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「臨界」の残像―JCO事故20年― (下)「そんなにやばいことが」情報なく 住民避難 福島事故でも浮かぶ課題 via 毎日新聞

 1999年9月30日午前10時35分ごろ、茨城県東海村で臨界事故が起きた。「情報が乏しく、どうしていいか分からなかった」。原子力関連施設が並ぶ海沿いから内陸へ約5キロ入った茨城県東海村の市街地。そこで旅館を営む坂場誠さん(57)が覚えている印象だ。 (略) 近くでいつも通りに働く建設作業員の横を、JCOの社員らが逃げていった。「そんなにやばいことが起きているのか」。放射線には色もにおいもない。旅館には宿泊客もいたままだった。「宿泊客を置いたまま、私たちだけ逃げるわけにはいかない」。夕方になって、子ども3人だけを約30キロ離れた妻の実家に避難させた。 妻は昨年7月、大腸がんで亡くなった。死因は事故と無関係だが、20年前に避難しなかったことが心のつかえになっている。「避難しなかった罪悪感が私の心に1本のクギのように引っかかってしまっている」  ×   × 東海村は57年、日本で最初に実験用原子炉が運転を始めた原子力推進の象徴的な地だった。 そこで起きた臨界事故の一報が村にもたらされたのは、発生から約1時間後。「臨界事故らしい」という断片的で限られた情報だった。しばらくして、現場近くで測定された放射線量の値が送られてきた。「毎時0.84ミリシーベルト」 午後2時。JCOの社員2人が真っ青な顔で村役場5階に設けられた災害対策本部に飛び込んできた。「村の人たちを避難させてください」。当時、村長だった村上達也さん(76)が「(親会社の)住友金属鉱山やJCOの社員たちはどうしているんだ」と尋ねると、「みんな避難しています」という返事だった。 村上さんは、村長就任時に周囲から「原子力を頼む」と言われたことも頭をよぎったという。しかし、JCO社員の返事に驚き、憤りと村民への思いで、原子力事故で国内初の避難要請を決断した。村長を辞める覚悟だったという。午後3時、事業所から半径350メートル圏内に避難を要請。県による10キロ圏内の屋内退避勧告は、午後10時半になってからだった。 (略) その頃、新潟県は経済産業省の旧原子力安全・保安院に原子力災害と自然災害の複合災害への対応の検討を要望していた。07年に中越沖地震があり、東京電力柏崎刈羽原発での火災を経験していたからだ。 しかし「原発は耐震構造になっており、複合災害の蓋然(がいぜん)性は極めて低い」として旧保安院は10年10月、「自然災害が原子力災害を引き起こす可能性はほぼゼロに等しい」と判断。複合災害や広域避難の備えがないまま11年3月、東電福島第1原発事故を迎えた。  ×   × (略) 東海村のJCO東海事業所は今、施設の解体作業をしながら、その過程で生じた行き場のないウラン廃棄物などを保管している。現在の山田修村長(58)は8月、「原子力の安全対策の道のりは険しく、終わりがない」と定例記者会見で語った。(この連載は荒木涼子、岩間理紀、奥山智己、鳥井真平が担当しました) 全文は「臨界」の残像―JCO事故20年― (下)「そんなにやばいことが」情報なく 住民避難 福島事故でも浮かぶ課題

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「臨界」の残像―JCO事故20年― (中)変わらない原子力の現場 元作業員「放射線の怖さ 教えてもらえなかった」via 毎日新聞

「放射線から正しく身を守る方法について、誰かに教えてもらったことはなかった。現場ではそれが普通のことで、その怖さを理解しきれていなかった」  九州電力玄海原発(佐賀県玄海町)で下請け作業をし、東京電力福島第1原発(福島県)では廃炉作業に携わった作業員の男性(45)=北九州市=は、自らが経験した現場を振り返った。 2012年になって、しばらくしてからだった。玄海原発の構内で、男性は同僚と配管を固定したり、無造作に置かれていた70センチほどの大きさの切断機20機余りを解体したりする作業をした。 男性によると、切断機は、放射性物質で汚染された配管などの切断用で、作業で付着した粉じんで機材自体も汚染されていたという。「被ばくを防ぐために支給されていたのは、鼻と口だけを覆う半面マスク。解体では、機材に付着していた配管の切りくずや粉じんが舞って吸い込む恐れがあるため、顔全体を覆う防護マスクを着用しなければならなかったが、その指導はなかった」と語った。 男性は危険な作業と知らず、作業をしていた。「元請け業者らから、解体作業に関する注意もなかった」と話す。  ×   × (略) 実際に原発の現場に行くと、思いのほか安全対策はずさんな感じがしたという。男性は福島第2原発で作業した際、「個人線量計を持っていたのは現場監督のみだった」と話す。「ピーピー」とたびたび警報音が鳴ったが、監督は「大丈夫、大丈夫」と言い、スイッチを解除したという。 「第1原発では、放射線を遮蔽(しゃへい)するための鉛が入ったベストが不足していた。作業時には着ることになっていたが、現場監督に『着らんでもこっそり入れ』と言われたことがあった」と証言する。  ×   × 男性は14年1月、急性骨髄性白血病と分かった。目の前が真っ暗になった。原発で作業した計2年間の被ばく線量は、累積で約20ミリシーベルト。15年10月に労災が認められた。 九電と東電には「現場での監督が行き届いていない」として損害賠償を求め、東京地裁に提訴した。九電側は「半面マスクで解体作業をさせることはない」と主張、東電側も「放射線から保護するための作業衣の着用を指導している」と反論している。両社とも男性の言い分とは食い違いがあり、訴訟は続いている。 男性は通院生活が続く。「僕ら作業員は捨て駒みたいなものだ」と話した。  ×   × 最前線で働く人に「教育」という配慮が著しく不足していたのは、20年前も同じだ。 1999年9月、核燃料の加工をしていた「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所(茨城県東海村)で起きた臨界事故。作業効率を優先し、事故の1年以上前から「裏マニュアル」による違法な作業が常態化していた。事故により、作業していた社員3人が放射線を浴びて入院。2人が亡くなった。 1人は治療の末、約3カ月後に退院。「(事故原因は)『無知』だった」。事故から6年がたった05年、この男性作業員は毎日新聞のインタビューにそう振り返った。臨界の危険性について指導はなく、安全な作業をしているという思い込みがあったという。 (略) 今年1月には、日本原子力研究開発機構の核燃料サイクル工学研究所(東海村)で放射性物質の漏えい事故が発生。作業員が一部の確認手順を省いたため汚染が拡大した。 この事故について原子力規制委員会は6月、機構に対し現場の作業員らに繰り返し教育、訓練をして、習熟させることの重要性を強調する見解をまとめている。 全文は「臨界」の残像―JCO事故20年― (中)変わらない原子力の現場 元作業員「放射線の怖さ 教えてもらえなかった」

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「臨界」の残像―JCO事故20年― (上)タブーだった被ばく医療 当時の医師「人命軽視だった」 教訓生かされたか via 毎日新聞

日本の原子力産業で、初めて被ばくによる死者が出たのが、1999年に起こったJCO臨界事故だった。この20年の間に、福島第1原発事故も発生。二つの原子力災害から浮かび上がる課題を追った。  「バシッ」。99年9月30日、核燃料を加工していた「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所(茨城県東海村)で異音とともに青い閃光(せんこう)が放たれた。その瞬間、放射性物質のウラン溶液を扱う作業中だった社員の大内久さんと篠原理人(まさと)さんの体を、強烈な放射線が通過した。 核分裂が連鎖的に続く「臨界」状態が生じ、放射線を遮るものがない「裸の原子炉」ができあがっていた。被ばくした大内さんらを治療したのが、東京大病院で救急部・集中治療部長を務めていた前川和彦さん(78)だった。「やけどの専門家である私でさえ、毎日驚くような患者の変化だった。治療は海図のない航路だった」 ×   × 急性の大量被ばくで、大内さんらの体は新たな細胞を作れなくなった。日焼けしたような肌は徐々に皮がむけて水ぶくれのようになっていた。 搬送された当初、大内さんは前川さんが「本当に大量に被ばくしたのか」と思うくらい落ち着き、意識もはっきりしていた。しかし、入院4日目には検査の多さに「おれはモルモットじゃない」と訴えた。 数日後には薬の影響もあって徐々に意識が遠のいた。医療スタッフによる大内さんの83日間の治療記録には、刻々と変化していく体の状態が記されている。A4判用紙に印刷すると400ページ超。大内さんは99年12月に当時35歳で、篠原さんは翌年4月に同40歳で亡くなった。  ×   × 臨界事故前までは国内で原子力事故は起きないとされ、「被ばく医療」という言葉は安全神話の中でタブーだった。95年の阪神大震災をきっかけに、原子力災害時の医療が議論された時も「被ばく」の表現を避け「緊急時医療」と呼ばれた。「『海図』以前に、船自体の整備が進んでいなかったようなもの」(前川さん)だった (略) 臨界事故と知らされず、救急隊員も被ばくした。受け入れ先が決まったのは事故から約75分後。入院した社員3人の本格的な医療体制が組まれたのは、事故翌日からだった。 急性放射線障害の治療例は海外でも少なく、治療はいろいろな文献を見ながら手探りで進められたという。  ×   × (略) 急性被ばくを念頭に、こうした医療機関のスタッフや立地自治体や消防、警察の職員らが、定期的に開かれていた公益財団法人「原子力安全研究協会」の講習などに参加。事故に備えたはずだった。 ところが、2011年3月11日の東京電力福島第1原発事故では、放射性物質が広範囲に拡散。これらの医療機関も避難指示区域に含まれてしまい、病院としての機能を果たせなくなった。避難区域外でも、除染設備がなく住民の診療を断った災害時対応の病院があった。 その反省から原子力規制委員会は福島事故後、急性被ばくだけでなく、原発周辺の住民の除染も考慮した新たな医療体制の整備を目指した。原子力災害医療の中心となる「原子力災害拠点病院」を全国の約50病院に、拠点病院を支援する「協力病院」を約300病院に、それぞれ担ってもらう体制になっている。 全文は「臨界」の残像―JCO事故20年― (上)タブーだった被ばく医療 当時の医師「人命軽視だった」 教訓生かされたか

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