[…]
集会を呼びかけたのは、原発事故後、毎月11日に東京電力本店前で集会を開いてきた「たんぽぽ舎」など反原発を訴える市民グループ。通算90回目を迎えた節目の東電前集会には、市民約500人が参加し、「福島原発事故は終わっていない」「誰も責任とってない」「被害者を見捨てるな。原発やめろ」などと声をあげた。
8歳のときに福島県いわき市から東京に避難してきた鴨下全生さんはマイクを握り、「3月11日は地震や津波が起きた日だけど、僕ら原発事故被害者にとっては被害の始まりの日。」「核被害に10年の節目などありません。むしろ10年の節目でだといってすべてを過去のことにしてしまいたいのは東京電力や国」だと批判した。
鴨下全生さんのスピーチ
3月11日、僕が福島を離れなくてはいけなくなった日です。
10年前の今日もしも福島に原発がなかったら今頃ぼくは福島の高校で卒業式を迎えていたのだと思います。多分浜通り独特の方言で仲間たちとふざけあって先生からは「東京にいっても無理すんなよ」なんて肩をたたかれていたかもしれません。
でも10年前の3月に8歳だった僕は突然、東京の子になりました。そこから母と弟の3人での避難生活が始まりました。からかわれるから訛りは自分で消しました。いじめられることも、避難していることも、福島に生まれたことも隠しました。そうやって僕は福島でも東京でもない中途半端な東京の子として育ちました。
でも2年前、はじめてローマ教皇に自分の苦しみを伝え、激しく励まされてから、僕は自分を隠すのをやめ、発言をしていくことに決めました。
ここのまま黙っていたら数100万人の被害がなかったことにされてしまう。この世の中にはあまりにも多くの理不尽なことが転がっていることを知りました。僕はそんな理の通らない状況が嫌だったのです。
そして1年半前、日本に来たローマ教皇の前で僕は一人の避難者として原発事故で被害を訴えました。
広く東日本に降り注いだ放射性物質は今も放射線を放っています。汚染された大地や森が、元どおりになるには僕の寿命の何倍もの歳月が必要です。だからそこで生きていく僕たちに大人たちは汚染も被曝もこれから起きうる被害も隠さずに伝える責任があると思います。嘘をついたまま、認めないまま、先に死なないでほしいのです。
被曝の害は未だにまだその一部しか見えません。すべてが明らかになるにはおそらく何十年も先になるでしょう。核被害に10年の節目などはありません。セシウム137の半減期は30年です。
3月11日は地震や津波が起きた日です。ですが、僕ら原発事故被害者にとっては被害の始まりの日。そしてその被害は僕たちが死んだ後も続いていくのです。核被害に10年の節目などありません。むしろ10年の節目だといってすべてを過去のことにしてしまいたいのは、東京電力や国だと思います。