広島の原爆と福島の原発。二つの放射能に追われた人がいる。福島県南相馬市から相模原市に避難している遠藤昌弘さん(88)だ。
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一家が講演するのはこのときが初めて。隆子さんの古い知人から頼まれた。隆子さんが原発の被災経験などを語り、昌弘さんは客席で紹介された。最後にこんな質問が飛んだ。「原発のことをどう思いますか」
「なくなった方がいいと思います」
その場は隆子さんが答え、昌弘さんは黙って聞いていた。だが、終わって控室に戻るなり、かみしめるように語り始めた。
「そんな甘いもんじゃないんだ。戦争と原発で国が滅んでしまうんだ」
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69年前の8月。昌弘さんは中国大陸から内地へ転戦するなかで体を壊し、広島の病院に入院していた。爆心地から2キロあまり。その瞬間、爆風で廊下の壁に吹き飛ばされた。病棟は壊れ、多くの市民が血だらけで助けを求めていた。遠藤さんも「黒い雨」に打たれながら廃虚の街をさまよった。
敗戦後、両親がいた福島県小高町(現南相馬市)に戻った。
やがて町役場に勤めると、東北電力の浪江・小高原発の建設計画が持ち上がった。反対運動もあるなか、土木課職員だった昌弘さんは1980年代、道路用地の交渉にあたった。
「原発と原爆はまったく違うもの。放射能の平和利用なのです」
「私自身、被爆者だから放射能の恐ろしさはよく分かっている。その上でやっている」
そう地権者を説得して回った。
それから約30年。原発の「安全神話」はあっけなく崩れた。
「当時は自分の仕事のため、町のためだった。交付金が入れば財政も豊かになる。でも、まったく期待に反するものだった」
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話の最中、「原爆の被爆後、めまいがとれないのが悔しい」と何度も言った。脱毛もひどかった。下痢にも苦しんだが、50歳をすぎてようやく落ち着いた。「若い人たちに伝えたい」と声をふりしぼった。「爆弾は山や建物の陰に隠れれば身を守ることができる。でも、放射能は逃げようがない。目に見えないし、痛くもかゆくもない。これは恐怖です」
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