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『この世界の片隅に』と凶器としての「普通」via messy

(抜粋)

広島、ほのめかしと省略

次に、「広島」について。まずことわっておくと私は広島出身者ではありません。だから恐らくよくわかっていないことは沢山あります。ただ、数年間広島に住んでいたので、広島県の「外」と「内」とで、どのくらい戦争や原爆といったことへの感覚が違うかを思い知らされたことはあります。

そこで思ったのは、本作において、広島の描き方はこれでよかったのだろうか、ということです。率直に言えば、この内容を語るのに、ここまで砂糖をまぶさないといけなかったのか? という気持がしてしまったのです。

すずは広島市の出身なのですが、呉市に嫁いだだめ原爆は免れます(実家の家族は犠牲になり、妹は生き残るが原爆症の兆候を示しています)。ただ、すずは呉で不発弾の犠牲となり、一緒にいた義姉の子、晴美と自分の右手とを一気に失います。このシーンは白眉であり、演出も素晴らしい。光で白くなり、あの時反対側にいたら、あの場所を通るタイミングが少しでも違っていたら……と、モノローグが流れます(原作の漫画をほぼ踏襲した描写でもあります)。

だが、感動と衝撃の中にも私はつい思ってしまいました。

「何故この映画は、原爆体験の繰り返しのような独白を、呉で負傷した広島出身のヒロインに語らせたのだろう。何故、そのような『ずらし』をしてまで、広島の原爆についての直接描写を避けたのだろう」

本作において「広島の原爆が省略されすぎていないか」という批判は既になされています。それに対し、「いや、ちゃんと描かれている。あのシーンの右端に、広島から逃げてきた人達が描かれている」「終わりのシーンで広島の街も無残な死に方をした人も出てくる。作者はちゃんと描いている」等々の指摘がすぐに飛んでくることも承知しています。確かに、「注意すれば」ちゃんと見つけられるくらいの要素としては描かれているのです。

(注2:最も印象に残ったのは次のまとめ記事。津原泰水さんの「『この世界の片隅に』で省略されていることについて語らない人々」 https://togetter.com/li/1058056

ですが、私が改めて問いたいのは、本作の制作陣が「一体誰のために、そこまで『まわりくどい表現をすること』にこだわる必要があったのか?」ということです。

そして、だいたいの答えを私は推測できる気がしています。それは、原作者があまりにもよく「広島で原爆について語る事」の意味を知っていたから、そして同時に、日本の大半の人々があまりにも広島について無知であることをも知っていたからではないでしょうか。

広島では、既に数多くの原爆についての文学作品や漫画などがあり、しかも人々は教育を通じて子どもの頃からそれらに触れて育ちます。更に言えば、戦後70年の間には広島の中で「どのように原爆を語るか」をめぐり激しい論争(主に文学において)を体験しています。原爆をリアルに書けば左からは「戦争責任を忘れて被害者ぶっている」といわれ、右からは「原爆は悲惨、平和は大事なんて聞き飽きた」との声が飛んでくるという困難。既にあらゆる表現が出尽くして、苦い亀裂を体験している人々の中には、ほのめかす程度の僅かな表現があればそれでわかるからよい、という気持を持つ人もいるでしょう。

また、歴史的背景を考慮すれば、間接的に、韜晦(とうかい)表現でもって広島を語るにあたり、呉を舞台に選ぶことは適切ともいえます。何故なら呉はある意味で、広島とは双子の都市であったからです。戦後、米軍は原爆の被害を知るため、人口規模の似た同市を比較参照都市としていました。どういうことかというと、本来同じ条件にあったはずの両都市の間で、寿命や疾病率に違いがあるかを調べたのです(この時のデータは今でも放射線防護学の基礎として使われています)。このことも恐らく当地ではよく知られているでしょう。

他方で、広島の外の人々は、残念ながら、恥ずかしいほどに何も知りません。『はだしのゲン』ですら、実は現実に起きたことよりも和らげてあるのですが、そうした認識すら持てない人が増えています。そのため、リアルな描写にはしばしばついていけないし、悪いことには、「知らなかったこと」の自責の念から逃げるため、目を背けるようなことすらあります。こうした人にとって本作のような語り口は実に「心地よく感情移入できる」ものかもしれない。ですが、それでいいのでしょうか。

この作品は後者に属する人々に対して過度に優しい、と私は思います。そうあることで、意図してかはわからないけれど、ある種のメッセージを伝えてしまっていると感じます。「もちろん戦争の残酷さはわかってるんです。でも、声高に主張することないでしょう。普通でいいじゃないですか、それが大事なんです」という、ある種の立場、いうなればイデオロギーを。

意地悪な見方かもしれませんが、この「声高に主張しない」は、実は人並み優れた部分を持ちながら、「平凡=普通」に埋もれようとするすずの生き様にも共通する要素であるため、余計にそういう印象を与えます。いわば、水原の盗作を許容できる「おおらかな」すずのまなざしを通して、私たちは戦争を眺めることを強いられている。そして、広島はその視界の中で奇妙に断片的で、見えづらいものとなっているのです。

それは彼女に自らの母や祖母を重ねて感情移入できる人にとっては、些細な問題であるかも知れません。だがそうでない私のような者にとっては違和感の連続でした。これでいいのか、という疑問がわいてくるし、視界の一部を塞がれることで喜べ、平凡な日常に埋没し、余計な事を話すな、と言われているような気持になってくるからです。

どうしてあの戦争から70年も経って、ここまで砂糖の衣でくるんだような表現(もちろんその中身はちゃんとした材料を詰め込んであるのですが)でなければいけないのか。何故、それに皆ここまで喜ぶのか。今一度、真剣に考えてみるのがよいと思います。

全文は『この世界の片隅に』と凶器としての「普通」

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