Tag Archives: 第五福竜丸

第五福竜丸被ばく、2船員のカルテ現存=東大病院で初確認-体温・白血球数を記載 via Jiji.com

1954年に米国が太平洋ビキニ環礁周辺で行った水爆実験で被ばくしたマグロ漁船「第五福竜丸」の元乗組員23人中2人分のカルテが、東京大付属病院(東京都文京区)に存在することが26日、分かった。東大病院には7人が入院したが、5人分は破棄された可能性が高いという。残り16人分のカルテは、コピーが千葉市内の研究施設に存在することが分かっているが、東大病院でカルテの存在が判明したのは初めて。 カルテには、2人が55年5月に退院するまでの体温や白血球数の推移などの検査データが、詳細に記載されているという。広島・長崎に続く「第3の核被害」から生まれた「生の資料」は別の被ばく診療に役立つ可能性もあり、貴重な発見と言えそうだ。 (略) 久保山さんら16人は国立東京第一病院(現・国立国際医療研究センター、新宿区)に、残り7人は東大病院に入院。放射能研究の専門施設である放射線医学総合研究所(千葉市)が、両病院を退院した元乗組員の診療を引き継いだ。2010年7月には、放医研が久保山さんら16人分のカルテの写しを同センターから入手していたことが判明。放医研は東大病院にもカルテなどを照会したが、コピーも含め存在が確認できなかったという。  東大病院に入院した7人は既に他界。23人のうち生存している4人の平均年齢は85歳を超えた。 時事通信は昨年9月、東大病院にカルテの存在について取材したが、同病院は「保管期間が過ぎており、所在は確認できなかった」と回答していた。しかし、今年2月に入って情報公開請求があり、調べ直した結果、2月中旬に発見された。 東大病院によると、カルテには体温や白血球数のほか、傷口の状態などが記載されているが、紙の経年劣化が進み状態は悪いという。同病院は「歴史的に価値があるものなので、早ければ4月にも、(重要な法人文書などを保存する)東大文書館に移管したい」としている。 全文は第五福竜丸被ばく、2船員のカルテ現存=東大病院で初確認-体温・白血球数を記載

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築地市場移転でどうなる? 「被曝マグロ塚」via 日経ビジネスonline

第五福竜丸事件の「遺構」に迫る危機 鵜飼 秀徳 築地市場が先月6日、83年間の歴史に幕を閉じた。市場は閉鎖され、フェンスで覆われた。建物は1年4カ月をかけて解体される。その後は2020年の東京五輪の車両基地として整備される予定だが、その後の跡地をどう活用していくかは、未定だ。 この築地市場閉鎖で、気に掛かったことがある。 「第五福竜丸事件」 多くの人は中学校の歴史の授業で、この事件のことを習ったのを思い出すのではないか。 実は、第五福竜丸事件にまつわる「遺構」が、市場の消滅によって、なくなってしまいそうなのだ。 (略) 米ソ冷戦下にあった1954(昭和29)年3月1日、米国は太平洋のビキニ環礁で大規模な水爆実験を実施した。この核実験の威力は、米軍が想定していた規模をはるかに超え、広範囲の海が核で汚染された。 水爆実験が実施されたその時、第五福竜丸は爆心地から160km東方沖で操業中であった。西の水平線が閃光できらめき、海が鳴動したという。しばらくして、死の灰が船に落ちてきた。デッキに足跡がつくほど積もり、乗組員は灰を頭からかぶったという。 ピカドンがあったのかもしれない──。 だが乗組員は被曝よりも、米国の国家機密を知ってしまったことへの恐怖心のほうが強かったという。 「米軍に船を沈められ、抹殺されてしまうのではないか」 第五福竜丸は焼津港に向けて全速前進で帰港する。帰路の途中、乗組員に発熱や嘔吐、髪が抜けるなどの急性放射線障害の症状が次々と起きる。焼津港に接岸したのは水爆実験から2週間後であった。 乗組員は病院に運ばれ、乗組員23人全員が被曝していることが分かった。半年後に無線長の久保山愛吉さんが死亡する。日本は広島、長崎の原爆投下に続いて、再び、核の犠牲者を出したのである。 (略) 被曝マグロ3匹とサメ28匹を隔離 だが、帰港時点では、日本政府は第五福竜丸の被曝の事実を把握しておらず、漁獲物は水揚げされてしまった。そして首都圏や関西など全国10数都府県へと搬送された。魚種は主にマグロであったが、一部、サメも含まれていた。その数は156尾に上った。 帰港の翌日、読売新聞が第五福竜丸の被曝をスクープ。築地市場へと入荷されてきたマグロやサメの放射線量が基準値を大きく超過していることが判明すると、市場はパニックに陥った。セリが中断し、被曝したマグロ3匹とサメ28匹が隔離された。 被曝マグロは直ちに、場外駐車場の地下3メートルに埋められることになった。 (略) ちなみにビキニ環礁での水爆実験で被災したのは、第五福竜丸1隻だけではない。当時の厚生省が認めた被災船は実に856隻。全国で捨てられたマグロは457トン、寿司に換算して250万人分にも及ぶという。当時は築地界隈だけでなく、全国で被曝マグロの風評被害が起きる大騒動となったのである。 だが、そんな記憶も時の経過とともに薄れていく。数年も経てば築地市場に埋められたマグロの存在はおろか、第五福竜丸事件に関心を寄せる人は少なくなってしまった。 (略) 被曝マグロが埋葬されてから42年が経過した1996年。東京都は都営大江戸線築地駅の出入り口設置工事に伴い、マグロの骨の発掘調査を実施することを発表する。当時の資料を元に埋められたと思しき場所を掘り起こしたが、一片の骨も出てこなかった。 (略) 危機感を募らせたのが元乗組員の大石又七さんであった。1997(平成9)年、大石さんは自らが発起人となり、マグロ塚をつくるための十円募金を開始する。募金は2万2000人約300万円が集まり、2000(平成12)年4月にマグロ塚が建立された。 マグロ塚は東京都江東区夢の島の都立第五福竜丸展示館の敷地にある。重さ2トンの伊予青石でできたマグロ塚は、まるで太平洋の荒波のように力強く波打っている。揮毫は大石さんによるものだ。 (略) 埋葬地とマグロ塚が離れた場所にあるのは、塚の設置当初、築地市場の再整備の話が持ち上がっていたからだ。再整備計画が実行され、工事が完了するまでの仮設置場所として、第五福竜丸展示館敷地に置いたのだ。 第五福竜丸展示館によれば、塚が完成してから10年間ほどは、死亡した久保山無線長の命日に塚の前で、大石さんら関係者が集まって「マグロを食べる会」を実施していた。だが、現在はこうした弔いの行事は実施されていないという。 全文は築地市場移転でどうなる? 「被曝マグロ塚」

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伯父が第五福竜丸で被曝、伊方原発差し止め提訴へ via 朝日新聞

四国電力伊方原発(愛媛県伊方町)の運転差し止めを求め、対岸の大分県の住民らが28日、大分地裁に提訴する。原告は250人以上になる見込み。その一人、同県臼杵市の伊東俊義さん(64)は、伯父が米国の水爆実験で被曝(ひばく)した第五福竜丸の乗組員だった。核で人生を狂わされた親族を身近にみてきたからこそ、原告に加わった。 伊東さんの伯父の高木兼重さんは、大分県のマグロ漁師だった。1954年、米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験に遭遇した静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」に操機手として乗り込み、被曝した。高木さんの次女(71)によると、大分に戻ってからも数年は体調を崩して働けず、マグロ漁船には二度と乗れなかったという。89年、肝臓がんのため66歳で亡くなった。 伊東さんは、伯父に第五福竜丸のことは尋ねなかった。「周囲から『聞いてはいけない』と教えられていた」と振り返る。 伯父宅には、ビキニ事件に関する本や第五福竜丸の 船員と一緒に写った写真のアルバムが並んでいた。25歳の頃、病院で顔中に包帯を巻かれた54年当時の伯父の写真を見つけた。いつもは事件について無口な 伯父がぽつり、ぽつりと語り出した。「水爆実験の時、空は朝日が昇ったみたいに明るくなった。たまがった(驚いた)」「毎年、東京まで検査に呼ばれる。モ ルモットみたいだ」 (略) 7月、伊東さんは差し止め訴訟の原告に名を連ねる知人から、原告団のホームページ作成などを頼まれた。「このまま黙っているのは悔しい」。自身も原告に加わることを決めた。8月、四電は伊方3号機を再稼働させた。 提訴の28日は、原告団事務局の一人として参加する集会を撮影し、ホームページに掲載する予定だ。「核によって人生を狂わされてしまう人を二度と生み出してはいけない」と話している。(枝松佑樹) 全文は伯父が第五福竜丸で被曝、伊方原発差し止め提訴へ

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54年“原爆マグロ”パニックでセリ中止/築地物語 via 日刊スポーツ

(抜粋) 3月1日、米国がビキニ環礁で行った水爆実験に遭遇し、死の灰を浴びた第五福竜丸は14日、焼津に入港した。放射能検査されている間にマグロ43匹、サメ28匹が築地に出荷された。焼津からの連絡で16日のセリ前に隔離したが、市場はパニックになった。 場内を洗浄車が回り、マグロ、サメは場内の片隅に埋められた。しかし、不安は高まり、19日にはマグロのセリが中止になる事態に発展した。20 日、対策本部が設置され、すべてのマグロをガイガーカウンターで検査し、鮮魚店やすし店は店頭に「放射能検査合格マグロ」と書いて安全をアピールしたとい う。放射能検査は12月末まで続き、マグロ3108匹(120トン)が処分された。 築地市場の正面入り口脇には「この一角に埋められ廃棄されました」と書かれたプレートがある。96年、地下鉄の工事で埋められたとされる場所を掘 り起こしたが、何も出なかったというミステリーもあった。「築地市場で起きた大きな事件の1つですが、どこに埋められたか正確には分からない。長く築地に 勤めた人も言うことが違っていて確証をもってここに埋められたと言えないんです」(永渕恒幸検査課長)。 全文は54年“原爆マグロ”パニックでセリ中止/築地物語

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第五福竜丸以外の被ばく追う映画 27-29日、八幡東区で上映 via 西日本新聞

1954年に米国が太平洋のビキニ環礁などで水爆実験を行った際、放射性物質「死の灰」で被ばくした漁船「第五福竜丸」(静岡県)以外の被ばく漁船の実相を追った記録映画「放射線を浴びたX年後2」(2015年、伊東英朗監督)が27~29日、八幡東区の北九州市環境ミュージアムで上映される。  愛媛県の民放、南海放送が番組を映画化した「放射線を浴びたX年後」(12年)の続編で、ドキュメンタリー作品を月例会方式で上映している東田シネマ(同区)が企画した。ビキニ水爆実験を巡っては今月9日、高知県などの元漁船員や遺族ら45人が、被ばくに関する調査結果を日本政府が長年開示しなかったため、米国への賠償請求機会を奪われたとして、慰謝料を求める国家賠償請求訴訟を高知地裁に起こした。  続編は、高知県室戸市出身で東京で広告代理店を経営する女性が「X年後」を見たのを機に、水爆実験後に36歳で亡くなった元漁師の父の死の真相調査に着手。ビキニ環礁付近で当時操業していた元漁船員や遺族約70人に聞き取りを重ね、新事実を掘り起こしていく。  上映は3日間とも、午後1時半、3時45分、6時から。大人前売り千円など。環境ミュージアム=093(663)6751。 全文はこちら。

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(核の神話:16)水爆汚染、日本を覆った 映画で告発 via 朝日新聞

[…] ■ビキニ被曝追う、南海放送ディレクター・伊東英朗さん  ぼくがビキニ事件に出会ったのは2004年です。それからずっと取材し、ほぼ1年に1本は番組をつくって放送しています。南海放送という愛媛県のローカル放送局ですが、当初は放送してもほとんど関心を持ってもらえなかった。ほぼ反応ゼロ。多い年は年間200本くらいの番組をつくりますが、これほど関心を持たれない番組はないと思いました。それでも毎年、毎年、放送し、さすがに公共の電波でここまで関心が持たれないもの、つまり誰も見ない番組を放送していいのか、個人の思いだけでやっていていいのか、もうこの事件はだれにも興味を持ってもらえないから無理かなと思っていた矢先に福島の原発事故が起こり、放射能や「ビキニ事件」に関心が集まった。  1954年のビキニ事件発覚から10年後に東京オリンピックが開かれ、日本人は事件のことを忘れてしまいました。2011年の福島原発事故の9年後にまた、東京オリンピックが開かれようとしている。また、忘れてしまうのでしょうか。  福島の原発事故が起きてからは、もうひとつ目的ができました。福島の今後をどう見るのか、どういうふうにしていけばいいのか。ここに重大なカギがあります。「ビキニ事件なんて古い話を追っかけてないで、今のことをやれよ。福島だろう、伊東さん」と言われることがよくあるんですけど、福島を考えるうえで、このこと(ビキニ事件)はすごく重大なこと。福島は過去から学ばないといけないのに、事件は全く解明されていない。被曝(ひばく)したら、そのX年後、人間はどうなるか。これは、残念ですが、乗組員たちが死をもって伝えているという厳しい現実があるんです。死んでるわけです。ぼく自身、今までに130人ぐらいの乗組員や遺族からしか聞き取りできていませんけれども、取材した乗組員の多くが亡くなってしまっている現実がある。ところが、全容は全くわかっていない。130人はアメリカの核実験で被曝した人の何万人分の1かもしれない。この事件の全容を解明することによって、福島で今後どういうことが起こりうるのかということがシミュレーションできる可能性があるかもしれない。  戦後、太平洋で104回の大気圏内核実験をしたアメリカ原子力委員会は、アメリカ国内でも人体実験をたくさんした。旧日本軍が中国で人体実験をした731部隊と同じようなことをやったわけです。勝手に放射線を浴びせたり、プルトニウムを注射したり……。その人たちが核兵器を造り上げた。(ビキニ環礁で)核実験をしていた1950年代当時の原子力委員会のトップは、(ルイス・)ストローズという人物でした。彼は元金融家です。よく「核の抑止力」なんて言いますけど、確かに政治的に見ればそういうところもあるかもしれませんが、造ってる人たちは、実はビジネスでやっていたんだということを認識しておかなくてはならないでしょう。 【第五福竜丸だけじゃない】 […] 第五福竜丸の被曝が発覚した1954年3月から10カ月間だけ、人や船や魚の放射能検査が実施されました。検査を受けた船は延べ2729隻です。それだけの船が汚染海域を通った可能性があるということです。その2年前の1952年には、すでにたくさんの船が爆心地付近の汚染海域にいたわけです。この年が重要なのは、アメリカが勝手に決めていたマッカーサーライン(太平洋の禁漁区域)が撤廃された。だから、日本の漁船が「さあ、マグロをとるぞ」ということで勇んで爆心地近くの漁場にまで乗り込んでいき、被曝させられた。第五福竜丸が最初の船でも何でもない。すでに被曝が続いていたわけです。たまたま、第五福竜丸という船の被曝がスクープされただけです。  それから、アメリカの核兵器実験は1946年から1962年まで続けられている。104回です。核実験期間中、魚の検査をしたり廃棄処分をしたりしたのは1954年の10カ月間だけ。それ以外の期間は検査せず、強烈な被曝をした魚も水揚げされた。そういったものを私たちは食べ続けてきたという現実があります。しかし、何が起こっているのか、どういう健康被害があったのかはわかりません。  それから、もう一つ。フォールアウトが日本列島に届いていることは明らかです。アメリカ原子力委員会は1日ごとに調べている。機密文書によると、1952年にはすでに世界の107カ所にモニタリングポストを設置しているんです。うち日本は5カ所です。フォールアウトが広がることを予測し、それが分かってて彼らはやり続けていたんです。どれぐらいの放射性物質が降ってきたかというと、沖縄の気象台に「17万カウント」という記録があることは知っていたが、実はそれどころではなかった。福岡が35万カウント、鹿児島が24万カウント、そういった雨が日本列島に降っていたんです。もちろん、その1日だけじゃなく、多かれ少なかれ降り続いていた。そういうものが土壌に付き、作物に含まれ、私たちが摂取し続けた。映画の制作過程で、当時の放射性物質が現在も残っていることも分かりました。  無農薬野菜を選んで、放射性物質を摂取しないように気をつけていても、ごく微量ですがストロンチウム90とかセシウム137とかが、土壌に残っている。ビキニ事件というのは第五福竜丸1隻が被曝した事件ではなく、日本人の多くが強烈な放射能の影響を受けていることが分かった。ただ、そのことでどんな健康被害が起こっているかの実態はよく分からない。死んだ人は何も言いませんから。今生きている人は、たいしたことなかったんだろうなと思うかもしれません。ぼくもそうなんです。でも、生き延びられたということの奇跡をぜひ感じてほしい。もっと言うと、爆心地(漁場)に通ったマグロ漁船、爆心地近くを航行した貨物船、捕鯨船の人たちは、ほんとに良く生き延びられたなあ、と。よく80歳まで生きてるなあ、ほんとに奇跡だなあと感じます。  映画「X年後2」に登場する関東在住の川口美砂さんは小学校6年生だった時に、高知県室戸市のマグロ漁船員だったお父さんを36歳で亡くされています。朝起きたら、突然亡くなっていた。そういう人が室戸に行くといっぱいいます。今回の映画では、川口さんが故郷の元船員や遺族ら70人に聞き取りをしました。それに密着したのが、この映画です。実は一番好きなカットがあります。それはラストシーン。川口さんがある被曝者(元船員)の方に出会い、「おんちゃん、何歳?」「83歳」「あ、うちの父ちゃんと一緒や」って言うところがあるんです。自分で撮影しながら涙が出そうになりました。「酒を飲み過ぎたから早死にした」と言われた川口さんのお父さんも生きていれば83歳。ああ、今、川口さんはお父さんに会ってるんだなあ、そのときすごく実感しました。  お父さんが亡くなると、12歳の川口さんは家計を支えるために働き始めました。「なんちゃーことなかったですよ」って川口さんはいつも明るく言うんです。でも、改めてインタビューでそのことを聞くと泣き始めた。その時は正直、カメラを止めようと思ったんですけど、それが彼女の素直な気持ちだと思ったので収録し、映画で見ていただくことにしました。ぼくだったら耐えられないですね。小学校の時に自分の親が突然死んで、胸に耳を当てたとか、体が冷たくなってるとか。やはり僕らが考えなくちゃならないのは、じゃあ、何でそうなったのかということです。そして乗組員の死は家族を絶望させ、地域を破壊していくことを考えなければならない。 【原爆を落とした人がいる】 […] もっと読む。

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(核の神話:15)福島原発が呼び起こしたビキニの記憶 via 朝日新聞

(抜粋) 第五福竜丸の乗組員23人のうち、半分以上は放射能が原因とみられる病気で亡くなりました。放射能の 中に放り出されている福島の人たちには、これからいろんな形でいろんなことが起こる。そのことの始末ができない以上は、これから先もずっと続いていくとい うことになりますのでね。あまり声を大きくして言えないようだけど、ほんとは声を大きくして言わないといけない。声を大きくすると困る人が出てくるってこ とが、まったく困ったことなんだよね。 これから福島原発の放射能に よる病気が見つかっていくんでしょうけど、お医者さんはきちんと事実を発表して、それが起こらないようにしないと、いつまでたってもなくならない。まあね え、国自体がこのことを隠そうとして一生懸命になってるんだから、お医者さんにしろ学者さんにしろ、わかってても手をつけないんでしょう。だって自分が不 利になるもん。そういうものなんだよね、この放射能とは。日本はこれまで、核というものの扱いをそういうふうに持ってきたから、福島の核の被災地にもそういうことが起こるんだよ。そんなことは分かってることなんだけど、やっぱりそれにお金がからむと、人間ってのはお金に弱いのかな。負けちゃうんだよね。いやだね。 危険ということより、お金が先に来ちゃってる。よく調べたら、原発自体がやっちゃいけないことだったんだよね。よく調べないから、それに手を出し て、つかんでしまう。いったんカネをつかんだら、放さないですからね。あとにひきずって、いま、こういう結果になってるんでしょ。どっかで道を間違えてい るわけですよ。人間の弱さが、そういう道をつくってるんですよ。だれを責めるっていうのは、難しいんですよね。責任者を探せばいないことはないけれども、 だからっていってその人に決めつけられないし、歴史の大きな流れの中でそういうことが起こってくる。はっきりどっかで線引きしないと、また原発事故が起こっちゃうでしょう。 【被爆させられた船】 (東京・夢の島の第五福竜丸展 示館で展示されている)福竜丸を見るたびに思うのは、この船もおどらされたんだな、と。福竜丸自体が被曝したんじゃなくって、そういう時代の中で被曝させ られた船なんだって。大きく考えたら、日本人の心がヒバクしたんだよね、あの時。それを船が警告してる。ずっと教えてるんだよ。「おれは被曝したあわれな 船じゃないんだ」って言ってるように見えます。都合の悪いことは全部この船に押しつけて。この船だけが被曝したってことで終わらせてるわけでしょ。あのこ ろ、ビキニ環礁では、のべ1千隻に及ぶ日本の漁船が漁をしていて、アメリカの一連の核実験の放射能を浴びて、あとになって大勢の人が発病して亡くなっているんだけど、だれもその責任を認めていない。 (略) もともと、静岡から東京に出てきたのは隠れるため。福竜丸の仲間うちで私が一番ガキだったんで、地元に残って静かに暮らしていくことができなかっ た。地元では「罪人」でしたよ。ほかの船の漁師たちを苦しめたんだからね。(ビキニ被曝事件によって)漁はできないし、お金は入ってこないし、生活も苦し いっていうのをみんなが味わったから。そういう怒りは、それを持ってきた我々福竜丸のほうへと向けられたんですよ。人間ってそういうもんだよね。あいつら が持って来なきゃ、自分たちも苦労しなくてすんだんだっていう考えになるんですよ、単純に、事件の内容がわかんない人は。それが普通の漁師ですからね。カ ネが入らない、食うものがない、苦しい、となれば、その原因をつくったやつが悪いやつになるんだよね。 地元に残った仲間もそういうことでずっといじめられて、いまもそれが抜けないんだよね。重荷をしょって地元で暮らしたって面白くもなんともない。 ほんとに罪人とおんなじですよ。私はそんなこといやだから、せめて都会へ出て、みんなとおんなじような気分で生活したいと思って、おおぜいの中にまぎれこ んだ。事件のことを言わなきゃわかんないんですから、東京ではね。 (略) いまや戦争好きの軍国主義者らが政権を握っている。これも裏切りですよ。そういうことのために戦場に行かされた人たち、たくさんの人たちが帰りたくても帰ってこられなかったという歴史的事実をいまの若い人はなんにも知らない。 私は戦時中の教育を受けて、特攻隊員 になろうと思って勉強してたんだから、当時の指導者がどういうことを言って若者を戦場に送ったか知っている。それはもう腹がたちますよ。表だっては言えな いけどね。でも、それが本心なんですよ。それが私のいまの発言の根底にあるんですよ。怖いからみんなが黙ってるけどね、腹の中には私と同じ考え方を持って いるはずです。 (略) 【島の村長「絶対に帰らない」】 マーシャルに行ったときに、アメリカに核実験の 場所貸しをしたロンゲラップ島のジョン・アンジャイン村長に話を聞かせてもらったら、「アメリカはうそつきだ」って怒ってた。そう言ってる間に、がんで死 んじゃった。かわいそうだけど、だまされたわけだからね。責任を感じてたんでしょうね。移住先で元島民はもう3世代目になっている。そうすると、元の島の 生活は継承されないんですよ。チェルノブイリ原発事故で … Continue reading

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ビキニ被ばく 労災申請へ 福竜丸以外、がん発症元船員ら via 毎日新聞

1954年に太平洋ビキニ環礁で米国が実施した水爆実験で、静岡県のマグロ漁船「第五福竜丸」以外に周辺海域で操業していた漁船に乗り組み、後にがんを発 症した高知県内の元船員や遺族が、船員保険の適用による事実上の労災認定を求め、全国健康保険協会船員保険部に集団申請する方針を固めた。病気と被ばくの 因果関係を主張して補償を求める。元船員らを支援している市民団体「太平洋核被災支援センター」(高知県宿毛市)によると、10人前後になる見通しで2〜 3月の申請を目指す。第五福竜丸の元船員以外に船員保険の適用例はなく、認められれば救済の拡大につながる期待がある。 (略) 2014年9月には厚生労働省が同センターの請求に対し、第五福竜丸以外の被ばく状況を調査した文書を初めて開示した。た だ、当時の船員が浴びた被ばく線量は微量で、健康に影響する国際基準を下回るという見解だ。一方、岡山理科大の豊田新教授(放射線線量計測)らは同年、現 場の東約1300キロで遭遇した元船員の歯のエナメル質を調査し、最大414ミリシーベルトを計測したと報告した。これは広島原爆の被爆者が爆心地から 1.6キロで浴びた線量に匹敵するという。  原爆被害では、被爆者援護法は爆心地から3.5キロ以内で被爆したなどの条件を満たす人が、がんなど特定の病気になると「原爆症」と認める仕組み。原発作業員の場合、年間の被ばく線量を加味して被ばくと病気の因果関係が認められれば労災認定される。  ビキニ水爆実験に遭遇した元船員には救済制度はないが、第五福竜丸の元船員が船員保険の適用を受けた例がある。申請に当たっては豊田教授らの調査結果な どを示す考えで、聞間医師は「保険適用の可能性は十分にある。元船員や遺族の長年の苦しい思いを少しでも晴らしたい」と話す。多数の船が被害に遭ったとさ れる高知県内には数百人が存命しているとされ、同県は昨年、元船員を対象にした健康相談を実施した。 全文は ビキニ被ばく 労災申請へ 福竜丸以外、がん発症元船員ら

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ビキニ水爆実験被爆者 元第五福竜丸乗組員 大石又七/Matashichi Oishi, former crew of the Lucky 5th Dragon, Hibakusya from Bikini nuclear test via Save Kids Japan

福島原発大事故は今から五七年前に起きたビキニ事件の原点にさかのぼって考えなければ正しい答えは出てこないと思っています。誰がなぜ、危険な原発を地震大国である日本に導入したか、そこが一番重要なところだと思います。 I believe we cannot have a correct understanding of Fukushima nuclear accident unless we look back the Bikini Incident 57 years ago. The most important point is, who and why a dangerous nuclear power plant was introduced to Japan, … Continue reading

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アトムの涙 手塚治虫が込めた思い(下)原作を読むきっかけに 科学とエゴのはざまでvia 47News

東京電力福島第1原発事故の後、インターネットの掲示板などに「鉄腕アトム」への批判的な意見が相次いだ。多くは「原発のイメージアップに加担しているのではないか」という書き込みだ。 手塚治虫の長女るみ子(48)は不安に駆られ、何度も声を上げそうになったが、そのたびにファンが反論して”疑惑”を打ち消してくれた。 おかげで今はそんな批判も、冷静に受け止められるようになった。「あらためて原作を読み、真意をくみ取るきっかけにしてほしい」 有名なアトム誕生のエピソードからして「父の思いがよく出ている」とるみ子は言う。 わが子を失った天馬博士が悲しみのあまり、息子そっくりのロボット、アトムをつくる。博士は最初は喜んでかわいがるが、成長しないアトムにいらだち、ついに追い出してしまう…。 「幸福のためにあるはずの科学技術が、人のエゴや欲でゆがめられてしまう。アトムはいつもそのはざまで悩んでいるんです」 手塚は1985年夏、東京・西新宿で開催した「手塚治虫漫画40年展」で1枚の風刺漫画を展示した。 米国が行った核実験で被ばくした「第五福竜丸」が海に浮かんでいる。 アトムに向かって「この原子力ロボットめ、死の灰を降らせるな!」と叫ぶ村人たち。涙を浮かべたアトムに、手塚はこうつぶやかせている。「ボクは正義の味方だと思っていたのになあ」 「アドルフに告ぐ」「グリンゴ」など手塚は後年、社会派の作品を残した。時流に敏感な手塚が生きていたら、原発事故から着想を得て、シリアスな人間ドラマを描いたに違いない。 「なのはな」「プルート夫人」など、福島の事故後、原発をテーマにした作品を次々に発表した漫画家の萩尾望都(63)は、「鉄腕アトム」が原発と関連づけて語られることにやるせなさを感じ、こんな「アトム最終話」のあらすじを考えた。 続きは アトムの涙 手塚治虫が込めた思い(下)原作を読むきっかけに 科学とエゴのはざまで 参考 アトムの涙 手塚治虫が込めた思い(中)描いた覚えない 電力会社がPRに利用 via 47News  

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