Tag Archives: 法廷闘争

原発避難者訴訟 国の責任は否定されたが…最高裁判決文に異例の反対意見 三浦守裁判官が痛烈批判 via 東京新聞

 東京電力福島第一原発事故の福島県内外の住民らが国と東電に損害賠償を求めた4訴訟の最高裁判決。国の責任は否定されたが、1人の裁判官は他3人の多数意見の判決を痛烈に批判し、国が東電に規制権限を行使しなかったのは「国家賠償法1条1項の適用上違法だ」とする反対意見を書いた。原告らはこの反対意見を「第2判決」と呼び、後続の第2陣や全国各地の同様の訴訟で、最高裁で勝つまで闘い続ける覚悟を固めている。(片山夏子) […] 判決文の実質的な判断が書かれた部分が4ページなのに比べると、反対意見の内容は多岐にわたり、判断も詳細な理由が述べられている。「多数意見は国や東電の責任を問う裁判で、最大争点である津波の予見可能性や長期評価の信頼性への明確な評価を避けるなど、触れていない重要なことが多い」  一方で、三浦裁判官は長期評価も予見可能性も認めた上で「想定された津波で敷地が浸水すれば、本件事故と同様の事故が発生する恐れがあることは明らかだった」とし、遅くとも長期評価公表から1年後の2003年7月頃までには、国が東電に何らかの対策を取らせるべきだったとした。  また判決の多数意見は、予想された津波以上の津波が敷地を襲っており、対策も防潮堤以外は一般的でなかったとし、「仮に津波対策が取られていたとしても、事故が発生した可能性が相当ある」と判断。国が東電に対策を義務づけなくても、原発事故の発生に因果関係はないと結論づけた。 ◆多重的な防護対策「検討すべきだった」  これに対し、三浦裁判官は津波が予想された方角以外からも遡上そじょうする可能性の想定をするのは「むしろ当然」とし、津波の大きさも相応の幅を持って考えるべきだと言及。津波の侵入口や経路をふさぐ水密化も国内外で当時実績があり、それら多重的な防護対策を「万が一にも深刻な災害が起こらないようにする法令の趣旨に照らし、検討すべきだった」とした。  さらに三浦裁判官は、原発の技術基準は電力会社の事業活動を制約し、経済活動に影響する一方で、原発事故が起きれば多くの人の生命や、身体や生活基盤に重大な被害を及ぼすと言及。「生存を基礎とする人格権は憲法が保障する最も重要な価値」とした上で、「経済的利益などの事情を理由とし、必要な措置を講じないことは正当化されるものではない」と断じた。馬奈木弁護士はこう解説する。「つまり原発稼働による経済活動を優先し、人の生命や身体を脅かすことは許されないということ。これはまさに原告側が訴えてきたこと。もっとも注目されるべき点ではないか」  国の規制権限は「原発事故が万が一にも起こらないようにするために行使されるもの」という三浦裁判官の反対意見は、1992年の四国電力伊方原発を巡る最高裁判決が説いた内容を受けたもの。馬奈木弁護士は言う。「重要な争点にも触れないなど判断を避けた部分が多く、今回の最高裁判決は、後続裁判が縛られるものではない。この第2判決の意見が多数派になり、再び最高裁まで勝ち上がって勝訴するまで闘う」 ◆「希望持てる」続く裁判に光  三浦裁判官の反対意見をよりどころに今後も国の責任を追及していくとしても、やはり17日の最高裁判決の衝撃は、原告団にとって大きかった。  「こんな判決認めねぇぞー。許せねー、許せねー」17日午後、最高裁正門前で福島訴訟の服部崇事務局次長(51)は声を振り絞って叫び、泣き崩れた。東電の3幹部を訴えた刑事訴訟も含め、国や東電の責任を問う全国各地の約30の被災者訴訟で、弁護団が連携して積み上げてきた十分な証拠があり、勝訴だと信じてきたから「パニック状態だった」と振り返る。  翌日の原告団らの判決検討会には、服部さん含め原告団幹部が顔を出さなかった。服部さんも抜け殻のようになり、福島で判決を待つ原告仲間にもどう言っていいのか分からず、福島にも帰れなかった。心配して電話をかけてきた馬奈木弁護士に「泣いてばかりいたら、これで終わってしまうぞ」と言われ、気力を振り絞った。南雲芳夫弁護士にも「判決文を読め、希望が持てるぞ」と言われ、福島に戻り判決文を読んだ。  「三浦裁判官の反対意見は俺たちが求めていた判決だった。俺は自分のためじゃなく、原発事故の被害にあった福島県民全体のために頑張ってきた。闘いの第1章は終わったけど、これから第2章だ」。闘う力が体内から湧き上がってくるのを服部さんは感じた。 ◆二度と原発事故が起きない社会を […]  2016年以降に福島地裁に提訴した「福島訴訟」第2陣の原告は、1200人を超える。判決直後の週末に行われた弁護士による原告募集説明会には、54人が参加。その場で原告に加わった人のほか、「国の責任を認めない最高裁判決はおかしいと思って参加した」という人もいた。7月も現時点で、県内各地で14回の説明会が予定され、弁護団は「原告を第1陣、第2陣合わせて早い段階で1万人としたい」と意気込む。 福島訴訟は、各地域で共通する最低限の被害を立証し、原告以外の同じ地域にいる住民も同等の賠償が得られるように考えており、原発事故の被害者全体の救済を目指す。「放射性物質が飛び散った福島県民は全員、被害を受けた近隣の県の人たちも原告になれる」と弁護団は説明する。  判決後、福島訴訟の原告団が東電や経済産業省、原子力規制委員会、福島県議会の各党を回り、被害者の早期救済や賠償基準を定めた中間指針の見直しを求める行動には、第2陣提訴がなく今回の最高裁判決で敗訴が確定した「群馬訴訟」代表の丹治杉江さん(65)や、「千葉訴訟」共同代表の瀬尾誠さん(69)も参加した。 丹治さんは福島市内で開かれた記者会見で「後続の裁判を支えるなど、いろいろな形で不正をただしていきたい。未来を担う子どもたちのためにも、この悔しさをエネルギーに闘っていきたい」と話した。  「あれだけの原発事故を起こしながら、国にも東電にも過失責任がないとされ、対策を取ったとしても事故は防げなかったと多数意見はした。対策を取っても防げないのならば、深刻な被害を出す原発事故を防ぐには、原発の稼働を止めるしかないということになる。社会としてそれでも原発を稼働するのかが問われている」と馬奈木弁護士。  もともと最高裁判決が出ても終わりではなく、原告団は解散しないことは決まっていたと明かした中島孝原告団長(66)はこう語る。「このままでは原発事故の責任を誰も取らず、あの事故の教訓も何も学ばないまま。原発事故はまた起きる。二度と原発事故が起きない社会を次世代に引き継ぐまで闘い続ける決意は変わらない」  デスクメモ 国も東電も悪くない。悪いのは想定外の津波を起こした「自然」だと最高裁判決。あまりと言えばあまりな理屈だが、逆説的に原発推進側にとっても痛いはずだ。いくら防護をしても自然には無力で事故は防げない、と認定されたのだから。これでどうやって再稼働をするというのか。(歩) 全文

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「若者が希望持てる判決を」 原発事故被災者愛媛訴訟の原告・渡部寛志さん via 東京新聞

連載「6・17最高裁判決/原発被災者4訴訟」④愛媛 ◆避難、離婚…家族はバラバラに  「フクシマさん、フクシマさん」。福島県南相馬市から愛媛県に避難した渡部寛志さん(43)は、愛媛で知り合った人からこう呼ばれることがある。東京電力福島第一原発事故から11年がたっても、「避難者」であり続ける。そして、差別もなくならない。 福島から愛媛に避難しているのは、わずか22人(4月時点、復興庁調べ)。人数が少ないだけに「避難者が目立ち、差別につながりやすい」。住居を購入しても、近所の人たちに福島から来たことを隠し続けている避難者もいる。  事故前、原発の北約12キロにある南相馬市小高区で妻と娘2人と暮らし、専業農家をしていた。政府の避難指示で町を離れ、事故から1カ月後、大学時代を過ごした愛媛に避難した。 遠く離れた地での避難生活が長引き、妻と意見が衝突することが増え、2019年に離婚した。渡部さんと次女(13)が残り、長女(17)は元妻と福島県須賀川市に移った。家族がバラバラになった現実に、「原発事故が起きなかったなら…」との思いが拭えない。 ◆国の冷酷な態度見せつけられ 国と東電を相手に裁判を起こすきっかけとなったのは、松山市内の住職の呼びかけで事故直後に始まった避難者の交流会。月1回集まると、「経済的に苦しい」と窮状を訴える声が相次いだ。賠償を東電に任せ、避難者支援も不十分なまま放置している国が許せなかった。  交流会に参加する避難者を一軒一軒訪ねて説明し、原告を募った。子育て世代の避難者が多く、事故時に20歳未満だった原告は8人と3割に上る。  15年1月、松山地裁での第1回口頭弁論で、国の冷酷な態度を見せつけられた。避難生活の苦しさを法廷で意見陳述しようとしたところ、国の代理人は「(裁判の)証拠にならないから不要だ」と、耳を傾けようとしなかった。その後も延々と科学的な論争が続き、傍聴席で疑問に思った。「この裁判に、避難者の居場所はあるのだろうか」 ◆「避難者の学校ほしかった」 […] その中に、いじめに遭い不登校になった兄弟がいた。弟は20年秋に自殺した。22歳の兄は「避難者同士が通える避難者学校を全国につくってほしかった」と吐露し、「『悪かった』と素直に謝罪ができる国だったら、そもそも事故は起きなかった」と憤った。  渡部さんの中学2年の次女は「同級生は原発事故をあまり知らない。知らないとまた事故を起こすから、判決が出たら『国の政策によって起きた事故』と教科書に載せてほしい」。  若い原告の声を聞き、渡部さんは思う。「これからも事故を背負って生きていく若者が、希望を持てる判決を言い渡してほしい」(小野沢健太)  愛媛訴訟 東京電力福島第一原発事故で福島県内から愛媛県内に避難した住民が2014年3月から順次提訴し、25人が国と東電に慰謝料を請求。一審松山地裁(久保井恵子裁判長)は19年3月26日、国と東電に計2743万円の支払いを命じた。21年9月29日、二審高松高裁(神山隆一裁判長)も、東電に津波対策を講じさせなかったのは「許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠く」と国の責任を認め、計4621万円の支払いを命じた。東電の賠償責任は最高裁第2小法廷(菅野博之裁判長)が22年3月30日付で東電の上告を退け、確定した。 全文

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「ふるさと奪われ、なんでこんな仕打ちを…」 原発事故被災者千葉訴訟の原告・南原聖寿さん via 東京新聞

連載「6・17最高裁判決/原発被災者4訴訟」③千葉 ◆福島ナンバーだけで嫌な視線   「すっかり体力が落ちちゃったね。5月に出場した障害者スポーツ大会の100メートル走は21秒。精神的なものもあるけど、白髪が増えるわけだ」  足に障害がある南原聖寿せいじゅさん(62)はスマートフォンに保存された過去の写真を見返し、年月の経過を実感することが多くなった。  東京電力福島第一原発の20キロ圏内にある福島県南相馬市小高区の自宅から、家族で千葉県君津市に避難して11年が過ぎた。東電と国の責任を追及するため千葉地裁に提訴してから既に9年を超え、ようやく17日に最高裁が国の責任について判断する。  「原告団の中には亡くなった人もいるし、加齢で表舞台に立てなくなった人もいる。長すぎる」 君津市は妻の園枝そのえさん(63)の実家が近くにあったが、苦労は尽きなかった。「乗る車が福島ナンバーというだけで、嫌な視線を感じた」。疎外感を覚えずにはいられなかった。 就職した長男(25)は事故当時、転校先の中学校で「放射能がうつる」と言われるなどのいじめに遭い、不登校に。知的障害のある長女(22)は事故後、車いすでの生活に変わった。園枝さんも足の障害が悪化し、車いすを手放せない。 ◆最高裁は忖度しないで判断を ◆最高裁は忖度しないで判断を  住み慣れた地からの転居で、長年勤めていた半導体メーカーの退職を余儀なくされた。消化器系の持病が悪化し、アルバイトもあきらめた。生活保護で家賃と生活費をやりくりしながら、園枝さんと長女の3人でアパート暮らしを続ける。  「福島にいたころはいろいろな人と交流があったけど、現在の自宅周辺は住民同士のつながりが薄く、家族で外出するのは買い物や病院に行く時ぐらい。町内会活動でもあればいいけどね」 […]  裁判を通じて「国は東電に責任をなすりつけ、東電は安全対策よりも経営のことしか考えていない」と痛感した。5年ぐらいで終わると思っていた裁判は、想像以上に長期化した。「責任の有無はすぐに分かるはず。どうしてここまで引き延ばすのか不思議でならない」と嘆く。  南原さんはかつて、二酸化炭素(CO2)などの温室効果ガスが発生する火力発電よりも、原発は環境に優しいと前向きにとらえていた。だが、放射能で汚染した土の保管や長期化する廃炉作業を目の当たりにし、考え方は完全に変わった。  「国の管理監督責任をもっと拡大することが将来のためになる。最高裁は忖度そんたくせずに判断を下してほしい」(山口登史、写真も)  千葉訴訟 東京電力福島第一原発事故で福島県内から千葉県内に避難した住民47人が2013年3月11日、国と東電に損害賠償を求めて提訴。17年9月22日の一審千葉地裁判決(阪本勝裁判長)は国の責任を認めず、東電に計3億7600万円を支払うよう命じた。21年2月19日、二審の東京高裁判決(白井幸夫裁判長)は、国の責任について東電に津波対策を講じるよう「規制権限を行使しなかったのは違法」と認め、国と東電に計2億7800万円の支払いを命じた。東電の賠償は最高裁第2小法廷が22年3月2日付、東電の上告を退け、確定した。5月末までに原告7人が亡くなった。 全文

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「悔しいから、くじけなかった」 原発事故被災者群馬訴訟の原告・丹治杉江さん via 東京新聞

連載「6・17最高裁判決/原発被災者4訴訟」②群馬 ◆事故を防ぐ機会は「何度も何度もあったのに」  10日午後6時前、JR前橋駅前で、丹治たんじ杉江さん(65)はマイクを握っていた。  「事故の原因をはっきりさせ、2度と同じように涙を流す人を見たくない」  2012年11月から毎週金曜に始めた脱原発を呼び掛ける活動は、483回目。次回17日には駅前に立たない。その日、自身の裁判で最後の判決が最高裁で言い渡される。  「過酷な事故を防げる機会は何度も何度もあったのに、国は対策をしたとしても事故は防げなかったと主張した。やりもしないでやっても無駄だったなんて、一番腹が立つ」 […]  「過酷な事故を防げる機会は何度も何度もあったのに、国は対策をしたとしても事故は防げなかったと主張した。やりもしないでやっても無駄だったなんて、一番腹が立つ」 法廷に毎回通い、他の避難者の訴訟を応援するため、各地に足を運んだ。交通費や休業手当が出るわけでもない。自宅には、読みあさった原発関連の本や資料が山のように積んである。  「勉強し、人の話を聞き、発信して。こんな濃密な日々はなかった。後悔はない。でも、これが自分の望んだ人生だったのかな」 ◆罵声のような言葉 一人で泣き、叫んだ […] 放射能への不安、子どもを安心して育てられないなど、それぞれの事情で避難を余儀なくされた。にもかかわらず、自主避難には「勝手に逃げた」とレッテルを貼られた。  「裁判が福島の復興を邪魔している」と、罵声のような言葉を浴びた時もあった。「何度も車の中で一人、泣いたり、大声で叫んだりした」。それでも、原告団の先頭に立ち続けた。原告は4人が亡くなり、末期がんで苦しんでいる人もいる。「くじけなかったのは、悔しいからですよ」 ◆裁判が終わってもするべきことがある  国の責任を巡る最高裁の統一判断は、約30ある他の訴訟に絶大な影響を与える。「怖い。これで終わりだから。考えると、眠れない」。勝っても劇的に生活が変わるわけではない。でも、責任を認めさせたい。  「原発事故の被害者が安心して暮らせるよう、たくさん施策を作っていかないと。原発事故後を生きる大人の責任として」。裁判が終わっても、するべきことがある。幹夫さんと将来を語り合うのは、まだもう少し先だ。(小川慎一)  群馬訴訟 東京電力福島第一原発事故で福島県から群馬県内に避難した住民と家族ら137人が国と東電に慰謝料を求め、2013年9月11日に提訴。17年3月17日の一審前橋地裁判決(原道子裁判長)は集団訴訟では最初の判決で、国について「規制権限に基づき対策を取らせるべきなのに怠った」と責任を認め、東電と国に計3855万円の支払いを命じた。だが21年1月21日、二審の東京高裁判決(足立哲裁判長)は一転、国の責任を否定。東電のみに計1億1972万円の支払いを命じた。東電の賠償責任は最高裁第2小法廷(菅野博之裁判長)が22年3月2日付で東電の上告を退け、確定した。 全文

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原発事故で国の責任認めない判決 「実際の津波は試算された津波と規模異なる」避難者訴訟で最高裁が初判断 via 東京新聞

東京電力福島第一原発事故によって被害を受けた住民や福島県内から避難した人たちが、国に損害賠償を求めた4件の訴訟の上告審判決で、最高裁第2小法廷(菅野博之裁判長)は17日、原発事故について国の賠償責任を認めない統一判断を示した。裁判官4人中3人の多数意見で、三浦守裁判官(検察官出身)は「国や東電が真摯な検討をしていれば事故を回避できた可能性が高い」として、国の責任はあったとする反対意見を出した。全国で約30件ある同種訴訟への影響は必至だ。  判決は、東電が試算した津波は実際の津波とは規模や方角が異なり、仮に国が東電に対策を命じていたとしても事故は防げなかった可能性が高いと判断した。  4訴訟は国と東電を相手に福島、群馬、千葉、愛媛で起こされ、高裁段階では群馬以外の3件で国の責任が認められていた。東電の賠償責任については今年3月に最高裁で確定し、賠償総額は4件で計約14億円となっている。  主な争点は、巨大地震による津波を予見できたかと、対策を講じていれば事故を回避できていたか。 […] 全文

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「妻返してくれ」東電訴える福島の男性 原発事故が奪った最愛の時間 via 毎日新聞

 長年連れ添った妻と、定年退職後に古里で農業に取り組んで自給自足――。満ち足りた暮らしは、予想もしなかった事態で台無しになり、妻は自ら死を選んだ。「私らは何か悪いことをしたのか」。福島県田村市の今泉信行さん(74)は、例えようのない怒りに突き動かされている。  のどかな山林に囲まれた田村市都路地区。春に山菜、秋にはキノコがよく採れる。今泉さんはこの地で生まれ育ち、ずっと暮らしてきた。15年ほど前に会社を定年退職してからは、1ヘクタールの水田と10アールの畑を耕し、ほぼ自給自足の生活に。母と妻、長男夫婦と孫2人の7人で、穏やかな日々を過ごしていた。  そんな暮らしは、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故によって一変した。震災発生の翌日、2011年3月12日。国は第1原発から20キロ圏内にある都路地区東部に避難指示を出し、市は地区全域に避難指示を出した。今泉さんらは自宅を離れ、避難生活を余儀なくされた。高齢で体が不自由な母は老人ホームに預け、同年8月に妻と市内の仮設住宅に入った。  だが、慣れない生活は、知らず知らずのうちに家族の負担になっていた。妻峰子さんは見知らぬ人たちに気を使う生活に疲れ切り、12年10月に自ら死を選んだ。54歳だった。峰子さんは11歳年下で、職場で出会った。笑いの絶えない明るい人だった。  今泉さんは当時、生活のために除染の仕事に従事する傍ら、仮設住宅の自治会長を務めていた。「追い込まれていることに気付けなかった」。峰子さんはその後、震災関連死と認定された。  今泉さんは葬儀の後、市内にある東電事務所を何度も訪れた。「妻を返してくれ」。謝罪をしてもらいたいと思い、応対した社員に詰め寄った。だが、相手は無言のままだった。今泉さんの左手に握った峰子さんの位牌(いはい)に涙が落ちた。  今泉さんは15年2月、都路地区の住民たちとともに、国と東電に1人当たり1100万円の慰謝料などを求める裁判を起こした。今泉さんは原告団長となった。  都路地区は、原発事故に翻弄(ほんろう)され、分断されたと感じている。第1原発20キロ圏内で旧避難指示区域にあたるエリアの住民は、1人当たり月額10万円の賠償金が18年3月まで支払われた。一方、20~30キロ圏内で旧緊急時避難準備区域にあたるエリアの住民は、1人当たり月額10万円の賠償が12年8月に打ち切られた。  原告は全員が20~30キロ圏の住民だ。裁判の意見陳述で、今泉さんは「20キロ圏内外で分断が始まり、仲の良かった住民の絆がずたずたになった」と訴えた。  「原発事故さえなければ、妻と仲良く暮らせていた。地域が分断されることもなかった。どんな結果になろうとも最後まで闘う」と今泉さん。仮設住宅を経て、17年に元の自宅に戻った。峰子さんがいなくなってからは除染作業の行き帰りに弁当を買って食べるのが日課になった。「家に帰りたい」が口癖だった母ミヨノさんは施設から戻れぬまま、19年に103歳で亡くなった。  よく食べていた山菜は、放射線量が気になってしばらく食べられなかったが、昨春ようやく口にした。昔と変わらない懐かしい味がした。線量が気になって自宅に戻れずにいた長男夫婦とは、孫が県外の大学に進学したのを機に、今春から同居している。 […] 全文

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「これ以上待てない」 提訴10年半、「塩漬け裁判は全国に」 泊原発訴訟 via 朝日新聞

 津波に対して安全性を欠き、運転によって周辺住民の生命や身体に危険を及ぼすおそれがある――。北海道電力泊原発(北海道泊村)の運転差し止め訴訟で、札幌地裁は31日、運転をしてはならないと命じた。提訴から10年半余り。原告の周辺住民らからは安堵(あんど)の声が広がった。▼1面参照  「極めてわかりやすく、順当な判決。危険性を理由に、再稼働を止めたかった我々の思いに寄り添ってくれた」 判決後の会見で、原告弁護団長の市川守弘弁護士はそう評価した。 原告団は東日本大震災後の2011年11月に提訴。裁判が長期化した一因は、原子力規制委員会の審査をにらみながら、裁判では自らの主張を明らかにしない北電側の姿勢にあった。谷口哲也裁判長は今年1月、「審理が熟した」と弁論を終結させ、この日の判決で「原発の運転によって、周辺住民の生命・身体など人格権を侵害する恐れがある」と断じた。 市川氏は「これ以上待てない、と裁判所が規制委の代わりに判断してくれた」と指摘。「規制委の審査を理由に、裁判所が先に進めようとしない『塩漬け裁判』が全国にあるが、安全性が立証できなければ結審して判決を出してもいい」と述べ、他の訴訟に与える影響は大きいとした。 会見には約30人の関係者らが出席。原告団を牽引(けんいん)してきた小野有五・北海道大学名誉教授(自然地理学)は「1200人の仲間がいて10年間がんばってこられた。裁判官が厳しく指摘してくれた」と笑顔を見せた一方、北電側の姿勢を改めて批判。「北電が規制委の方ばかり向いていたということが問題。規制委に対しても証拠の出し方が遅かった。北電は原発のような危険なものを扱う能力がそもそもないんじゃないかとさえ思う」と話した。 原告団長の斉藤武一さん(69)=北海道岩内町=は「団長として道民として、地元の人間として喜びたい。差し止めは、どんどん再稼働が遅れるということ。原発のない北海道を目指す第一歩が、(判決があった)午後3時に記された」と声を弾ませた。(角拓哉、石垣明真、日浦統) ■各地の原発訴訟「力づけられる」 […] 中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)の廃炉などを求めた訴訟の弁護団の青山雅幸弁護士は、札幌地裁が「審理を継続することは相当でない」と判断したことについて「司法の役割を果たした画期的な判決だ」と評価した。 訴訟は2011年7月の提訴から10年以上、静岡地裁での審理が続く。17年に原告側が提出した「原発敷地内に活断層がある」とする書面に対し、中部電側は今も反論の書面を出していない。20年12月の弁論では裁判長が「かなりの間、被告が書面の提出をしていないことは遺憾」と述べたが、議論が尽くされておらず、審理を打ち切る段階にないとした。青山弁護士は「静岡地裁は札幌地裁の姿勢を見習うべきだ」と指摘する。 12年に提訴した北陸電力志賀原発(石川県志賀町)の運転差し止め訴訟も、審理が続いている。断層の活動性をめぐる原子力規制委員会の審査が長引き、金沢地裁はその結果を待つ方針を採っているからだ。原告団長の北野進さん(62)は札幌地裁判決を「本来の司法の在り方を示した素晴らしい判決。私たちも勇気づけられる」と歓迎した。 関西電力大飯原発(福井県おおい町)では、福井地裁が14年に運転差し止めを命じる判決を出したが名古屋高裁金沢支部の控訴審で逆転敗訴した。原告団代表の中嶌哲演(なかじまてつえん)さん(80)は「少しずつだが住民の命を大事にする判決が積み上がってきた。自分たちも力づけられる」と喜んだ。 […] (小山裕一、小島弘之、佐藤常敬) ■大飯原発審理にも参加 谷口裁判長 泊原発の運転差し止めを命じた谷口哲也裁判長(50)は、1998年、大阪地裁判事補に任官。福岡地家裁小倉支部、京都地家裁勤務などを経て、司法研修所の教官を務めたこともある。大阪地裁判事を経て20年から札幌地裁部総括判事を務めている。 大阪地裁では19年3月、関西電力大飯原発3、4号機の運転差し止めの仮処分申し立ての審理に参加(申し立ては却下)。札幌地裁では今年1月、北海道白老町で乗客13人が重軽傷を負ったバス事故で運転手を違法に起訴したとして、国に賠償を命じる判決を出している。 ■「速やかに控訴」 北海道電 北海道電力は31日、「当社の主張をご理解いただけず誠に遺憾であり、到底承服できないことから、速やかに控訴に係る手続きを行います」とのコメントを出した。  ■津波対策が不十分、明快 原発訴訟に詳しい元立命館大法科大学院教授の斎藤浩弁護士の話 極めて単純明快な判決だ。津波対策が不十分として原告らの人格権侵害のおそれを認め、その他の数ある争点は「検討するまでもない」とした。泊原発の防潮堤は完成時期が見通せないどころか、構造も決まっていない。十分な防潮堤が現状ないという判決に対し、誰も文句が言えない。これほど被告側に不利な争点は、過去の原発訴訟ではなかった。 近年は毎年のように、司法が原発の安全性に異議を唱える判決を出している。一方、政府は脱炭素の推進のために原発の再稼働を重視している。原発再稼働の声が強まっている中での、勇気ある判決とも言えるだろう。  ■規制委の審査中、違和感 電力会社の経営に詳しい国際大学の橘川武郎教授(エネルギー政策)の話 原子力規制委員会で審査中の原発に裁判所が判断を下すのは違和感がある。これまでの原発訴訟と同様に控訴審で判決が覆る可能性が高く、再稼働への影響はあまりないだろう。 ただ、北電は防潮堤について説明の仕方があったのではないか。北電は規制委の審査対応でも大手電力のなかで進め方が拙劣で、審査が長期化した。 […] 原文 (有料記事)

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「子ども甲状腺がん裁判」 始まる~20代女性陳述「大学行きたかった」 via OurPlanet-TV

[…] この日の裁判では、弁護士らが訴状の要旨を陳述したほか、原告の20代女性が法廷に立ち、意見陳述した。女性は、高校生の時にがんが発覚。手術後、大学に進学したものの、再発と転移により、大学を中退。以来、治療中心の生活を送っている。放射性ヨウ素を服用する特殊な治療・アイソトープ治療の過酷さや、将来の夢を描けない苦しさを綴った陳述書を、約15分かけて読み上げた。 甲状腺がんをめぐっては、インターネットを中心に、被曝影響を主張する言説に対してバッシングが広がっていることもあり、原告は、傍聴席からは見えないよう、四角いパーテーションで囲われた中で陳述した。がんが分かった時のことや、大学を断念したことなど、苦しい経験を語るくだりでは、時折、声をつまらせたり、しゃくりあげるような泣き声となったが、声を震わせながらも最後まで読み続けた。 2回目以降の意見陳述は未定 この日は、意見陳述をした原告以外に、3人の原告が出廷。やはり傍聴席から見えないよう、パーテーションで仕切られた原告席で弁論に参加した。同席した弁護士によると、原告の陳述に聴き入りながら、3人とも涙が止まらなくなり、慟哭するようば場面もあったという。意見陳述の間中、法廷内は、鼻をすする声が終始聞こえていた。 原告の意見陳述をめぐっては、4月に行われた進行協議で、東京電力が原告の意見陳述の実施に反対を唱えており、2回目以降の予定は決まっていない。原告弁護団は弁論の最後に、原告の意見陳述を認めるよう改めて主張。被告側代理人は明確に反対はせず、裁判所に委ねると述べた。裁判所は1週間程度で方針を示す。 被曝との因果関係が争点 この裁判の最大の争点は、事故に伴う放射線被曝とがん発症の因果関係となる見通しだ。原告側は、年間で100万人に1~2人しか発症しない小児甲状腺がんが、この10年間に293人が発症したと指摘。また、子どもの甲状腺がんの最大の発症因子は放射線被曝であることから、疫学的な手法で、因果関係は証明できると主張している。 一方、原告側によると、東電側は答弁書で、原告らは被曝していないなどと反論しているという。次回の裁判は、3ヶ月後の9月7日に開かれる。 […] 原告の意見陳述要旨 あの日は中学校の卒業式でした。友だちと「これで最後なんだねー」と何気ない会話をして、部活の後輩や友だちとデジカメで写真をたくさん撮りました。そのとき、少し雪が降っていたような気がします。 地震が来た時、友だちとビデオ通話で卒業式の話をしていました。最初は、「地震だ」と余裕がありましたが、ボールペンが頭に落ちてきて、揺れが一気に強くなりました。「やばい!」という声が聞こえて、ビデオ通話が切れました。 「家が潰れる。」揺れが収まるまで、長い地獄のような時間が続きました。 原発事故を意識したのは、原発が爆発した時です。「放射能で空がピンク色になる」そんな噂を耳にしましたが、そんなことは起きず、危機感もなく過ごしていました。 3月16日は高校の合格発表でした。地震の影響で電車が止まっていたので中学校で合格発表を聞きました。歩いて学校に行き、発表を聞いた後、友達と昇降口の外でずっと立ち話をして、歩いて自宅に戻りましたが、その日、放射線量がとても高かったことを私は全く知りませんでした。 甲状腺がんは県民健康調査で見つかりました。この時の記憶は今でも鮮明に覚えています。その日は、新しい服とサンダルを履いて、母の運転で、検査会場に向かいました。 検査は複数の医師が担当していました。検査時間は長かったのか。短かったのか。首にエコーを当てた医師の顔が一瞬曇ったように見えたのは気のせいだったのか。検査は念入りでした。 私の後に呼ばれた人は、すでに検査が終わっていました。母に「あなただけ時間がかかったね。」と言われ、「もしかして、がんがあるかもね」と冗談めかしながら会場を後にしました。この時はまさか、精密検査が必要になるとは思いませんでした。 精密検査を受けた病院にはたくさんの人がいました。この時、少し嫌な予感がしました。血液検査を受け、エコーをしました。やっぱり何かおかしい。自分でも気づいていました。そして、ついに穿刺吸引細胞診をすることになりました。この時には、確信がありました。私は甲状腺がんなんだと。 わたしの場合、吸引する細胞の組織が硬くなっていたため、なかなか細胞が取れません。首に長い針を刺す恐怖心と早く終わってほしいと言う気持ちが増すなか、3回目でようやく細胞を取ることができました。 10日後、検査結果を知る日がやってきました。あの細胞診の結果です。病院には、また、たくさんの人がいました。結果は甲状腺がんでした。 ただ、医師は甲状腺がんとは言わず、遠回しに「手術が必要」と説明しました。その時、「手術しないと23歳までしか生きられない」と言われたことがショックで今でも忘れられません。 手術の前日の夜は、全く眠ることができませんでした。不安でいっぱいで、泣きたくても涙も出ませんでした。でも、これで治るならと思い、手術を受けました。 手術の前より手術の後が大変でした。目を覚ますと、だるさがあり、発熱もありました。麻酔が合わず、夜中に吐いたり、気持ちが悪く、今になっても鮮明に思い出せるほど、苦しい経験でした。今も時折、夢で手術や、入院、治療の悪夢を見ることがあります。 手術の後は、声が枯れ、3ヶ月くらいは声が出にくくなってしまいました。 病気を心配した家族の反対もあり、大学は第一志望の東京の大学ではなく、近県の大学に入学しました。でも、その大学も長くは通えませんでした。甲状腺がんが再発したためです。 大学に入った後、初めての定期健診で再発が見つかって、大学を辞めざるをえませんでした。「治っていなかったんだ」「しかも肺にも転移しているんだ」とてもやりきれない気持ちでした。「治らなかった、悔しい。」この気持ちをどこにぶつけていいかわかりませんでした。「今度こそ、あまり長くは生きられないかもしれない」そう思い詰めました。 1回目で手術の辛さがわかっていたので、また同じ苦しみを味わうのかと憂鬱になりました。手術は予定した時間より長引き、リンパ節への転移が多かったので傷も大きくなりました。 1回目と同様、麻酔が合わず夜中に吐き、痰を吸引するのがすごく苦しかった。2回目の手術をしてから、鎖骨付近の感覚がなくなり、今でも触ると違和感が残ったままです。 手術跡について、自殺未遂でもしたのかと心無い言葉を言われたことがあります。自分でも思ってもみなかったことを言われてとてもショックを受けました。手術跡は一生消えません。それからは常に、傷が隠れる服を選ぶようようになりました。 手術の後、肺転移の病巣を治療するため、アイソトープ治療も受けることになりました。高濃度の放射性ヨウ素の入ったカプセルを飲んで、がん細胞を内部被曝させる治療です。 1回目と2回目は外来で治療を行いました。この治療は、放射性ヨウ素が体内に入るため、まわりの人を被ばくさせてしまいます。病院で投薬後、自宅で隔離生活をしましたが、家族を被ばくさせてしまうのではないかと不安でした。2回もヨウ素を飲みましたが、がんは消えませんでした。 3回目はもっと大量のヨウ素を服用するため入院することになりました。病室は長い白い廊下を通り、何回も扉をくぐらないといけない所でした。至る所に黄色と赤の放射線マークが貼ってあり、ここは病院だけど、危険区域なんだと感じました。病室には、指定されたもの、指定された数しか持ち込めません。汚染するものが増えるからです。 病室に、看護師は入って来ません。医師が1日1回、検診に入ってくるだけです。その医師も被ばくを覚悟で検診してくれると思うととても申し訳ない気持ちになりました。私のせいで誰かを犠牲にできないと感じました。 薬を持って医師が2、3人、病室に来ました。薬は円柱型のプラスチックケースのような入れ物に入っていました。 薬を飲むのは、時間との勝負です。医師はピンセットで白っぽいカプセルの薬を取り出し、空の紙コップに入れ、私に手渡します。 医師は即座に病室を出ていき、鉛の扉を閉めると、スピーカーを通して扉越しに飲む合図を出します。私は薬を手に持っていた水と一緒にいっきに飲み込みました。 飲んだ後は、扉越しに口の中を確認され、放射線を測る機械をお腹付近にかざされて、お腹に入ったことを確認すると、ベッドに横になるように指示されます。 すると、スピーカー越しに医師から、15分おきに体の向きを変えるように指示する声が聞こえてきました。 … Continue reading

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【傍聴記】311子ども甲状腺がん裁判 via ウネリウネら

《あの日は中学校の卒業式でした。 友だちと「これで最後なんだねー」と何気ない会話をして、部活の後輩や友だちとデジカメで写真をたくさん撮りました。そのとき、少し雪が降っていたような気がします。》  記者は人の話を聞くのが仕事だけれど、こんなに必死になって人の話に耳を傾けたのは、久しぶりかもしれない。プライバシー保護のため、東京地裁103号法廷の中央はパーテーションで仕切られている。その仕切りの奥から、原告の方の声が聞こえてくる。 […] 午後2時の開廷から約1時間後、原告の1人による意見陳述は始まった。その声が聞こえてきた瞬間、法廷の空気は一変した。先ほどまで余裕ぶった表情で裁判に臨んでいた東電側の弁護士たちが、悄然として原告の声に耳を傾けている。 《甲状腺がんは県民健康調査で見つかりました。この時の記憶は今でも鮮明に覚えています。その日は、新しい服とサンダルを履いて、母の運転で、検査会場に向かいました。》 《私の後に呼ばれた人は、すでに検査が終わっていました。母に「あなただけ時間がかかったね。」と言われ、「もしかして、がんがあるかもね」と冗談めかしながら会場を後にしました。この時はまさか、精密検査が必要になるとは思いませんでした。》  この原稿を書いている今でも、原告の声音をはっきり思い出せる。やわらかくて、丁寧で。私は福島に住んで2年余り。数は少ないが、同じ年ごろの人たちと話したことがある。その人たちと同じ声をしている。 《医師は甲状腺がんとは言わず、遠回しに「手術が必要」と説明しました。その時、「手術しないと23歳までしか生きられない」と言われたことがショックで今でも忘れられません。》 《大学に入った後、初めての定期検診で再発が見つかって、大学を辞めざるをえませんでした。「治っていなかったんだ」「しかも肺にも転移しているんだ」とてもやりきれない気持ちでした。「治らなかった、悔しい」この気持ちをどこにぶつけていいかわかりませんでした。「今度こそ、あまり長くは生きられないかもしれない」そう思い詰めました。》  「治らなかった、悔しい」。そう言ったところで、原告の方は少し声をつまらせた。鼻をすするような声も聞こえる。それでも、陳述が止まることはなかった。声がかすれて聞き取れなくなることもなかった。この人は強い、と思った。傍聴席ではもう、みんなボロボロ涙を流していた。 《手術跡について、自殺未遂でもしたのかと心無い言葉を言われたことがあります。自分でも思ってもみなかったことを言われてとてもショックを受けました。手術跡は一生消えません。それからは常に、傷が隠れる服を選ぶようになりました。》 […] 《一緒に中学や高校を卒業した友だちは、もう大学を卒業し、就職をして、安定した生活を送っています。そんな友だちをどうしても羨望の眼差しでみてしまう。友だちを妬んだりはしたくないのに、そういう感情が生まれてしまうのが辛い》   ここのところで、原告の方はもう一度、声を詰まらせた。私は心の中で声援を送ることしかできなかった。 《もとの身体に戻りたい。そう、どんなに願っても、もう戻ることはできません。この裁判を通じて、甲状腺がん患者に対する補償が実現することを願います。》 […] 原告側の井戸謙一弁護士が立ち上がる。 「裁判長、原告側は6人全員の意見陳述の機会を求めます。きょう陳述を行った原告は6人の代表ではありません。皆さん、ひとり一人置かれた状況はちがいます。そのことを裁判官には早期に分かっていただきたい」  裁判長は被告側代理人に意見を求めた。東電側の弁護士が慎重に意見を述べる。 「(原告本人の意見陳述よりも)争点の整理が今後必要です。それを優先してほしいという考えではありますが……、意見陳述については裁判長のご判断にお任せします」  閉廷後の記者会見で、井戸氏はこう話した。 「裁判所は毎回原告の意見陳述をすることには当初から消極的でした。被告代理人も反対でした。今日も明確に『反対』と言うかと思ったら、原告の意見陳述を聞いた直後でしたから、その迫力、うったえる力が大きかったので、被告代理人は『反対』とまでは言えなかったんだと私は受け止めました」  原告の声が、東電側弁護士の耳にも届いたのか?  私はそう信じたい。東電側の弁護士も結局は一人の人間である。一人の人間としてこの日の意見陳述を聞けば、心を動かさない者はいないはずだ。そして、この声がもっと多くの人に届けば、裁判を始めてから原告たちが浴びているという全く正当化できない誹謗中傷など生まれる余地がない。私はそう信じている。 […] 全文

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311小児甲状腺がん損害賠償裁判はじまる/東京電力福島第一原発事故から11年 via 関西労働者安全センター/大阪

シンプルな因果関係 なお120ページの訴状(公開版)が、311甲状腺がんこども支援ネットワークのホームページに掲載されている。 311甲状腺がんこども支援ネットワーク訴状(公開版) 下に紹介する弁護団長の話にも出てくる問題の「福島県県民健康調査」批判に多くのページが割かれているのでぜひ一読いただければと思う。 また、裁判開始に合わせるように岩波書店発行の雑誌「科学」2022年4月号が【特集】原発事故と小児甲状腺がんを掲載している。その巻頭エッセイ 提訴にあたって因果関係の立証の困難さも指摘されているが、因果関係や環境保健が専門の者にとっては、科学的因果関係の立証がこれほどシンプルな事例は珍しい。 雑誌「科学」2022年4月号 その答えは「被ばく」-井戸謙一弁護団長(2022/1/27記者会見) そもそも小児甲状腺がんというのは100万人に1人か2人という極めてまれな病気です。福島県の子どもの数は三十数万人ですから、福島県では2、3年に一人でるかでないか、です。 ところが、原発事故後の福島では、福島県県民健康調査で266名、それ以外で27名、あわせて293名の小児甲状腺患者がすでに発生しています。 原告たちはそのひとりになってしまい、思い描いていた人生を狂わされ、なぜ自分が十代でがんにならなければならなかったのか、考え続けてきました。 しかし、いくら考えてもその答えは「被ばく」しか考えられないのです。 あの2011年3月中旬以降、被ばくをきびしく注意してくれるおとなはいなかったし、被ばくなんて気にしないで今までどおりの生活をしていました。それぞれが相当量の被ばくをしたと考えられます。 しかし、今の福島では、自分のがんの原因が被ばくではないか?などとは言えません。医者に質問すれば頭から否定されます。質問しないのに、きみのがんの原因は被ばくが原因ではないからね、と言う、そういう医者もいます。 周りの人たちにそういう疑問を口にすれば、福島の復興に水を差す、風評加害者としてバッシングされます。彼らは甲状腺がんに罹患したことさえ隠して生活してきたのです。 しかし、将来の不安は高まるばかりです。 六人とも甲状腺の半分を手術で摘出しましたが、そのうち四人は再発し、甲状腺全部を摘出しました。甲状腺を全部摘出すると、残った甲状腺組織をやっつけるために放射性ヨウ素の入ったカプセルを内服するRAI治療という過酷な治療を受けなければなりません。そのカプセルに入っている放射性ヨウ素はなんと、すくなくとも10億ベクレル。さらに甲状腺がありませんから、生涯、ホルモン剤を飲み続けなければなりません。再発を繰り返し、四回も手術を受けた若者がいます。再手術の可能性を医師から指摘されている若者もいます。肺転移の可能性を指摘されている若者もいます。全員が再発を恐れています。進学にも就職にも支障が出ています。将来の結婚、出産なども不安です。 このまま泣き寝入りするのではなく、加害者である東京電力に自分たちの甲状腺がんの原因が被ばくであることを認めさせ、きっちりと償いをさせたい、思い悩んだ末、彼らはそう決意し、提訴するという重い決断をしました。 しかし彼等が提訴の決断をしたのはそれだけが原因ではありません。 同じ境遇の300人近い若者達が同じように苦しんでいるだろう、だれかが声をあげればその人達の希望になる、そしてできればその人達ともいっしょに闘いたい。さらに、原爆の被爆者の方々が、被爆者健康手帳をもらって生涯にわたって医療費や手当の支給を受けているように原発事故による被ばく者にも支援の枠組みをつくってほしい。そこまでつなげたい、と彼らは願っています。 国や福島県が小児甲状腺がんと被ばくとの因果関係を認めていないなかで、裁判所にこれを認めさせるのはむずかしいのではないかと考えられる方がおられるかもしれません。 しかし、100万人に一人か二人のはずだった病気が数十倍も多発しているのです。そして、甲状腺がんの最大の危険因子が、被ばくであることは誰もが認めることです。教科書にいの一番に書いてあります。 そして原告らは確かに被ばくをしました。 最近、福島県県民健康調査では必要の無い手術をしているという過剰診断論が流布されていますが、原告らのがんは進行しており過剰診断では有り得ません。 したがって、原告らのがんの原因が被ばく以外にあるんだということを(被告が)証明しない限り、原告らの甲状腺がんの原因は被ばくであると認定されるべきであると我々は考えておりますし、その考えは裁判所にも十分ご理解していただけるものと考えています。 6名の若者は本日闘いの第一歩を踏み出しました請求金額は全摘の若者4名が1億円に弁護士費用1000万円、片葉切除の若者2名は8000万円に弁護士費用800万円。 長い闘いになります。本当はひとりひとりが皆さんの前で顔と名前を出して、その気持ちを訴えたいのですが、いまの福島、いまの日本に現状ではそれをすることはできません。 今後も匿名で訴えることとなりますが、その点はぜひご理解をお願いしたいと思います。最後にメディアの皆さまには、福島の事故は終わった、福島事故による健康被害者はゼロだなどという政府にウソのプロパガンダに惑わされることなく、この現実を日本中、世界中の人々に幅広く伝えて頂きたくお願い申し上げる次第です。ありがとうございました。 311子ども甲状腺がん裁判提訴会見(ノーカット版)より 全文

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