「妻返してくれ」東電訴える福島の男性 原発事故が奪った最愛の時間 via 毎日新聞

 長年連れ添った妻と、定年退職後に古里で農業に取り組んで自給自足――。満ち足りた暮らしは、予想もしなかった事態で台無しになり、妻は自ら死を選んだ。「私らは何か悪いことをしたのか」。福島県田村市の今泉信行さん(74)は、例えようのない怒りに突き動かされている。

 のどかな山林に囲まれた田村市都路地区。春に山菜、秋にはキノコがよく採れる。今泉さんはこの地で生まれ育ち、ずっと暮らしてきた。15年ほど前に会社を定年退職してからは、1ヘクタールの水田と10アールの畑を耕し、ほぼ自給自足の生活に。母と妻、長男夫婦と孫2人の7人で、穏やかな日々を過ごしていた。

 そんな暮らしは、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故によって一変した。震災発生の翌日、2011年3月12日。国は第1原発から20キロ圏内にある都路地区東部に避難指示を出し、市は地区全域に避難指示を出した。今泉さんらは自宅を離れ、避難生活を余儀なくされた。高齢で体が不自由な母は老人ホームに預け、同年8月に妻と市内の仮設住宅に入った。

 だが、慣れない生活は、知らず知らずのうちに家族の負担になっていた。妻峰子さんは見知らぬ人たちに気を使う生活に疲れ切り、12年10月に自ら死を選んだ。54歳だった。峰子さんは11歳年下で、職場で出会った。笑いの絶えない明るい人だった。

 今泉さんは当時、生活のために除染の仕事に従事する傍ら、仮設住宅の自治会長を務めていた。「追い込まれていることに気付けなかった」。峰子さんはその後、震災関連死と認定された。

 今泉さんは葬儀の後、市内にある東電事務所を何度も訪れた。「妻を返してくれ」。謝罪をしてもらいたいと思い、応対した社員に詰め寄った。だが、相手は無言のままだった。今泉さんの左手に握った峰子さんの位牌(いはい)に涙が落ちた。

 今泉さんは15年2月、都路地区の住民たちとともに、国と東電に1人当たり1100万円の慰謝料などを求める裁判を起こした。今泉さんは原告団長となった。

 都路地区は、原発事故に翻弄(ほんろう)され、分断されたと感じている。第1原発20キロ圏内で旧避難指示区域にあたるエリアの住民は、1人当たり月額10万円の賠償金が18年3月まで支払われた。一方、20~30キロ圏内で旧緊急時避難準備区域にあたるエリアの住民は、1人当たり月額10万円の賠償が12年8月に打ち切られた。

 原告は全員が20~30キロ圏の住民だ。裁判の意見陳述で、今泉さんは「20キロ圏内外で分断が始まり、仲の良かった住民の絆がずたずたになった」と訴えた。

 「原発事故さえなければ、妻と仲良く暮らせていた。地域が分断されることもなかった。どんな結果になろうとも最後まで闘う」と今泉さん。仮設住宅を経て、17年に元の自宅に戻った。峰子さんがいなくなってからは除染作業の行き帰りに弁当を買って食べるのが日課になった。「家に帰りたい」が口癖だった母ミヨノさんは施設から戻れぬまま、19年に103歳で亡くなった。

 よく食べていた山菜は、放射線量が気になってしばらく食べられなかったが、昨春ようやく口にした。昔と変わらない懐かしい味がした。線量が気になって自宅に戻れずにいた長男夫婦とは、孫が県外の大学に進学したのを機に、今春から同居している。

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