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「臨界」の残像―JCO事故20年― (上)タブーだった被ばく医療 当時の医師「人命軽視だった」 教訓生かされたか via 毎日新聞

日本の原子力産業で、初めて被ばくによる死者が出たのが、1999年に起こったJCO臨界事故だった。この20年の間に、福島第1原発事故も発生。二つの原子力災害から浮かび上がる課題を追った。

 「バシッ」。99年9月30日、核燃料を加工していた「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所(茨城県東海村)で異音とともに青い閃光(せんこう)が放たれた。その瞬間、放射性物質のウラン溶液を扱う作業中だった社員の大内久さんと篠原理人(まさと)さんの体を、強烈な放射線が通過した。

核分裂が連鎖的に続く「臨界」状態が生じ、放射線を遮るものがない「裸の原子炉」ができあがっていた。被ばくした大内さんらを治療したのが、東京大病院で救急部・集中治療部長を務めていた前川和彦さん(78)だった。「やけどの専門家である私でさえ、毎日驚くような患者の変化だった。治療は海図のない航路だった」

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 急性の大量被ばくで、大内さんらの体は新たな細胞を作れなくなった。日焼けしたような肌は徐々に皮がむけて水ぶくれのようになっていた。

搬送された当初、大内さんは前川さんが「本当に大量に被ばくしたのか」と思うくらい落ち着き、意識もはっきりしていた。しかし、入院4日目には検査の多さに「おれはモルモットじゃない」と訴えた。

数日後には薬の影響もあって徐々に意識が遠のいた。医療スタッフによる大内さんの83日間の治療記録には、刻々と変化していく体の状態が記されている。A4判用紙に印刷すると400ページ超。大内さんは99年12月に当時35歳で、篠原さんは翌年4月に同40歳で亡くなった。
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臨界事故前までは国内で原子力事故は起きないとされ、「被ばく医療」という言葉は安全神話の中でタブーだった。95年の阪神大震災をきっかけに、原子力災害時の医療が議論された時も「被ばく」の表現を避け「緊急時医療」と呼ばれた。「『海図』以前に、船自体の整備が進んでいなかったようなもの」(前川さん)だった

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臨界事故と知らされず、救急隊員も被ばくした。受け入れ先が決まったのは事故から約75分後。入院した社員3人の本格的な医療体制が組まれたのは、事故翌日からだった。

急性放射線障害の治療例は海外でも少なく、治療はいろいろな文献を見ながら手探りで進められたという。
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急性被ばくを念頭に、こうした医療機関のスタッフや立地自治体や消防、警察の職員らが、定期的に開かれていた公益財団法人「原子力安全研究協会」の講習などに参加。事故に備えたはずだった。

ところが、2011年3月11日の東京電力福島第1原発事故では、放射性物質が広範囲に拡散。これらの医療機関も避難指示区域に含まれてしまい、病院としての機能を果たせなくなった。避難区域外でも、除染設備がなく住民の診療を断った災害時対応の病院があった。

その反省から原子力規制委員会は福島事故後、急性被ばくだけでなく、原発周辺の住民の除染も考慮した新たな医療体制の整備を目指した。原子力災害医療の中心となる「原子力災害拠点病院」を全国の約50病院に、拠点病院を支援する「協力病院」を約300病院に、それぞれ担ってもらう体制になっている。

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