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「自分の言葉で伝えられる最後の世代」原発事故の経験を演劇に 福島・郡山の高校生 via 東京新聞

 東京電力福島第一原発事故後の経験を演劇にした郡山北工業高校(福島県郡山市)の生徒たちは何度も悩んだ。「原発事故を語っていいのだろうか」。事故当時、小学生だった彼らは事故の経験を封印すべきだと感じていた。それでも「私たちが自分の言葉で伝えられる最後の世代」と自覚し、もがき苦しみながらも演じきった。(片山夏子、写真も) ◆コロナ禍と重なる原発事故の放射能  「放射能もコロナも、既に俺たちの生活に入り込んじまった」「拘束された生活は、経験済みっすよね」「安全性と経済性は両立するのが難しいんだ」 昨年12月4日、福島市内で開かれた高校演劇コンクールの舞台。郡山北工業高演劇愛好会のメンバー7人の声が響いた。 (略) ◆「傷つく人がいるかも」「逃げていても何も変わらない」  台本は、愛好会顧問の佐藤茂紀教諭(57)が2011年に赴任していた別の県立高の演劇部員の経験を基に書き上演したもの。だが当時の高校生と小学生では、原発事故に対する受け止め方が違った。愛好会メンバーで2年の矢部恭真きょうまさん(17)は「状況に立ち向かおうとする(登場人物の)姿に違和感があった」。事故直後に苦労した大人の姿を見て、矢部さんは震災や原発事故の話は避けなくてはならないと感じていた。 佐藤教諭は「違和感」を台本に反映した。最上級生が「小学生だった私たちが、原発事故後の経験を語れる最後の世代」と他の生徒を引っ張り、演劇コンクールに出場したが、文化祭では家族や友人に見せることを恐れた生徒らが体調を崩し、一部だけの上演に。矢部さんは「震災を思い出し、傷つく人がいるかもしれないと思った」と明かす。  昨春、コロナの緊急事態宣言で演劇愛好会の活動ができない中、生徒たちは原発事故直後を思い起こした。3年の新田凌生りょうせいさん(18)は「母親が僕らを必死で守ろうとしてくれた。放射能とコロナ禍は同じ」と言う。矢部さんは「人を『コロナ菌』と呼ぶいじめの話を聞いた時、原発事故後に『放射線』と呼ばれたことを思い出した」と話す。 (略) 3年の小野直輝さん(18)は「原発事故を嫌な思いだけで終わらせたくなかった。つらいことだけどきちんと伝え、みんなが笑顔になれるエネルギーにしたかった」と振り返った。 全文は「自分の言葉で伝えられる最後の世代」原発事故の経験を演劇に 福島・郡山の高校生

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「復興五輪」というけれど…福島で聖火リレースタート、被災者の思い複雑 via 東京新聞

東京五輪の聖火リレーが25日、始まった。初日のコースは、東日本大震災と原発事故で被災した福島県沿岸部。復興が遅れ、まだ誰も住めない地域がある。「復興五輪」の理念に複雑な思いを抱く被災者がいる中、ランナーは未来への願いを込めてトーチをつないだ。一方で、新型コロナウイルス禍での開催を不安視する声も根強い。(小川慎一、片山夏子) 「テレビで見ていたがれきもなくなっていた。何もない所もあったけど、福島が復興しているって伝えたかった」。富岡町の第1走者、中学1年の嶋田晃幸さん(12)は、走り終えて笑顔だった。 東京電力福島第一原発がある大熊町で生まれ育ったが、家族で宮城県に避難して10年になる。「トーチはずっしりしていた。日本の1億人の聖火をつなぐ1人になれたことで、より重く感じた」 大熊町のリレーのコースは、避難指示が解除された西部の大川原地区。沿道では約300人が聖火を見守っていた。武内一司さん(67)もその1人。来月完成する近くの商業施設で、喫茶店を10年ぶりに再開する。 町で1人で暮らし、家族は南相馬市にいる。「前の東京五輪の時はテレビで聖火見て興奮したけど、今回は実感わかねえ。若い人はいねえし、元の町には戻らねえ。復興、簡単じゃねえよな」[…] 「帰りたくても町に帰れない状況を、世界に知ってもらう良い機会。避難先から来てくれた懐かしい顔が、沿道にたくさんあった」。にこやかな渡辺さんが続けた言葉には、力がこもっていた。 「人もいない状態で何が復興だと思うけど、小さな光を見つけていきたい」【関連記事】聖火リレー沿道で「密」あちこちに 会食禁止守らぬランナーも 全文

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原発は気候変動対策?via FoE Japan

原発は気候変動対策? 日本政府は運転時に温室効果ガスを排出しない原発を気候変動対策に位置付けています。しかし、リスクやコストが高く、東電福島第一原発事故の収束も見通せず、また核のゴミ問題も解決が見えない中、原発は気候変動対策になるのでしょうか? 問題点をアニメーションにまとめました。 ▼こちらもぜひ! 2011年に発生した東電福島第一原子力発電所事故から10年以上経ちますが、その影響で苦しむ人がたくさんいます。事故処理費用は膨れ上がり、汚染も続いています。さまざまな角度から原発事故についてまとめた311ふくしまミエルカプロジェクトのウェブサイトもご覧ください。→https://311mieruka.jp/​ ▼「ふくしまミエルカプロジェクトインタビュー集」 事故後福島に帰還した方、避難を続けている方、さまざまな方にインタビューを行いました。こちらもぜひご覧ください→https://www.youtube.com/playlist?list…

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仲間の自死、見せかけの復興「このまま戻れない」…原発事故「自主」避難者たちの不条理な現在地 via 東京新聞

東京電力福島第一原発事故の後、福島県内の旧避難指示区域外から逃れた人たちは「自主避難者」と呼ばれ、さまざまな支援の外に置かれた。同県郡山市から川崎市に母子避難した松本徳子さん(59)もその1人だ。自主避難者への住宅無償提供が打ち切られた後、自死を選んだ同郷の母親もいた。 「避難をした人、しない人。それぞれの選択が尊重される社会を願ってきたが、かなわなかった。不条理です」と自主避難者の現状を見つめる。(安藤恭子) ◆いないことにされる私たち  「五輪に向け、福島は今『復興』の一色。その一方、私たち区域外避難者はいないことにされ、この国は原発をやめようとしない」。3月10日夕、横浜・象の鼻パークで開かれた東日本大震災の追悼イベント。松本さんが聴衆に語りかけた。「この10年で何かが変わった、とされることには憤慨しています」  松本さんが生まれ育った郡山は、福島第一原発から約60キロ離れている。当初は避難するつもりはなかったが、震災の3カ月後、当時12歳の次女が大量の鼻血を出し、吐き気や下痢をもよおすようになった。「少しでも被ばくしない所へ」。自営の夫を残し、2011年秋に川崎市に移転した。  17年3月、自主避難者への住宅の無償提供政策が打ち切られたが、郡山には帰れなかった。「自宅の庭にはまだ汚染物が残っていたから。娘も体調を崩した怖さを覚えている」と松本さん。除染は進んでも、放射線量が高い場所や食べ物は存在する。次女は川崎で高校を卒業し、就職した。 (略) ◆声を上げられなかった人たちの分まで  16年にできた「避難の協同センター」(東京)の代表世話人に就き、自主避難者らの相談に応じてきた。17年5月、相談者の1人で郡山から母子避難していた女性が自死をした。「睡眠剤をのんだから、またね」。電話で話したのが最後だった。  女性は仕事を掛け持ちし、自分の物を切り詰めて子どもたちの学費を貯金していた。家族に母子避難を反対され、自分を責めてもいた。「頑張っていた彼女を、貧困が追い詰めた。住宅無償提供の打ち切りを決めた国や行政の選択は間違いだ」。五輪を前に自主避難者をなかったことにする「見せ掛けの復興」がうたわれている。松本さんの目には「棄民政策」と映る。 (略) 2月の地震でも原発事故の恐怖はよみがえり「このままでは帰れない」と心に決めている。戻れば、福島が大丈夫と認めることになるからだ。「子どもたちに、原発が安全なエネルギーと思ってほしくない。同じ過ちを繰り返さないため、声を上げられなかった人たちの分まで、おかしいと言い続けなければと思っているんです」 全文は仲間の自死、見せかけの復興「このまま戻れない」…原発事故「自主」避難者たちの不条理な現在地

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「人生を懸けてビキニ事件語った」 元乗組員、大石又七さん死去 via 毎日新聞 (goo ニュース)

[…] 第五福竜丸展示館の学芸員、市田真理さん(53)は「人生を懸けてビキニ事件を語っていた」と振り返る。最後に会ったのは2019年12月。学生を連れて行くと、「話したいことがたくさんある」と言ったという。その後は新型コロナウイルスの感染拡大で面会がかなわず、「もう一度、一緒に講演する約束だったので、信じられない。命懸けで伝えようとしたことを受け継いでいかなければ」と声を詰まらせた。  平和研究が専門の竹峰誠一郎・明星大教授(44)は「(差別や偏見から)第五福竜丸の船員の多くが沈黙せざるを得ないなか、大石さんは証言した先駆者。大石さんの存在なくしてビキニ事件の深さや背景は語れない」と功績を語った。大石さんと一緒にマーシャル諸島を訪ねており、「マグロやカツオの知識が豊富で、船に乗った時は輝いていた。被害を受けなければ太平洋の海と生きた人なのだろう。優しい人だったが、証言には悔しさや怒りがあった」と思いをはせた。  高知県でビキニ事件の被災者支援を続ける市民団体「太平洋核被災支援センター」事務局長の山下正寿さん(76)=高知県宿毛市=は「自らの体験を積極的に発信し、強い信念で活動していた」と話す。山下さんは高校教諭だった1988年、高校生と被災調査を進めるなかで大石さんと知り合った。大石さんが生徒らを見つめ、「事件は隠してはいけない。事実を素直に受け止め、調査を頑張ってほしい」と強く訴える姿を今も覚えている。ビキニ事件をテーマにした講演会でも何度か顔を合わせたといい、「核被害の問題に広く関心を持ち、廃絶を訴えた人を失ってしまった」と惜しんだ。【椋田佳代、松原由佳】 全文

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第五福竜丸の元乗組員・大石又七さん死去 87歳 via 朝日新聞

1954年に米国が太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で行った水爆実験で被曝(ひばく)した静岡のマグロ漁船「第五福竜丸」の元乗組員で、核廃絶を訴える活動を続けていた大石又七(おおいし・またしち)さんが7日に亡くなった。公益財団法人第五福竜丸平和協会が発表した。死因は誤嚥(ごえん)性肺炎で87歳だった。葬儀は近親者で行った。  34年1月、静岡県吉田町生まれ。第五福竜丸で冷凍士を務めた。水爆実験では福竜丸に乗っていた23人の乗組員全員が被曝。半年後に無線長が死亡し、大石さんも1年2カ月の入院で脱毛や白血球の減少に苦しんだ。  退院後は「放射能がうつる」と言われたり、慰謝料が支払われたこともねたみの対象になったりした経験も。故郷の静岡から逃げるように上京し、被曝者であることを隠し通していた。  だが、83年に東京都町田市の和光中学校の生徒に証言を頼まれたのを機に、全国で講演を行うようになった。マーシャル諸島や米国でも証言し、その回数は700回を超えた。原動力になったのは、かつての仲間が若くして亡くなっていくことへのやりきれなさだった。大石さんは自身もわが子の死産を経験し、「訴え続けなければビキニ事件はやがて消えてしまう」と語っていた。  福竜丸を知ってほしいと、模型船を作って広島平和記念資料館(広島市)や長崎原爆資料館(長崎市)に寄贈した。「マグロ塚」と刻んだ石碑を東京・築地に設置する活動にも熱心だった。福竜丸がとったマグロは築地の魚市場に出荷されたが市場の検査で放射能が検出され、大騒ぎに。54年当時は福竜丸以外にも延べ約1千隻の漁船から放射能が検知された魚が見つかり、魚は捨てられた。「忘れられている放射能の恐ろしさを後世に伝えたい」と考え、東京都に要望していた。  肝臓がんなどを患い、2012年には脳出血で倒れた。右半身が不自由となったがリハビリを続け、最後は車椅子で講演活動を続けた。亡くなる2~3週間前には「まだまだ言いたいことや伝えたいことがある」と言っていたという。(西村奈緒美) 原文

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福島からの証言・6 via Yahoo! Japan ニュース

土井敏邦 | ジャーナリスト 概要〉  橋本あきさんの一人娘の希和さんは、生まれて間もない長男を守るために、「大阪より西に避難を」という母親の助言で、福岡市へ避難を決意した。郡山の会社に勤めていた夫を説得して家族3人での避難だった。福岡市で仕事をみつけたが、慣れない土地で友人もできず、うつ状態に。郡山に帰りたいという夫と、子どもを守るために残りたい希和さんは、離婚を決意した。 【避難先でのすれ違いと離婚】 (略) なんとか家は崩れずに済んで、ちょっと揺れが収まったときに庭に飛び出しました。さっきまで晴れててぽかぽかしてたのに、急に雪が降ってきたんです。電線が波打っていました。まるで映画のシーンのようでした。  家はいつ崩れるか分からないから、中に戻るのは怖いので、母の小さな軽自動車に4人で入りました。でも車の中でも揺れを感じて、「うわー!」と叫んでいました 電気は大丈夫でしたから、母は米が炊けるうちと炊きました。ミルク用のお湯もわかしました。  夕方になって寒くなってきました。父が帰ってきて、家の中を掃除してくれました。夜は家の中で布団を敷きました。電気だけはかろうじてずっと通っていて、テレビも見れました。炬燵も入れました。しかし水道とガスはだめでした。ガスは比較的早くに復旧したんですけど、水道が一週間弱ぐらい断水しました。飲み水は母が以前に買っていたので、そのペットボトルの水を使ってお茶を飲んだりしてました。  テレビはつけっぱなしで、夜は眠れませんでした。「ちょっと体休めようかな」って思っても、グラグラと揺れがくれば、体起こして子どもを庇う。ジャンバーは着っぱなしで、枕元に靴を置いて、いつでも外に出られるような態勢でした。 (Q・放射能が危ないって感じるってことありましたか?)  原発が爆発したのはテレビで知って、そのときは現実なのか夢なのかと思いました。 「危ないな」って感じ始めたのは、次第に地震も収まってきて、普段の生活に戻ってきたころです。「洗濯物は外に干していいですよ」という報道がされてきたころですかね。「出かけるときはマスクして、肌の露出を避けて」「帰宅したら、着たものすべてゴミ袋に入れて、シャワー浴びて」とか、あれほど言ってたのに、1ヵ月も経たたないうちに、みんなマスクはしていませんでした。「それでいいの?」「もう大丈夫なの?」と疑いました。放射能は目に見えない分、疑っていいんじゃないかと思ったんです。  母の影響も少なからずあるとは思います。海外に住む叔母が、「国内では大丈夫だって言っているかもしれないけど、海外からから見ると日本は危ないから、とにかく子どもと2人だけでもいいから逃げてきて!」と言うんです。「ああ、危険なのかな」と思いました。  「郡山を出なければ」と思ったきっかけは、2011年10月から1ヵ月間、オーストラリアの叔母のところに「保養」(注・放射能の不安を抱える人びとが、居住地から一時的に距離をとり、放射能に関する不安から解放される時間を確保して心身の疲れを癒そうとする行動)に行ったことです。その時、現地では、何も心配せずに子どもを外に遊びに行かせたり、靴を履かせて歩かせたり、這い這いさせたりできました。震災前は郡山でも当たり前だったのに、震災後はそうではなくなっていることに改めて気づいたんです。そのとき、「郡山では、子どもを安心して外に出せない中では生活できないな」と思ったのが大きなきっかけでした。 (略) 一番、大きいとは思います。「保養」についての説明会も母と行って、どういうところに保養場所があるかも知りました。各地で支援してくださっている方が多くいることもわかりました。  郡山を出る決断したのは、2011年の12月でした。叔母のいるオーストラリアからちょうど帰国して、夫と話し合いましいた。ようやく夫が折れて、そこから、ポン、ポン、ポンと話が決まりました。  「福島からの避難者のための借り上げ住宅」の期限が12月末でしたが、福岡県庁に電話して「まだ応募できますか?」と尋ねると、まだ大丈夫だというので、12月中旬に博多まで下見に行って家を決めました。そして1月の中旬に郡山を出ました。  震災直後に、「叔母からオーストラリアに逃げてって言われている」と話をしたとき、夫は「飛行機の中でも放射能飛んでるんだから」と言うので、「これはもう、たぶん話にならんな」と思いました。だからオーストラリアへ「保養」に行く時は、夫に告げませんでした。現地から「いまオーストラリアに来ている」と手紙を書きましたが。  帰してすぐ夫と話し合うとき、もう離婚届も提出されるんじゃないかと思って、ハンコを持っていきました。  (子どもを避難させることで)夫を説得しようとするとき、目にも見えない放射能について一から説明しなきゃいけないのかと考えると、自分にはできない。だったらもう離婚したほうが楽だと思いました。 (略) 「離婚の覚悟」「生活の不安」ですか?とりあえず、母に事情を話すと、「なんとかするから」と言ってくれ、すぐに援助してもらったので、経済的なことでは不安はなかったです。  これまで母に頼りっぱなしだったので、そこはなんとかなるかなと思いました。母も「そのくらい養う力はあるから」と言ってくれたので、「とことん甘えちゃえ」と思ったんです。子どももまだ小さかったので、父親がいなくなるっていうことに対しての抵抗感はなかったです。 全文は福島からの証言・6

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仏核実験、ポリネシアの「ほぼ全人口」被ばく 調査報告書 via AFPBB

【3月11日 AFP】フランスが1966年から1996年にかけて太平洋で行った核実験では仏領ポリネシア(French Polynesia)の「ほぼ全人口」が被ばくしたものの、同国は同地域がさらされた放射線量を隠蔽(いんぺい)していたとする報告書を、調査報道機関ディスクローズ(Disclose)が9日、公表した。  ディスクローズは、仏国防省が2013年に機密解除した軍の核実験関連文書約2000ページを2年かけて分析。調査はディスクローズと英モデリング・調査会社インタープリト(Interprt)、米プリンストン大学(Princeton University)の科学・国際安全保障プログラムが共同で実施した。 報告書は1974年7月に行われた核実験「サントール(Centaur)」について、「被ばく量の科学的再評価に基づき私たちが計算したところ、当時のポリネシアのほぼ全人口に相当する約11万人が汚染されていた」と結論。  また調査結果を裏付けるため、核実験で生じた有毒な雲をモデル化した結果、「仏当局が50年以上にわたり、核実験がポリネシアの人々の健康に与えた真の影響を隠してきた」ことが判明したと説明。住民の甲状腺被ばく線量について「私たちの推定値は、2006年に仏原子力庁が出した値の2倍〜10倍高い」とした。 続きは仏核実験、ポリネシアの「ほぼ全人口」被ばく 調査報告書

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「日本政府の状態はリビアより酷い」10年前…トモダチ作戦の裏で起きていた“熾烈な攻防” via 文春オンライン

麻生 幾 多くの日本人の心には、アメリカ軍が東日本大震災で大規模な支援をしてくれたことが刻まれている。その支援が「トモダチ作戦」の名の下で行われたこともまた広く知られていることだ。  アメリカ軍が必死で日本を支援してくれたこと、離島にも生活物資を運んでくれたことへの感謝の言葉は多い。冠水した仙台空港の早期の復旧には、多くの日本人から敬服する声が送られた。  アメリカ軍によるピーク時の支援は人員16,000名、艦艇15隻、航空機(固定翼、回転翼)は140機にものぼった――。 トモダチ作戦の裏での“攻防”  昨年12月。間もなく震災から10年を迎えようとしていた頃、日米の関係者たちが重い口を開き始めた。彼らが一様に口にしたのは、そのトモダチ作戦の裏で、原発対処を巡る“日米の激しい攻防”が繰り広げられていたという新事実だった。  これまでこのことは明らかにされることはなかった。しかし、10年目という大きな節目だからこそ、その時の教訓が引き継がれることを願う想いが、関係者たちの証言となった。  それら関係者からの聞き取りを重ねてゆく中で、10年前に書かれた1枚の文書と出合うこととなった。  題名は〈統幕BCAT(ビ─キャット)横田調整所の役割分担〉。  自衛隊とアメリカ軍とが連携して行う震災対処を調整するための、自衛隊側の対応チームの編成表だ(※統幕とは陸海空自衛隊を運用する東京・市ヶ谷の統合幕僚監部を指す)。 (略) しかしこの「BCAT横田調整所」が、原発対処を巡り、日米の軍事関係者が密かに激論を交わし、“熾烈な攻防”が繰り広げられた“最前線”であったことは、ほとんど知られていない。 「日本政府は情報を隠している」 (略) そこには政府の公文書にも関わらず感情的な言葉が並べられ、最後をこう結んでいた。 〈日本政府は、原発事故に関する情報を隠している。この状態は現在のリビアより酷い〉  当時、北アフリカのリビアは40年間にわたって独裁政治を続けていたカダフィ政権と反政府組織との間で激しい内戦が続き、政府機関は機能せず、全土が混乱していた。駐在武官は、それよりも日本政府の状況が“酷い”と怒りを込めた公電で言い切ったのである。  そしてその日を境にアメリカ軍は「BCAT横田調整所」を舞台にして、驚くべき要求を日本側に突き付け始めたのだった。  米軍が日本に突き付けた要求の中身は、「文藝春秋」4月号および「文藝春秋digital」掲載の麻生幾氏のレポート『その時米軍は「日本再占領」に動いた』をお読み下さい。 全文は「日本政府の状態はリビアより酷い」10年前…トモダチ作戦の裏で起きていた“熾烈な攻防”

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聖火リレー前に五輪反対デモ via NHK News Web

[…] 東京オリンピックの聖火リレーは、今月25日に福島県のJヴィレッジをスタートし、3日間で県内26市町村の265区間を走ったあと、全国を巡ることになっています。これを前に、原発事故の被災者で作る市民グループ「脱原発福島ネットワーク」と「原発事故被害者団体連絡会」が、スタート地点のJヴィレッジ周辺で、オリンピックの開催に反対するデモを行いました。市民グループは、反対の理由として、今も原子力緊急事態宣言が発令中であり、福島第一原発にたまり続けるトリチウムなどの放射性物質を含む水の処分など課題が多く残っていることをあげています。デモの参加者たちは、日本語だけでなく、英語やフランス語など、さまざまな言葉で書かれたプラカードを掲げ、「福島も日本もオリンピックどころではない」などと反対の声を上げながら、Jヴィレッジの周りを行進していました。原発事故後に南相馬市から東京に避難しているという80歳の女性は、「復興五輪と言われていますが、オリンピックどころではないという思いが強いです。オリンピックよりも先に、人が住める環境づくりを行って欲しい」と話していました。 全文と動画

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