Daily Archives: 2014/04/23

沖縄の「新住民」物語(後篇)──矢作俊彦、「避難者」たちと対話する via GQ

(抜粋) 埼玉県入間市出身。平日はサラリーマンをして、週末はフリースクールのボランティアとスタッフをやっていた。原発事故は衝撃だったが、それでも当初の1カ月ほどはメディアの情報を丸呑みにして、どちらかというと津波被害のほうに目が行っていた。 だから石巻や東松島のボランティアセンターで復興支援にあたった。 ところが震災翌年の5月、会社で仕事中に倒れた。顔を大型機械にぶつけ、血まみれになった。何の予兆もない不意の卒倒だった。チェルノブイリの被曝症例に「気絶する」とあったのを思い出した。 白血球が基準値よりちょっと下回っていた。被曝が原因とは特定できない。 水や食べ物が気になりだした。関東でも基準を上回るセシウムが検出されたり、危険なホットスポットが噂になっていた。 (略) 埼玉から一家でやってきたTさんの言葉は、もっと直截だ。「“ふんばろう東北”とか“食べて応援”とか“絆”とかいう言葉に強い違和感を覚えるんですね。 世間的には“瓦礫を受け入れないことが人でなしだ”という風潮が蔓延していたと思います。あれもおかしい。汚染されたものは移動させないのが一番です。燃 やすのも、ガラス繊維で固化するのも、誰がやるのか。作業員の被曝につながる。それを隠して、(日本人の)善意や良識に押しつけてるんじゃないかしら」。 (略) 実の父親から『新興宗教』とまで言われたIさんも言う。「現実に起こっているデモや汚染が何故大手メディアに取り上げられないのか? “住民を流出させたくない”“クライシスを認めたくない”という国の意志があるんじゃないか。国は何もなかったことにしたいんでしょう。福島県知事が SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)を隠したのも、そのためですよ」 京都で生まれ京都で育ったMさんの言葉は もっときつい。「あの時、国家の言うことなんか信じられない。嘘っぱちだと気づいたんです。それが沖縄へ来る一番のきっかけでした。フク1が爆発したと き、官房長官が“ただちに人体に影響はない”と言い放ったそのとき、原子炉建屋が吹っ飛んでるのにNHKは爆発前の映像を流していた。その後もメルトダウ ンしているにもかかわらず、燃料が溶けていない状態で静止しているような映像を流し続けたんですもの」 (略) 放射能は、イラクの劣化ウラン弾被害の事実にショックを受けてから、ずっと気になっていた。原発に関しても、小学校の担任が教室で子 供たちに投げかけた「廃棄物を捨てられないのに、何でこんなものをどんどん造るのか」という疑問が、ずっと心の底にあった。その担任は直後、左遷されてい なくなった。 母親は2007年に白血病で亡くなっている。医師から「原発の周りで生活されていましたか?」と聞かれたことを、事故のあと思い出した。それも沖縄行きを決めた理由のひとつだった。 全文は沖縄の「新住民」物語(後篇)──矢作俊彦、「避難者」たちと対話する 全編はこちら

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沖縄の「新住民」物語(前篇)──矢作俊彦、「避難者」たちと対話する via GQ

(抜粋) むろん避難したのは、国によって封鎖された20キロ圏内(その後、北西へ拡大された)の住民ばかりではない。放射能への恐怖から、多くの人が故郷を離れ、事故以来、福島県の人口は約7万8千人も減少した。(注2) 無理もない。最初の爆発で、原子炉建屋の壁材に使われていたウレタンフォームは粉々に砕けて吹き飛び、一号炉から約4キロ離れた双葉町役場では、避難するためバスに乗り込もうとしていた町民の上にまるでボタン雪のように降り注いだ。 当時の双葉町長だった井戸川克隆さんは、そのときのことを『(目に見える形で)放射能が降ってきた』と、今も痛苦に耐えない表情で語る。こうした暗鬱な恐怖は多少の違いはあれ、福島の人々に、いや、爆発のテレビ画像を目撃した日本中の人びとに今も共有されている。 (略) 10月、彼女は5カ月足らずで沖縄の会社を辞し、東京へ戻った。11月に入籍し、彼と暮らすようになった。 伴侶を得たせいか、気持ちも安定したようだが、それも長くは続かない。「東京にいたら、毎日鼻血が出るんです。例の生理のような出血も止まらず、子宮の左が痛くて痛くて──」 彼女はガイガーカウンターを買った。ウクライナ製で15000円ほどだった。家の近くで0.16μSv/hを記録した。 出血は止まらない。仕方なく、3カ月に1回程度、ある種「デトックスのようなつもりで」沖縄の実家へ戻った。すると出血も痛みもぴたりと止まった。 沖縄だけではない、大阪でも、ご主人の実家がある北海道でも同じだった。しかし、東京へ戻れば、それがぶり返す。 (略) 沖縄にきたことは後悔していないが、二重生活がいつまで続くのかというのは不安だと顔を曇らせる。「彼に子供の成長を見せられないのが、すごく悪 くって。子供に対してもそうですよね。それに、二重生活で飛行機代がかかる。出産費用も余分にかかっちゃって。チェルノブイリ原発事故の後、現地では白血 病が増えたって聞いて、万が一のことを考えて臍帯血を保存したんです」(注3) 実家に身を寄せているので、そこは人より救われている。妹もいるし、近所には幼なじみもいる。幼稚園からの付き合いなので、育児にも家事にもとても助けられている。「避難ママも今は家族みたいな感じです」 避難ママ? 口をついて出たその言葉にこっちはちょっとたじろいだ。避難ママ? 「え え。そう言うんです。それぞれの事情で来た人たちも、お互いに声をかけあって、今では家族みたいな感じです。でも、東京のシェアハウスで暮らしていた友達 とか、今も東京は安全って信じている人とは、やっぱり話をしても無理だなあと、どんどん疎遠になっちゃって。争い事は好きじゃないから、いきおい連絡しな くなっちゃうんですね。どんなにがんばっても、人は変われないところがあるでしょう。変われるのは、結局自分だけだから」 (略) ご主人の実家では親族に体調の異変が次々と起こった。72歳になる義理の伯母は3月15日、雨に打たれて髪の毛が3分の2抜けて落ちた。その後全身倦怠感や疲労感が続き、ぶらぶら病のようになってしまった。 同じ日、21歳の義理の姪は屋外を走っていたところ鼻血が出、下痢が治まらなくなった。 義母は甲状腺が腫れ、紫斑病のようになった。医者はリューマチの副作用と診断、加療の後、たしかに改善はしたが、今も帯状疱疹に悩まされている。 他にも義理の妹が突発性難聴になるなど、福島に住む夫の家族にこれだけ次々異変が襲いかかれば、誰だって被曝を疑いたくなる。 「2歳の息子もそうなんです。沖縄へ行く飛行機の機内で鼻血が止まらなくなっちゃって。ありったけのウエットティッシュにおしぼりが5本か6本血まみれになるほどだったんですから」 (略) しかし彼女にしてみれば、福島市の方が世田谷より原発に近い。「沖縄といえば、リゾートって感覚なんですね。“いいなあ”と言われました。“じゃあ、おい でよ。福島は危ないよ”と誘うと、主人の妹も“仕事があるから行けない”と尻込みする。危機を危機と感じたくないんでしょうね。5月だったかしら、主人の 母がこっちに来たんです。“福島では風評被害があって”ってぼやくんですよ。“お義母さん、それは風評被害じゃなくて実害ですよ”とつい私が言ったら、お 義母さんはそれから何も言わなくなっちゃって」。彼女は溜め息をついた。「知ってるけど認めたくない。そんな感じなのかしら。それぞれ生活や事情があっ て、それぞれの選択だから、無理強いはできないけど、万が一のときはいつでも受け入れられるように、母子二人暮らしには広過ぎる3LDKの部屋を借りてる んです」 全文は沖縄の「新住民」物語(前篇)──矢作俊彦、「避難者」たちと対話する  

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