 全文はNHK、ドキュメンタリー番組「”原爆の絵”は語る」を8Kで制作。ナビゲーターの波瑠が収録の感想を語った。2Kは8/6放送 

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被爆証言聞く会 バーから伝えた8月6日…37歳店主逝く via 毎日新聞

活動記録、20日出版  広島市中区のバーで11年にわたって被爆証言を聞く会を開いたマスターが今月3日、37歳で亡くなった。被爆3世の冨恵(とみえ)洋次郎さん。広島生まれなのに原爆に無知だった自分を恥じ、証言を聞く場を自らの店に設けた。被爆者の思いや語り継ぐ大切さを伝えようと、冨恵さんが病に侵されながらつづったエッセーと会の記録が20日に出版される。【東久保逸夫】 本のタイトルは「カウンターの向こうの8月6日」。冨恵さんは高校卒業後、20歳でバー「スワロウテイル」を構えた。被爆した祖母がいながら、原爆について客に聞かれても答えられず、もどかしさを覚えた。2006年2月から、原爆の日に合わせて毎月6日に聞く会を開催。「原爆を売り物にするな」と非難も浴びたが、新たな試みに多くの若者が足を運んだ。  本にはバーでマイクを握った「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さん(故人)らの証言や被爆者たちとの交流、被爆体験の継承について自問した日々がつづられている。昨夏に出版依頼があり、「近い将来、被爆者はいなくなる。今書いておけば読んでもらえるし、間違いも指摘してもらえる」と筆を執った。  だが、この年の暮れ、冨恵さんを病魔が襲った。今年1月には、末期の肺がんで余命2カ月と宣告された。声がかすれ、薬の副作用で髪が抜け落ちていった。生きた証しを刻むように、冨恵さんは書き続けた。校了した原稿が届いた6月、友人の代読で一字一句を最終確認した。作業をやり遂げた約10日後、永い眠りに就いた。 (略) 今月6日にあった140回目の「聞く会」で証言をする被爆者の寺本貴司さん。背景には冨恵さんの写真が張られていた=広島市中区で2017年7月6日、山田尚弘撮影 (略) 本は230ページで税別1400円。問い合わせは光文社(03・5395・8172)。 全文は被爆証言聞く会 バーから伝えた8月6日…37歳店主逝く

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岡田光世「トランプのアメリカ」で暮らす人たち セントラルパークの自動車修理工(下)via Niftyニュース

(抜粋) でも、トヨタはは日本の会社だから、絶対に働かない。日本人というより、国としての日本が嫌いなんだ」。 理由を聞くと、子供の頃、彼をかわいがってくれた高齢の男性について話し始めた。 「その人が、『バターン死の行進』(Bataan Death March)の生存者だった。日本がアジアでどれだけひどいことをしてきたか、聞かされたよ」 第2次大戦中、フィリピンのバターン会戦で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍の捕虜約8万人が、炎天下の過酷な状況で捕虜収容所まで歩かされ、多くの死者が出た。 捕虜の数が想定をはるかに超えたため、当初計画したようにトラックで移送できず、食糧や水も不足していた。すでに捕虜の多くが飢えやマラリア、赤痢で苦しんでおり、日本兵の暴行や残虐行為などもあって、収容所での死者を含むとその数は3万人ともいわれる。 当時の責任者は戦後、処刑され、岡田克也外相(当時)などが謝罪している。「バターン死の行進」がいかに残虐だったか、これまで何人ものアメリカ人が私に語った。 これに対し、「護衛の日本兵も歩き、多くが死んだ。長距離の徒歩での移動は日本兵にしてみれば常識で、捕虜を殺すつもりはなかった」、「捕虜になるのは恥と日本兵は教え込まれていたため、捕虜に対する人道的な意識に欠けていた」といった声がある。 「日本もイスラム教徒を受け入れたらどうだい?」 (略) 「日本もひどいことをしてきた。でも、だからといって、あなたは原爆を正当化できるの?」と私が聞いた。当時10歳だった私の義母は、広島の原爆で両親と兄を一度に失った。 「できる」。即答だった。 「原爆を落とされたくなかったら、真珠湾を攻撃するな」「原爆は核兵器で、しかも一般市民を殺したのよ」「君たちはアメリカ人を殺した。負け惜しみを言うな。僕は自分の国が原爆投下したことを、謝る気はない。戦争は地獄だ。戦争は悪の海だ(War is hell. War is an ocean of evil.)」 原爆を正当化するアメリカ人は年々減りつつあるものの、2015年のギャラップ調査によると、今も全体の56%を占める。その割合は、共和党支持者では74%と、民主党支持者の52%を大きく上回っている。 2017年7月7日、核兵器禁止条約がニューヨークの国連本部で採択された。しかし、米国など核保有国は、「安全保障環境の現実を明らかに無視している」と強く批判した。米国の核に守られている日本は、唯一の戦争被爆国でありながら、会議に参加すらしなかった。 トランプ大統領はこれまでインタビューなどで、「過激派組織「『イスラム国(IS)」』がアメリカを攻撃してきたら、核兵器使用もあり得る」、「核兵器を持っているなら、なぜ使えないのか」といった発言をしてきた。 全文は岡田光世「トランプのアメリカ」で暮らす人たち セントラルパークの自動車修理工(下)

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広島原爆アーカイブ 被爆1カ月 毎日新聞記者が捉えた廃虚の広島 via 毎日新聞

広島への原爆投下から1カ月後の1945年9月、毎日新聞記者が撮影した写真は、廃虚と化した街並みの片隅に、生活再建に踏み出した人々の姿を捉えていた。一方で米軍調査団による視察の光景も収めており、連合国軍総司令部(GHQ)による報道統制が始まる直前の様子を伝える。 無残な焼け跡、復興ほど遠く   被爆1カ月後の広島を捉えた一連の写真は、毎日新聞大阪本社写真部に在籍した山上圓太郎、新見達郎両記者が1945年9月9~11日ごろに撮影した。広島原爆資料館の検証で判明した撮影ポイントは、広島県大野村(現廿日市市)を含む21カ所で、復興にはほど遠い状況を伝えている。 (略) 撮影直後、9月17日に九州に上陸した枕崎台風が広島に接近する。広島県内だけで2000人以上の死者・行方不明者を出し、人々の生活再建はさらに遠のくことになった。 (略) 45年9月9~11日ごろ、毎日新聞大阪本社写真部に在籍した山上圓太郎と新見達郎の両記者が撮影した。焼け残った建造物や病院を視察する米軍調査団の写真が中心で、市井の人々を捉えたカットは数えるほどしかない。 (略) 広島原爆戦災誌第1巻(広島市編、71年)はこのヤミ市について「(45年)八月末から九月上旬はムシロを敷いてあきなう露店が出ていた」と書いたが、再開発された現在の広島駅前にその面影はない。駅南口から猿猴川に架かる駅前大橋を渡り、近くに建つ雑居ビルの階上から東側を仰ぐ。200メートルに届かんとする高層ビルが正面にそびえ、整備された川岸にはランニングする女性の姿があった。 (略) 原子野に芽吹く緑  人の姿こそないが、被爆地の再生を予感させる写真もある。軍用地だった広島城の周辺(地図16)に芽吹いたカボチャを撮影した1枚だ。広島県立総合体育館(広島市中区)のかいわいを歩く。地下階の頭上を渡す通路が、映画で見た近未来都市を思い起こさせた。街路樹にふと目を向ける。枝々に咲く花が西日を浴び、まぶしいばかりのピンク色を放っていた。【平川哲也】 全文は広島原爆アーカイブ 被爆1カ月 毎日新聞記者が捉えた廃虚の広島 写真は広島原爆アーカイブ写真特集 毎日新聞記者が捉えた被爆1カ月の広島

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温暖化の脅威迫る島 マーシャル諸島の活動家(詩人) キャシー・ジェトニル・キジナー氏 via 毎日新聞

未来の変革者を世界に  日本の南東約4000キロの太平洋に浮かぶマーシャル諸島=1=はかつて米国による核実験の舞台になった。そして今、地球温暖化現象の一つである海面上昇の危機に直面している。島の平均海抜は2メートル。「キングタイド」と呼ばれる巨大な高潮が襲うたび、国土を失いかねない脅威にさらされる。「島を見捨てない」と、マーシャルを拠点に世界を股にかける活動家のキャシー・ジェトニル・キジナーさん(29)。6月に初来日した際、温暖化対策や反核への思いを聞いた。【聞き手・森忠彦】 (略) --マーシャル諸島のビキニ環礁では1954年、米国による水爆実験(ブラボー実験)があり、日本の第五福竜丸も死の灰を受けました。日本と同様、「被爆国」なんですね。  実験があった54年3月1日にちなみ毎年3月1日は「核被害者追悼の日」です。母の呼びかけもあり、今年からは被害者も参加して大きな会議を開きました。母方の祖父母は米国の核実験による被ばくでがんになり、病院で治療を受ける機会もないまま亡くなりました。広島や長崎と同様、核兵器による多くの犠牲者がいるのです。でも、これまでは米国に経済を依存してきたこともあり、あまり大きな反対運動にはなってきませんでした。ようやく今年から、「反核兵器」が大きな社会運動になろうとしています。  冷戦中には米国の核実験によって、そして今は地球温暖化による気候変動によって、マーシャルは人類の犠牲になってきました。つまり、歴史的に2回も人類から「廃棄された」存在なのです。大国のエゴのために廃棄される、小さな島国。私たちの役割は、起きてはいけないことを未来に伝えるメッセンジャーなのかもしれません。 --今回、広島も訪問しました。改めて感じたことは?  痛ましく悲しい事実と被爆者や支援する若者たちの活動に感情を揺さぶられました。記憶や体験を伝えることがいかに大切か。人の心に一番訴えかけられるのは「人間」のストーリーなんだと。もっと日本政府は、日本人は、核の恐怖を世界へ訴えてほしい。  これまでマーシャルの人間は控えめでした。何かものを言うということに慣れていなかった。弱小国なので見向きもされないと思っていました。でも、最近の若者は違ってきています。反核や気候変動への危機感からソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)などを通して世界に向けて国のことや自分たちの訴えを発信するようになってきました。そういう若者を社会のリーダーに育てる非政府組織(NGO)を運営しています。未来の変革者を世界へと送り出すのが、今の私の役目です。 (略)  ■人物略歴 Kathy Jetnil-Kijiner  1987年マーシャル諸島生まれ。米ハワイで育ち、18歳でマーシャルに戻る。気候変動活動家として世界各地で講演活動を繰り広げている。母は昨年からマーシャル諸島の大統領。祖父が駐日大使の知日派。今回は日本のNGO「アース・カンパニー」の招きで来日した。 全文は温暖化の脅威迫る島 マーシャル諸島の活動家(詩人) キャシー・ジェトニル・キジナー氏

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「憲法9条改正に警鐘を」via 長崎新聞

 8月9日の「長崎原爆の日」に平和祈念式典で田上富久長崎市長が読み上げる平和宣言について、長崎の証言の会(代表委員、内田伯(つかさ)さんら2人)など4団体は6日、安倍晋三首相が強い意欲を示す憲法9条改正に警鐘を鳴らす文言を盛り込むよう、市に要請した。 他の3団体は▽言論の自由と知る権利を守る長崎市民の会▽県原爆被爆教職員の会▽県被爆二世の会。各団体の代表ら8人が長崎市平野町の長崎原爆資料館を訪れ、大久保一哉平和推進課長に要請書を手渡した。 要請書は、市が1日に示した宣言案について「平和憲法が制定以来最大の危機を迎えているのに、憲法に関してわずかな言及しかしておらず驚きと失望を禁じ得ない」と批判。「9条改正反対の声を被爆地から強く上げるべきだ」としている。 (略) 言論の自由と知る権利を守る長崎市民の会の関口達夫事務局長は「市長は安倍政権の意向を忖度(そんたく)しているようにしか見えない。市長が耳を傾けるべきは、原爆犠牲者の声なき声だ」と訴えた。 全文は「憲法9条改正に警鐘を」 関連記事: 平和宣言最終素案 核兵器禁止条約不参加批判盛り込みも 「改憲への懸念」言及されず /長崎 via 毎日新聞

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核禁止条約、折り鶴で歓迎=原爆ドーム前で市民ら-広島 via Jiji.com

 国連での核兵器禁止条約の採択を受け、広島市中区の原爆ドーム前で8日、市民や被爆者らが集会を開いた。 (略) 100人以上の参加者が白い折り鶴を掲げた。 市民団体でつくる「核兵器禁止条約のためのヒロシマ共同行動実行委員会」が企画。事務局長の森滝春子さん(78)は条約を「人類英知の結晶」と評価するとともに、日本政府に「被爆国としての責任ある態度を持って締約国となるよう署名、批准を果たして、国際社会の信頼を取り戻すべきだ」と訴える声明文を読み上げた。 参加した広島県原爆被害者団体協議会の佐久間邦彦理事長(72)は条約が「核保有に悪の烙印(らくいん)を押している」と賛同。一方、日本政府が交渉に参加しなかったことについて「納得できない。世界の恥だ」と憤った。 全文は核禁止条約、折り鶴で歓迎=原爆ドーム前で市民ら-広島

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核兵器禁止条約採択へ 保有国不参加で溝鮮明 via 日本経済新聞

 【ニューヨーク=高橋里奈】国連本部で核兵器の開発や使用、保有を法的に禁ずる条約が7日に採択される。広島・長崎への原爆投下から70年以上を経て、初めて核兵器を禁止する条約がまとまる。交渉には129カ国が参加し核軍縮に向けた機運が高まるが、米国やロシア、中国など保有国は欠席。日本や韓国など「核の傘」の下の国も不参加で「核兵器なき世界」を巡る国際社会の溝が鮮明となっている。 6日午後に記者会見したホワイト議長(コスタリカ)は「正式に条約を採択する明日の会議は歴史的な瞬間になる」と語った。3月末の交渉開始からのスピード決着で「これほど速く交渉が進んだ条約はないだろう」と誇った。第72回国連総会期間中の9月20日に署名を開始し、世界にアピールする。 条約案では第1条で核兵器の開発や実験、製造、保有、移転、貯蔵といった主要禁止事項を定めた。使用のほか、議論となっていた「使用をするとの威嚇」も含めたため、保有国のさらなる反発を招きそうだ。禁止事項について支援を求めたり、受けたりすることも禁じ、配備を許すことも禁止した。日本のような「核の傘」の下にある国にとっても参加のハードルがより高くなった。 また保有国が加盟に転じた場合には、核兵器を「即座に運用状態から撤去し、破壊する」とした。交渉の推進国は保有国の参加も歓迎する立場を表明している。核実験や核兵器による犠牲者に対しては「差別することなく医療やリハビリ、精神的支援を提供、社会・経済的に受け入れること」と明記した。 前文には「核兵器の使用の犠牲者(被爆者)の苦しみや被害に留意する」と盛り込み、広島・長崎の被爆者をいたわった。だが唯一の戦争被爆国である日本は交渉に参加しておらず、被爆者の怒りを買っている。 条約は50カ国目が批准、または受け入れを届け出てから90日後に発効する。 続きは核兵器禁止条約採択へ 保有国不参加で溝鮮明

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放影研 被爆者に謝罪へ ABCC時代、治療せず研究 via 毎日新聞

原爆による放射線被ばくの影響を追跡調査している日米共同研究機関「放射線影響研究所」(放影研、広島・長崎両市)の丹羽太貫(おおつら)理事長(73)が、19日に被爆者を招いて広島市で開く設立70周年の記念式典で、前身の米原爆傷害調査委員会(ABCC)が治療を原則行わず研究対象として被爆者を扱ったことについて被爆者に謝罪することが分かった。放影研トップが公の場で直接謝罪するのは初めてとみられる。丹羽理事長は「人を対象に研究する場合は対象との関係を築くのが鉄則だが、20世紀にはその概念がなかった。我々も被爆者との関係を良くしていかなければいけない」としている。 ABCCでは被爆者への治療は原則行わず、多くの被爆者の検査データを集めた。被爆者たちは「強制的に連れてこられ、裸にして写真を撮られた」などと証言。「モルモット扱いされ、人権を侵害された」と反発心を抱く人が少なくなく、「調査はするが治療はしない」と長く批判を浴びてきた。 (略) 一方、被爆者を裸にして検査をしたり遺体の献体を求めたりしたことについて、丹羽理事長は「米国側が日本の習慣などを十分理解しておらず、文化摩擦があった。だがサイエンスとしては必要だった」との見方も示した。  放影研歴史資料管理委員会委員の宇吹暁・元広島女学院大教授(被爆史)は謝罪について「放影研は被爆2世、3世の研究を今後も続けるには、組織として謝った方が協力を得られやすいと判断したのだろう」とみている。【竹下理子】 全文は放影研  被爆者に謝罪へ ABCC時代、治療せず研究

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(ナガサキノート)失った親族13人、原爆孤児だった via 朝日新聞

■野中留吉さん(1928年生まれ)  13人。野中留吉(のなかとめよし)さん(89)が原爆で失った親族の数だ。当時17歳。父が他界し、長崎市の旧江平町に母や妹と住んでいた。近くには長姉とその家族が居を構えた。子どもは5人。被爆したその年に生まれたばかりの子もいた。 (略) 被爆翌日の朝。野中さんは、まだ夜が明けないうちに再び我が家へ向かった。母は、妹は無事か。たどり着くと、がれきと白い煙の中、必死にその姿を捜した。 見つけたのは、腕や足、顔が白骨となり、それ以外は黒い炭となった遺体だった。確かめるすべはなかったが、「母だ」と直感した。少なくとも、そう信じようとした。 白骨と化したその顔は、大きく口を開けていた。母は炎の中で何を叫んだのだろうか。野中さんは今でも考えることがあるという。「助けて」あるいは、息子の身を案じて、「留吉」と呼び続けたのかもしれない。 (略) 被爆数日後から救援食が配られ始め、野中さんはそれを姉一家4人に食べさせた。 しかし5歳ほどの三男・道秀さんは食べ物を受け付けなくなった。長女と次男は口にしたが、3人とも口の周りに水ぶくれができ始めた。6日目、道秀さんが亡くなった。 道秀さんを火葬した日の夜、野中さんは姉・エキさんから病床に呼ばれた。「うちも朝までもつかわからんとよ。子ども2人を頼むけんね」。野中さんは「冗談じゃなか。姉ちゃんがお袋代わりになってもらわないかん」と返した。まだ17歳。家族が恋しかった。 夜更けになり、「留吉」と呼ぶ声が聞こえた。母方の叔父たちが、出津から救援に来てくれたのだ。姉一家の状況を見た叔父たちは「何とかして早う運ばんと」。ゆりかごで3人を運び、出津から乗ってきた舟に乗せた。 翌朝、エキさんは舟の上で「故郷の水を飲んで死にたかった」と言い残して亡くなった。母の遺体を前にした時は出なかった涙が、その時は止まらなかった。 その直後、おいの忠義さんに聞かれた。「お母ちゃんは?」 野中さんは「そこに寝とるたい。じっと寝とかんね」と制したが、忠義さんは「お母ちゃんの所に行くけん」とせがんだ。手を組ませてほしいと言われてその通りにすると、目を閉じて息を引き取った。母、そして自らの死期を感じ取ったのだろうか。 (略) 戦後間もないころ、会社の労働組合で、ある問題が起きた。「職場の規律を乱した」として、青年部の会員を解雇するという提案が会社の懲戒委員会からあった。その工員は今でいうタイムカードを後輩に代行させ、自分は働かずに街へ出て遊んでいたという。 ただ当時は、職場の規律自体が確立されていなかった。野中さんは、会社としてそういう態勢をとらないまま社員を罰するのはおかしいのではないかと思った。職場大会で「首を切るのは反対」と発言すると、それを聞いた青年部長が「あいつを役員に使え」。地区の役員を任されることになり、そこから組合の経験が始まった。50歳ごろまで、「組合の仕事にまみれてきた」と振り返る。 1956年、第2回原水爆禁止世界大会が長崎で開かれた。野中さんが役員をしていた青年部は、大会の準備・設営にかり出されることになった。設営に汗を流しながら、「世界大会が成功するように」と強く願ったことを覚えている。 今年89歳を迎えた野中さん。原爆に遭った同僚や仲間はほとんどが亡くなった。 原爆で13人もの親族を失った経験を、あまり積極的には語ってこなかった。同じく長崎で被爆した妻のフクヨさん(86)とも「涙流して深刻に語り合うなんてことはなかね」。 取材中、何度も「僕の話は記事にならない」と言われた。「原爆の孤児になりながら、原爆に対する憎しみをどう僕は持っているのか。それがどういう形で僕の生活に反映されているか。でもそれはなかとよ、率直な話。非常に期待を裏切ることになるけど」 ビキニ水爆、第五福竜丸、チェルノブイリ……。ことあるごとに核反対の声は大きくなった。しかし、「ソ連の原爆は人民の平和のための武器。米国の原爆は侵略の道具」と言う人もおり、違和感を覚えることもあった。 声高には叫ばないが、心では平和を願い続ける。平和祈念式典には欠かさず足を運ぶ。「争いが地球からなくなってほしい」。午前11時2分の鐘を聞きながら、いつも思うことだ。 全文は(ナガサキノート)失った親族13人、原爆孤児だった 関連記事: 「ナガサキノート」バックナンバー 特集:核といのちを考える

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