核実験は、安全と平和を保障しない〜「核実験に反対する国際デー」に寄せて〜 via グリーンピース

グリーンピース・インターナショナル(本部)事務局長
バニー・マクダーミッド

8月29日は「核実験に反対する国際デー」です。1945年以来、世界の60カ所以上で2,000回を超える核実験が実施されました。

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核実験が人類と環境に与える悲惨な影響を初めて目にしたのは、私が24歳のときです。1985年、核実験に反対するキャンペーンのために太平洋に向 かって航海するグリーンピースの船「虹の戦士号」に、私は甲板員として乗船していました。私たちの最初の使命は、北太平洋のマーシャル諸島の一つであるロ ンゲラップ島の住民360人を、アメリカが行った核実験による放射能汚染から避難させることでした。

10日間にわたって、女性、男性、老人から子供までの避難を支援しました。多くの人が放射線による被ばくの影響で苦しんでいました。彼らは、先祖 代々住み続けてきた土地を離れなければなりませんでした。悲しいことに、彼らが守ってきた土地は島民に生きる糧を与えてはくれず、むしろ病気をもたらして いました。島民が負わされた悲劇と苦痛は彼らのせいではありません。誰が苦しむことになるのか、ほとんど考えもしなかった人々によってこのような悲惨な目 に合わされたのです。

実際、島民は「人類のため、世界のすべての戦争を終わらせるため」に核兵器は必要だと言われていました。大量破壊兵器が安全と平和への手段であると いう考えの裏にある愚かさは、権力者のあいだに今も残っています。太平洋での核実験はあまり知られていませんでしたが、ロンゲラップ島民の避難に関わった 私たち全員は大きな影響を受けました。しかし、明らかに、核実験を行った当事者は、地球への暴力は人間への暴力であることを、まったく問題にしていなかっ たのです。

ロンゲラップ島での救出行動の後、私たちはニュージーランドに向かいました。「虹の戦士号」はフランス領ポリネシア、ムルロア環礁の東を航海し、フ ランス政府の核実験に抗議する小型船団を組んで指揮を取ることになっていたのです。しかし、私たちの計画は誰も予想できなかった形で変更を余儀なくされま した。1985年7月10日、フランスの情報機関がフランス政府の命令を受けて、「虹の戦士号」に2発の爆弾を仕掛けたのです。爆発が起こって数分で「虹 の戦士号」は沈みました。私たちの友人で同僚のフェルナンド・ぺレイラ(写真家)は、この爆発で死亡しました。

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核実験の悲惨な歴史にまつわる詳細は、多くが隠されたままです。しかし、真実が現れつつもあります。フランス国防省の機密文書は、1960年代から 1970年代に南太平洋で行われた核実験は、それまで認められていたよりもはるかに有害であったことを示しています。フランス領ポリネシアの全体にプルト ニウムが降り注ぎました。最も人口が多いタヒチ島は、最大許容量の500倍の放射能にさらされました。

核実験の犠牲者が手にすることのできた正義は、耐え難いほど遅く、不完全でした。1990年代の初め、アメリカはようやくロンゲラップ島の人々に与 えた被害を認め、長い法廷闘争の後にやっと補償金をいくらか支払うことに同意しました。核実験によって被害を受けた元軍人や市民に対して、フランス政府が 補償する可能性を認めたのも(それも複雑なプロセスで、かつ限られた地域に対してのみ)、2010年になってからでした。核実験の犠牲者の多くはいまだに 認定されずに苦しんでいます。

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けれども、日々の暮らしが取り返しのつかないほど大きな被害を受けても、自らの悲劇を「核廃絶のためのたたかい」に変えて生きている人々に、私は大きな感 銘を受けています。ビキニ核実験で被害を受けたロンゲラップ環礁のあるマーシャル諸島共和国は、9つの核保有国を相手取り、「核軍縮の義務を果たしていな い」と国際司法裁判所に訴え出ました。日本では、広島と長崎の被爆者の方々が『ヒロシマ・ナガサキの被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名』を開始しています。私たちは、彼らを孤立させてはいけません。

全文は核実験は、安全と平和を保障しない〜「核実験に反対する国際デー」に寄せて〜

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