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10 years since the Fukushima nuclear disaster via Japanese against nuclear UK

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福島事故から10年 結果ありきの調査と報告・多くのごまかし Digging behind the headlines about the Fukushima Nuclear Disaster via Sayonara Nukes Berlin

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「10年」の節目に抗うvia はっぴーあいらんどネットワーク

あの日、社会は大きく変わるだろうと思った。変わらざるを得ないだろうと信じた。 ​「これほどのこと」が起こったのだから・・・と 数多くの人がそんなふうに確信したのではないでしょうか。 いま『3.11から10年』という言葉が溢れています。そう、10年が経ちます。 いったいあの日から、何が変わり何が変わらなかったでしょうか。 人々の悲しみは薄れたでしょうか。悔しさは、苦しさは、救われたでしょうか。 ​福島は変わらず原子力緊急事態宣言のただなかにあります。 ​2月13日に起こったM7.3の地震は、多くの人に当時の恐怖を蘇らせ、線量計を確認させ、 廃炉作業中の福一のライブカメラから目を離せず眠れない一夜を過ごさせました。 大きく掲げられた『復興』は、私たちを前向きにさせるためだったのでしょうが、 右向け右の『復興』にならえない人の言葉をかき消し、気持ちのやり場をなくすものでした。 そして、「仕方ない」というつぶやきとともに諦めることを強いました。 私たちは、そんな『復興』は受け入れがたいという思いから、 昨年1年間、「『仕方なし復興』に抗って風を起こす」というテーマを掲げました。 「風を起こそう」と構想したさまざまな企画は新型コロナウイルスによって実現がかなわなくなってしまいましたが、 原発事故後をなぞるような混乱のなかで、 あらためて「何が変わり、何が変わらなかったのか」を考えさせられました。 時薬(ときぐすり)では癒せないものを抱えながら、「10年」が経とうが経つまいが、日々は変わらず繰り返されていきます。 でもその日々のなかで、私たちがどんな未来を描き、行動していくかによって社会の歩みは変わっていくはずです。 そして未来を語ることのスタートはいつだって、過去のあやまちと現在の生き方を問い直すことでしょう。 皆さんと一緒に考える機会を持つため、3日間のオンライン公開ミーティングを開催します。 […] 詳細を見る

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「今、幸せ。でも」 福島からの避難者 思い語ると「風評かも」 それでも伝えたい感謝【#あれから私は】/兵庫 Yahoo!ニュースJapan

東日本大震災の発生から11日で10年を迎える。「節目」という言葉が使われることもあるが、福島第一原発事故の影響で9年前に福島市から兵庫県に避難移住した松尾誠さん(40歳、仮名)は、「節目という言葉に違和感がある。『原発事故は今も続いている』。でも、こう言うと福島で暮らす人にとっては、『風評』ととられかねない。年々、思いを話すのが難しくなりました」と複雑な心境を吐露する。それでも取材に応じたのは、故郷から遠く離れた土地で温かく迎えてくれた人たちに思いを告げたいから。「本当に兵庫に来てよかった。10年目に思うことは地元のみなさんへの感謝です」とほほ笑む。  朗らかに笑い、冗談も大好き。だが、震災の話題になると表情が曇る。  「もう二度と家族に会えないかもしれない。本気でそう思いましたね」  郷里から届いた地元新聞に目を落としながら松尾さんがつぶやいた。脳裏には10年前の光景がよみがえる。 […] ◆まだ避難してるの  え、まだ避難してるの―。  10年がたち、郷里からそんな言葉を間接的に聞いたことがある。避難していた人たちの中にも福島に戻る人が出ている。  しかし、「まだまだ線量が高いところがあるし、除染が済んでいないところもある。何より原発の廃炉作業はいまだ途中で、今年2月の地震でも格納容器の水位が低下した。水を入れて冷やし続けないと、また爆発するかもしれない。怖くて戻れません」と話す。  一方で、そこに生きている人がいる。「当時、自分たちは30代。動きやすかったから避難できたけれど、動けなかった人もいる。もちろん、なんともないと思った人もいる。そんな人たちが、自分が言っていることを聞いたらと思うと。こういうことを話すとき、いつも頭のどこかに悲しい顔が浮かびます」  復興、原発、風評、避難、風化―。さまざまな問題が絡み合い、どの言葉も安直に言えない状況は、時間がたつにつれ、より鮮明になっている。  「自分は今、幸せです。でも、いつも心に引っ掛かりがある」 ◆「自主避難者」  松尾さんが暮らした福島市の地域は、国の避難区域には指定されなかった。そのため自主的に避難した松尾さん一家は、国の「避難者」の数に入っていない。あくまで「自主避難者」だ。  「避難する権利」を勝ち取ることや事故の責任を明確にするため、松尾さんは東京電力や国を相手にした集団訴訟の原告に名を連ねている。  「裁判結果に一喜一憂したくなかったし、振り回されたくない思いで、最初は原告にならなかった。けれど、これからも災害は絶対に起きる。どこかが第二の福島になるかもしれない。そのためにも、あの時、何が起きたのか。津波は予見できなかったのか。裁判を通してはっきりさせないと、何もなかったことになってしまう。将来のために、これだけはやっておきたい」  冗談交じりに「ひっそりと暮らしたい」という人が、真剣な面持ちで言った。 ◆親の将来考え  5年前、松尾さんは記者に言っていた。  「なくしたものや手放したもの、手に入るはずだったもの。そればかり考えてきたけれど、5年たってやっと、ここで得られたもののことを思えるようになった」  今、改めて心境を問う。  「自分の将来、そして、遠く離れたところで暮らす親や実家の将来を考える日々。どうしたものか」  そして、「ただ、家族で暮らす当たり前の大切さは、今もずっとかみしめています。これも当たり前ですけど、妻と一緒に子どもが一人前に育つのを見守るのが最優先です。当たり前ですけどね」と笑った。 全文

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「反原発の思いは絶やさない」福島原発事故から10年、最後の国会前デモで決意新た via 東京新聞

「福島の事故を忘れない」。東京電力福島第一原発事故から10年となるのを前に、国会周辺で7日、脱原発を訴える集会があった。事故翌年から、金曜日の首相官邸前デモなどを主催してきた首都圏反原発連合が3月末で活動を休止するため、今回が最後の大規模な集会となった。国会正門前には数百人がかけつけた。「集会やデモがなくなっても反原発の思いは絶やさない」と、参加者は決意を新たにした。(山下葉月、小野沢健太)【関連記事】「今、動かないと」「来ずにいられなかった」写真と参加者の言葉で振り返る脱原発デモ 曇り空の下、参加者は太鼓の音を鳴らしながらリズムを刻み、「すべての原発再稼働反対」「原発ゼロをさっさと決めろ」とシュプレヒコールをあげた。 ヘアメーキャップアーティストのむとうちづるさん(63)=東京都狛江市=は、金曜日の首相官邸前デモが始まった2012年から約10年間で350回以上、官邸周辺に足を運んできた。「誰かが『原発はダメ』と言わないと何も変わらない」との思いからだ。  一時は約20万人が集まったが、最近は30人も満たない時もあったという。むとうさんは「声を届ける場を作ってくれたことに感謝している。今後は自分たちのSNSで反原発を発信する」と力を込めた。 練馬区の会社員聖生せいりゅう和音かずとさん(23)は「最後と聞いて参加した。デモは人々の声を可視化する場で、なるべく続いてほしかった」と残念そう。千葉県大網白里市の無職伊藤金治郎さん(75)は「生きている限り、地元で反原発を訴えます」と話した。 首都圏反原発連合は、参加人数の減少や資金難などから活動休止を決定。解散はせず「原発政策に動きがあったときなどにアクションを起こせるようにしたい」としている。 中心メンバー、ミサオ・レッドウルフさんは「10年がたっても福島第一原発の事故収束すら進まないのに、いまだに原発を推進しようとしている政府の姿勢が恥ずかしい」と批判。「活動休止することは心残りだが、今後も声を上げたい」と話した。  金曜日の官邸前デモは3月中は続けるという。 原文

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米、メルトスルーと分析 原発事故、炉心溶融も 元委員長「日本にも伝達」 via 産経ニュース

 東京電力福島第1原発事故の発生時、米原子力規制委員会(NRC)委員長だったグレゴリー・ヤツコ氏が8日までに共同通信のインタビューに応じ、NRCが事故当初から核燃料が溶け落ちる炉心溶融(メルトダウン)や、溶融した燃料が原子炉圧力容器を貫通する「メルトスルー」が起きていると分析していたことを明らかにした。また「日本政府にこの評価内容を伝達していた」と語った。  ヤツコ氏は事故発生翌日に起きた1号機の水素爆発について「明らかに燃料が損傷している証左だった」と指摘。3号機での水素爆発に関しては「燃料がどの程度損傷しているかは判断できなかったが、この時点で溶融は確かだと考えた」と当時を振り返った。  また15日早朝には、大きな衝撃音と同時に2号機が減圧したとの報告を受け、NRCのベテラン専門家が「溶けた燃料が圧力容器を突き抜け、格納容器に到達。格納容器からも(溶融した燃料が)漏れ出し、その影響で減圧した」との見立てを示したと証言した。 原文

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【東日本大震災から10年】県議目指し活動中。「黙っていたのは逃げ……自分で行動しようと決めました」/磯貝潤子さん via LEE

2016年4月号のインタビューから5年。東日本大震災関連の報道が減る中で、彼女たちが日々、どんな葛藤や奮闘を続けてきたのか。 新型コロナの流行で現地取材がままならない中、今回はオンラインでじっくりとお話を伺いました。ぜひ彼女たちの思いを共有してください。 5年目インタビューより 郡山市で被災。放射能対策をしながら暮らしていましたが、1年後、県外への自主避難を決断し、娘2人を連れて新潟県の借り上げ住宅に引っ越します。夫は郡山市に残り、二重生活に。甲状腺の検査では娘にも自分にもたくさんのコロイド嚢胞が見つかりました。子どもたちの健康を守るため、放射能や、水や食べ物の安全性について必死に学ぶうちに、沖縄や安保などの社会問題にも目を向けるようになっていきます。 「ママ、本当に戦争になっちゃうの?」……「この法律が成立したら、なるかもしれないね」と答えると娘さんは泣いたと言います。2015年、安保関連法案が国会に提出され、多くの反対の声が上がっていました。 「どうしたら泣く娘を慰められるんだろう。私たちは原発から離れた場所なら安全に暮らせると思って新潟に避難したけれど、もしも戦争になったら、今度はどこに避難すればいいんだろう。大丈夫だよと言える根拠がひとつも見当たらなくて、だったら止めなくちゃならないと思いました」 SNSを通じて「安保関連法に反対するママの会」が全国に広がっていき、磯貝さんもその活動に加わります。たくさんのママが集まった渋谷のデモにも参加しました。けれども2015年9月、安保関連法成立。12月には「安保法制の廃止と立件民主主義の回復を求める市民連合(通称:市民連合)」が発足し、磯貝さんは市民連合@新潟の共同代表を務めることになりました。 「私は原発事故の前は選挙に行ったこともありませんでした。でも震災後、娘たちの安全を守りたい一心で学び始め、いろいろな社会問題にも目が向くようになり、黙っていられなくなってきて。全ての子どもたち、新しい世代の人たちが安心できる世界にしたいという思いが、どんどん強まっていきました。 新潟で流れる柏崎刈羽原発のCMを見て、その反対運動にも関わるようになっていました。安保関連法のときは、私と同じように、それまで政治に目を向けていなかった人たちもたくさん声を上げた。すごく心強くて、こうして立ち上がっていくことで何かが変わる、変われる気がしていました。 […] 進学で上京する娘がくれた手紙 […] 「ママ、18年間ありがとう。毎日かかさずお弁当を作ってくれて、放射能から守るために避難してくれて、やっと今になって本当に感謝しています。空気を気にしないで沢山走って、遊んで、ママのおかげで成長できました。選挙でママが勝つと思うよ。今まで頑張ってきた努力やママの想いが伝わりますように」 […] 起きてしまった事故は磯貝さんの罪ではないのに、なぜそこまで自分で背負うのでしょう。 「すごく期待していたんだと思います。助けようと思えば助けられる人たちがいたであろうに、政府とか、財界とか、どこでもいいですよ、例えばなぜ急いで子どもたちだけでも避難させなかったのか。 私は期待していたんです。いつ始まるんだろう、いつ起こるんだろうと思っていたけど、待てど暮らせどそんなことはなくて、結局、みんなが我慢したり、自分たちの力で何とかするということになって、今に至っているわけですよね。 私も黙っていたけど、それは逃げだった。そのしわ寄せは子どもたちがくらってしまう。だから自分で行動しようと決めたんです。 洗い物をしてひび割れた手で議会に行って、夕飯の献立も考えながら政治のことも考えられる、そういう人がいないと、いつまでたっても私たちにとって政治は遠いものです。頭が悪くてもいい、間違えてもいいから、ワカメの味噌汁を作りながら政治を変えていかないと、と」 […] 全文

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「この花、触っていい?」 福島の子に揺さぶられた心 via 朝日新聞

 札幌市議を3期務めた山口たかさん(71)が、「福島の子どもたちを守る会・北海道」を仲間たちと設立したのは、震災から3カ月後の2011年6月11日だった。「福島」にこだわったのには理由がある。  1980年代、高レベル放射性廃棄物処分場や原発の反対運動に参加した。折しもチェルノブイリ原発の事故が起き、反原発のうねりは一時的に高まったが、心のどこかで思っていた。日本では、こんなひどい事故は起きないだろう、と。  震災直後、札幌で市民運動に関わる人たちで被災地支援について話し合ったが、原発事故については原発の是非も絡むため、タブーのような雰囲気だった。「それなら逆にやらなきゃ。大事故はないと思っていたことへの贖罪(しょくざい)の意味もありました」 自身を含め、女性4人が活動の中心になった。元国連職員の泉かおりさん、福島県天栄村から避難してきた元養護教諭の矢内幸子さんと、娘の怜さん。放射線量が高く外で遊べない福島の子どもたちに、北海道で伸び伸び過ごしてもらおうと、夏休みに親子の「サマーキャンプ」を計画した。  初回のキャンプには約40人が参加。草原や花畑を駆け回る子たちが、お母さんに尋ねるのを聞いた。「この花、触っていい?」「この草は大丈夫?」。だめだめ、と言われ続けてきたのだろう。戻ればまた、花に触れることもかなわない日常が待っている――。山口さんは、心を揺さぶられる思いだった。  その後、夏と春の年2回、期間を決めて親子を受け入れ、寝食を共にする自分たちの活動を「保養」と呼ぶようになった。夏は海水浴、春は雪遊びやスキーが人気のプログラムだ。  震災翌年、会の仲間と訪れたドイツで、チェルノブイリの子たちを招く活動を続ける女性グループと会った。そこで教わったのが、被災者の選択肢は「地元に残るか、避難か」だけでなく、保養が第3の道になり得るということだった。  14年には札幌市南区に空き家を借り、自前の保養施設「かおりの郷(さと)」を設けた。前年春に志半ばで亡くなった、泉かおりさんの名前をもらった。  福島市の高校生、渋谷睦月(むつき)さん(17)は、小学3年生の時から何度も保養に参加したひとり。「ボランティアの皆さんが家族のように接してくれた」。一緒に参加した小さな子と過ごしたことがきっかけで、保育士が将来の目標になった。  ただ、山口さんのもとには、「年がたつほど、地元で原発や放射能のことを話題にしにくくなった」との母親たちの声も届く。安全に対する考え方の違いから、被災者が分断されることを心配する。  延べ800人以上を受け入れてきた保養のニーズは、今も根強い。会はNPO法人となり、山口さんは理事長を担う。「10年が区切りと思ってきたが、復興は道半ば。もうちょっと頑張りたい」 取材後記 様々な選択 尊重される社会を  「縮む福島」という見出しの記事が、震災の約4カ月後、朝日新聞1面に載った。県外避難が止まらないことなどを伝える記事の見出しは、当時の福島の実情を的確に言い表していたと思う。  私は福島から何を伝えるかを記者と話し合い、方向性を決めるデスクとして、縮む福島で暮らし続ける人々の声を届けたいと取り組んだ。県外避難はもちろん自由だが、さまざまな事情で避難できない人、自らの意思でとどまる人がいたからだ。地元民として耳を澄ますと、放射線の危険を訴える「反原発」の主張が、「嫌福島」に聞こえてしまうことがつらかった。  今回の取材で「守る会」の思いやりへの感謝を、何人もの保護者から聞いた。受け入れ、受け入れられ、心を通わせ合う営みは、どんな選択も尊重される社会につながると信じる。(片山健志) 原文

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産学官民で浜通り復興 福島の教育機関など連携組織を設立 via 河北新報

東京電力福島第1原発事故からの復興を地域の経済発展に結び付けようと、福島県浜通り地方の教育機関や民間企業などが6日、産学官民の連携組織を設立した。放射性物質による環境汚染から脱し、繁栄した米国ハンフォード地域の取り組みをモデルに、地元企業や人材の育成などに力を入れる。  名称は「福島浜通りトライデック」。ワシントン州ハンフォード地域の発展に貢献した非営利団体「トライデック」にならった。地元の大学や企業、NPO法人などの43人が設立メンバーとして名を連ねた。  軍事用プルトニウム精製によって放射能に汚染されたハンフォード地域は、環境浄化の過程で多くの研究機関や関連企業が集積。雇用や生活環境が充実し、復活した。関係機関の利害調整や地元要望の取りまとめを担ったのがトライデックだった。  浜通りトライデックは米トライデックの知見を参考に、草の根レベルから被災地域の復興に関する提案や情報発信をする。今後の復興を担う若い世代の人材育成も柱。地域に呼び込むための新たな魅力づくりに取り組み、復興を加速させたい考えだ。  具体的な活動を展開する七つの委員会を設けた。廃炉作業や福島イノベーション・コースト構想、国際教育研究拠点といった大きなプロジェクトとの接点を探り、地元に経済効果をもたらす復興の枠組みの構築を目指す。  ハンフォード地域の現地調査や現地の大学や短大との交流事業も計画する。今後は農業や観光、環境といった分野も調査・研究対象として検討する。 (略) 専務理事に就いた同大の中村隆行副学長は「自分たちの運命は自分たちで決める思いだ。浜通りの発展に結び付く草の根の意見、提言を出していきたい」と話した。 全文は産学官民で浜通り復興 福島の教育機関など連携組織を設立

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原子力災害伝承館、被災者「教訓分からぬ」批判 半年待たず展示替え via 毎日新聞

東京電力福島第1原発の北4キロ。海沿いに全面ガラス張りの真新しい建物がある。東日本大震災と原発事故の記録と教訓を伝える「東日本大震災・原子力災害伝承館」(福島県双葉町、3階建て延べ約5200平方メートル)。整備費を含めた総事業費53億円は国費で賄われ、県が2020年9月にオープンさせた。だが、半年を待たずに異例の展示替えが始まった。  「教訓が分からなかった」「何を伝えたいのかよく分からない」  ロビーのノートには、来館者の厳しい声が書き込まれている。伝承館によると、2月末までに訪れたのは約3万7000人。修学旅行生ら県外客からは「事故の様子がよく分かった」とおおむね好評だが、福島の事情を知る県内客や被災者からは批判が多かった。 伝承館を運営するのは、県が設立した公益財団法人。展示内容を決めたのは県だ。不満が噴出した理由は、国会事故調査委員会などが「人災」と結論づけた原発事故について、国や東電、県の責任に関する言及がほぼなかったからだ。例えば放射性物質の拡散方向を予測する「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」について、データが政府から届きながら県が削除して市町村に伝えず、放射線量の高い方向へ住民を避難誘導した自治体があることにも触れなかった。「SPEEDIの取り扱いを明確に定めたものはなく、情報を共有できませんでした」と説明するだけだった。  やまぬ批判を受け、県は2日、年度内に約30カ所で資料の追加や展示パネルの差し替えをすると発表。翌日には追加した展示を始め、SPEEDIの不手際も政府事故調の報告を基に明らかにしている。通常、博物館などの常設展は数年維持されるため、変更は珍しい措置だ。 (略) 県幹部らへの取材を進めると、「復興五輪」を掲げる東京オリンピック・パラリンピックが予定されていた20年中の開館を急ぐなか、当たり障りのない展示に落ち着いた実態が浮かんだ。【竹内良和、高橋隆輔】 全文は原子力災害伝承館、被災者「教訓分からぬ」批判 半年待たず展示替え

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