(抜粋)
埼玉県入間市出身。平日はサラリーマンをして、週末はフリースクールのボランティアとスタッフをやっていた。原発事故は衝撃だったが、それでも当初の1カ月ほどはメディアの情報を丸呑みにして、どちらかというと津波被害のほうに目が行っていた。
だから石巻や東松島のボランティアセンターで復興支援にあたった。
ところが震災翌年の5月、会社で仕事中に倒れた。顔を大型機械にぶつけ、血まみれになった。何の予兆もない不意の卒倒だった。チェルノブイリの被曝症例に「気絶する」とあったのを思い出した。
白血球が基準値よりちょっと下回っていた。被曝が原因とは特定できない。
水や食べ物が気になりだした。関東でも基準を上回るセシウムが検出されたり、危険なホットスポットが噂になっていた。
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埼玉から一家でやってきたTさんの言葉は、もっと直截だ。「“ふんばろう東北”とか“食べて応援”とか“絆”とかいう言葉に強い違和感を覚えるんですね。 世間的には“瓦礫を受け入れないことが人でなしだ”という風潮が蔓延していたと思います。あれもおかしい。汚染されたものは移動させないのが一番です。燃 やすのも、ガラス繊維で固化するのも、誰がやるのか。作業員の被曝につながる。それを隠して、(日本人の)善意や良識に押しつけてるんじゃないかしら」。
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実の父親から『新興宗教』とまで言われたIさんも言う。「現実に起こっているデモや汚染が何故大手メディアに取り上げられないのか? “住民を流出させたくない”“クライシスを認めたくない”という国の意志があるんじゃないか。国は何もなかったことにしたいんでしょう。福島県知事が SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)を隠したのも、そのためですよ」
京都で生まれ京都で育ったMさんの言葉は もっときつい。「あの時、国家の言うことなんか信じられない。嘘っぱちだと気づいたんです。それが沖縄へ来る一番のきっかけでした。フク1が爆発したと き、官房長官が“ただちに人体に影響はない”と言い放ったそのとき、原子炉建屋が吹っ飛んでるのにNHKは爆発前の映像を流していた。その後もメルトダウ ンしているにもかかわらず、燃料が溶けていない状態で静止しているような映像を流し続けたんですもの」
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放射能は、イラクの劣化ウラン弾被害の事実にショックを受けてから、ずっと気になっていた。原発に関しても、小学校の担任が教室で子 供たちに投げかけた「廃棄物を捨てられないのに、何でこんなものをどんどん造るのか」という疑問が、ずっと心の底にあった。その担任は直後、左遷されてい なくなった。
母親は2007年に白血病で亡くなっている。医師から「原発の周りで生活されていましたか?」と聞かれたことを、事故のあと思い出した。それも沖縄行きを決めた理由のひとつだった。
全文は沖縄の「新住民」物語(後篇)──矢作俊彦、「避難者」たちと対話する
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