Tag Archives: 反原発

原発は「グリーンエネルギー」と言えるか?「脱原発vs原発回帰」でEU分裂 via Newsweek 日本版

ゾーエ・ストロズースキ <脱炭素の過程における原子力発電を認めるか否かで、ドイツとフランスなど方針が異なる国同士でEUが割れている> EUの欧州委員会は1月1日、脱炭素化への過程で原発を「グリーンエネルギー」に認定し活用する方針を発表したが、EU内は支持と不支持で割れている。脱原発を掲げるドイツは反対し、2045年までに温室効果ガスの実質排出ゼロを目指すための「つなぎ」の電源としては天然ガスを重視すると強調した。 EU諸国の中ではオーストリアとルクセンブルクも原発に反対しているが、チェコやフィンランド、フランスは化石燃料から脱却するには原発が不可欠だと考えている。ドイツは昨年12月末に国内に残る6基の原発のうち3基を停止。今年末までに残る3基を停止する予定 続きは原発は「グリーンエネルギー」と言えるか?「脱原発vs原発回帰」でEU分裂

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「脱原発」叫び強くなれた 写真家・亀山ののこさん 「黙っていることがスマート?ちっともそう思わない」 via 東京新聞

◆初めは恥ずかしくて声が出なかった  2013年7月7日、七夕に合わせて各地の母親らが脱原発を願う集会が東京・永田町の官邸前で開かれた。次々とマイクを握る参加者。取材に来たメディアのカメラが周りを囲むなか、福岡県糸島市の写真家、亀山ののこさん(45)の順番が回ってきた。「私たちは黙っていることができません」 初めて脱原発デモに参加したのは東京から福岡に引っ越して間もない11年9月。でも、恥ずかしくて声が出なかった。2度目の参加で思い切って「原発反対」と叫んだ。「思ったことを声に出すのがこんなに自分を力強くさせるとは思わなかった」と振り返る。 11年3月に東京電力福島第一原発事故が起きた。最初は原発のことを知らなかったから、恐怖はなかった。しかし、情報を集めるにつれて危険性を知り、「子どもを守るため原発はいらないと発信しよう」と決意した。仕事が減るのは覚悟の上。原発に反対する母親と子どもの姿を、4月から撮り始めた。 後に写真集「100人の母たち」にまとめられた作品に登場する母親たちは、みな優しい表情。作品には命を守りたいという思いがあふれる。 […] ◆安保法制、憲法9条、水俣病…撮りたかったのは「尊厳」  「100人の母たち」の出版後は、全国で写真展を開き、脱原発を訴えた。特定秘密保護法や集団的自衛権を認める安保法制に反対するデモに加わり、憲法9条をテーマにした写真集「9」も出し、活動の幅を広げ続けている。 脱原発デモで知り合った水俣病の患者や支援者らとの交流も続いた。水俣病の公式確認から半世紀以上たっても認定されず、行政から切り捨てられても尊厳回復のため訴訟を続けている人たちの姿は「私が撮りたかったのも『尊厳』だったんだ」と気付かせてくれた。 声を上げても思い描く社会に近づかない、もどかしさはある。「私の取り組みは世の中のガス抜きにしかなってないのかなという思いは、頭のどこかにある」 […] 19年に、デモなどを通じて知り合った仲間と社会課題を学び合う場として「糸島デモクラシー塾」を始めた。月1回ほど集まり、原発や水俣病、慰安婦問題、在日アジア人差別を巡る問題など、それぞれが関心のあるテーマを語り合っている。 「黙っていることが穏やかでスマートみたいな空気が日本社会にあるが、ちっともそう思わない。必要な時に声を上げることは次世代のため、自分のため、生きているからこそだと思う」(加藤益丈) 全文

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川内原発1号機の再稼働から6年 反原発の市民団体が集会 鹿児島・薩摩川内市 via FNN プライムオンライン

(略) 抗議集会を開いたのは、反原発の市民団体「ストップ川内原発!3.11鹿児島実行委員会」のメンバー約50人です。 福島第一原発の事故以降、2015年に再稼働した川内原発は、1号機が2024年7月に、2号機が2025年11月に40年の運転期限を迎えます。 九州電力では、20年の運転延長に必要な特別点検を実施する考えを示していて、集会の参加者は運転延長に反対の意思を示していました。 川内原発!3.11鹿児島実行委員会 向原祥隆共同代表 「九電、国は20年延長を考えているようだがこの川内原発はまもなく寿命で、20年延長なんかとんでもないということを訴えていきたい」 全文は川内原発1号機の再稼働から6年 反原発の市民団体が集会 鹿児島・薩摩川内市

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「この花、触っていい?」 福島の子に揺さぶられた心 via 朝日新聞

 札幌市議を3期務めた山口たかさん(71)が、「福島の子どもたちを守る会・北海道」を仲間たちと設立したのは、震災から3カ月後の2011年6月11日だった。「福島」にこだわったのには理由がある。  1980年代、高レベル放射性廃棄物処分場や原発の反対運動に参加した。折しもチェルノブイリ原発の事故が起き、反原発のうねりは一時的に高まったが、心のどこかで思っていた。日本では、こんなひどい事故は起きないだろう、と。  震災直後、札幌で市民運動に関わる人たちで被災地支援について話し合ったが、原発事故については原発の是非も絡むため、タブーのような雰囲気だった。「それなら逆にやらなきゃ。大事故はないと思っていたことへの贖罪(しょくざい)の意味もありました」 自身を含め、女性4人が活動の中心になった。元国連職員の泉かおりさん、福島県天栄村から避難してきた元養護教諭の矢内幸子さんと、娘の怜さん。放射線量が高く外で遊べない福島の子どもたちに、北海道で伸び伸び過ごしてもらおうと、夏休みに親子の「サマーキャンプ」を計画した。  初回のキャンプには約40人が参加。草原や花畑を駆け回る子たちが、お母さんに尋ねるのを聞いた。「この花、触っていい?」「この草は大丈夫?」。だめだめ、と言われ続けてきたのだろう。戻ればまた、花に触れることもかなわない日常が待っている――。山口さんは、心を揺さぶられる思いだった。  その後、夏と春の年2回、期間を決めて親子を受け入れ、寝食を共にする自分たちの活動を「保養」と呼ぶようになった。夏は海水浴、春は雪遊びやスキーが人気のプログラムだ。  震災翌年、会の仲間と訪れたドイツで、チェルノブイリの子たちを招く活動を続ける女性グループと会った。そこで教わったのが、被災者の選択肢は「地元に残るか、避難か」だけでなく、保養が第3の道になり得るということだった。  14年には札幌市南区に空き家を借り、自前の保養施設「かおりの郷(さと)」を設けた。前年春に志半ばで亡くなった、泉かおりさんの名前をもらった。  福島市の高校生、渋谷睦月(むつき)さん(17)は、小学3年生の時から何度も保養に参加したひとり。「ボランティアの皆さんが家族のように接してくれた」。一緒に参加した小さな子と過ごしたことがきっかけで、保育士が将来の目標になった。  ただ、山口さんのもとには、「年がたつほど、地元で原発や放射能のことを話題にしにくくなった」との母親たちの声も届く。安全に対する考え方の違いから、被災者が分断されることを心配する。  延べ800人以上を受け入れてきた保養のニーズは、今も根強い。会はNPO法人となり、山口さんは理事長を担う。「10年が区切りと思ってきたが、復興は道半ば。もうちょっと頑張りたい」 取材後記 様々な選択 尊重される社会を  「縮む福島」という見出しの記事が、震災の約4カ月後、朝日新聞1面に載った。県外避難が止まらないことなどを伝える記事の見出しは、当時の福島の実情を的確に言い表していたと思う。  私は福島から何を伝えるかを記者と話し合い、方向性を決めるデスクとして、縮む福島で暮らし続ける人々の声を届けたいと取り組んだ。県外避難はもちろん自由だが、さまざまな事情で避難できない人、自らの意思でとどまる人がいたからだ。地元民として耳を澄ますと、放射線の危険を訴える「反原発」の主張が、「嫌福島」に聞こえてしまうことがつらかった。  今回の取材で「守る会」の思いやりへの感謝を、何人もの保護者から聞いた。受け入れ、受け入れられ、心を通わせ合う営みは、どんな選択も尊重される社会につながると信じる。(片山健志) 原文

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原発の再稼働反対、90回目デモで訴え 大津で90人行進 via 中日新聞

原発の再稼働反対や廃炉を訴えるデモ行動「脱原発 市民ウオークin滋賀」が二十九日、大津市のJR膳所駅前などであった。  二〇一一年の東京電力福島第一原発事故を受けて、有志らが同年の五月から毎月開催していて、今回で九十回目となる。  市民ら約九十人が集まり 続きは[要登録]原発の再稼働反対、90回目デモで訴え 大津で90人行進

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原発漫画 ファンタジー風、子供たちに説明 福岡の母親が出版 via 毎日新聞

 福岡市に暮らす3人の子供の母親、ちづよさん(45)が今月、原子力発電所の仕組みやリスクをファンタジー仕立てで説明する漫画「ゲンパッチー 原発のおはなし☆子どもたちへのメッセージ」を石風社(福岡市)から出版した。東京電力福島第1原発事故をきっかけに、ちづよさんがこれまで学んだエネルギー問題の知識と原発反対の思いを盛り込んだ。 (略)  「反原発事務所や九電のチラシは詳しいが、読むのは大人でも難しい」と感じていたちづよさんは2年半前、元々得意だった漫画で自ら原発を描こうと決意。元京都大原子炉実験所助教の小出裕章さんら専門家の話を聞き、世界の核被害を取材するフォトジャーナリスト、豊崎博光さんの著書を読むなどして、制作に取り組んだ。 完成した漫画は、折り鶴に乗って3人の少女が原子力発電所「ゲンパッチー」を見学に行くストーリー。高速増殖炉や高レベル放射性廃棄物、最終処分場問題などをユーモラスに説明し、これまで世界で発生した原発事故についても描いた。「深刻だが、子供でも関心を持って読める物語にしたかった」とちづよさんは振り返る。 小出さんが「原子力発電を使ってしまう限り、自分では無毒化できない死の灰という毒物を大量に生み出す」と解説を寄せた。A5判上製で304ページ(税別1500円)。【松田幸三】 全文は原発漫画 ファンタジー風、子供たちに説明 福岡の母親が出版

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ドキュメンタリー映画 原発に頼らない地域へ 模索する男性の姿、映画に シネ・ヌーヴォで31日から /大阪 via 毎日新聞

岡崎まゆみ監督作 原発が建っている地域で、経済的な自立を目指して観賞用の植物を育て続ける男性と家族の姿をとらえたドキュメンタリー映画「40年 紅どうだん咲く村で」が31日、大阪市西区九条1のシネ・ヌーヴォで封切られる。9月20日まで。監督の岡崎まゆみさんは大阪市在住。東京電力福島第1原発事故の惨状を見て、「原発を知るために西の原発集中地域・福井県を訪れ、話を聞いて回った」と語っている。【大島秀利】 舞台は関西電力美浜原発1~3号機が稼働していた福井県美浜町。その山間部の新庄地区出身の松下照幸さんは、原発に疑問は持っていたが、原発に頼る町の人々の中で表立って声を出すことはなかった。 ところが、1991年2月、美浜2号機で熱交換器の細管が破断する事故が発生した。「日本では起こらない」と宣伝されていた事故だった。このとき、松下さんは妻、小学生の娘と一緒に夜こっそりと、原発の危険性を訴えるビラ200枚を集落各戸の郵便受けに初めて入れた。昼になって驚いた。70歳代だった松下さんの母が、集落の大通り沿いに座って「これ読んでください」と公然と配り出したからだ。信頼されていると感じ、勇気を与えられた。 (略) 松下さんは2001年、一念発起して勤めていたNTTを退職し翌年、紅ドウダンツツジの栽培・販売と野外活動施設・キャンプ場の運営を担う「森と暮らすどんぐり倶楽部(くらぶ)」を発足させた。 原発経済はゆるがないかのようにも見えたが、11年3月、福島原発事故が起きて放射性物質による汚染で福島県の広大な地域で住民が避難を余儀なくされた。 原発廃止を目指すが、「原発がなくなれば、周囲の人の職がなくなる。代わりに別の雇用を考える必要がある」と、地域のことを思い必死に模索する松下さんの姿が映し出される。 現在71歳で、町議も務める松下さんは二つのことを言う。 「40年負け続けた」 「40年負けなかった」 前者は、いくら原発に代わる政策を訴えても、今日に至るまで行政に受け入れられなかったこと。後者は、圧倒的な“原子力ムラ”の中で、原発に反対することをやめなかったことを指し、「それが誇り」と言う。 (略)  102分。シネ・ヌーヴォ(06・6582・1416)での上映は、31日~9月6日=午前11時~▽7~13日=午後3時50分~▽14~20日=午後1時5分~。一般1700円、学生・60歳以上1100円。 全文はドキュメンタリー映画 原発に頼らない地域へ 模索する男性の姿、映画に シネ・ヌーヴォで31日から /大阪

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芦浜原発反対運動を回顧 市民団体が冊子、選挙戦も取り上げ via 中日新聞

県内での原発建設計画を阻止した反対運動をまとめた冊子「熊野灘そして芦浜」を、市民団体「原発なくせ三重県民会議」が発行した。町議選などの地方自治の動きと反対運動のつながりも伝え、代表世話人の唐沢克昭さん(75)=四日市市在住=は「政治とは無関係に、原発は推進も阻止もできない」と話している。 原発なくせ三重県民会議は、福島第一原発事故を受け、二〇一二年に発足。前身は「原発反対三重県民会議」で、南伊勢町(旧南島町)と大紀町(旧紀勢町)にまたがる地域に芦浜原発を建設する計画が白紙になる二〇〇〇年まで、反対運動を展開した。 冊子では、中部電力が熊野灘沿岸への原発建設計画を発表した一九六三年からの歴史を振り返っている。計画発表当時は共産党の町議がいなかった南島町を舞台に、初議席獲得に向けた選挙戦や当選後の反対運動も取り上げた。反対運動に携わった人たちへのインタビューや、福島第一原発事故後に県内で行った脱原発の活動も収録した。 (略) A4判百八ページで、千冊発行した。一冊五百円(送料別)で販売する。(問)唐沢さん=090(2262)4155 (吉川翔大) 全文は芦浜原発反対運動を回顧 市民団体が冊子、選挙戦も取り上げ

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原発の危険訴え 「はんげんぱつ新聞」創刊40年 via 毎日新聞

原発に反対する各地の活動や、原発に絡むさまざまなデータを伝える「はんげんぱつ新聞」が今月、創刊から40年を迎えた。B4判4ページの小さな月刊紙だが、30年にわたって編集長を務める西尾漠さん(71)は「原発に反対する人にとって、情報交換や必要な知識を得る場になってきた」と振り返る。【安高晋】  創刊は1978年5月。その4年前、原発をつくる自治体に国が交付金を出す制度ができた。「国が原発推進の前面に出るようになった。各地で別々に反対の声を上げていた住民から、仲間が必要という声が上がった」ときっかけを語る。 西尾さんはもともと広告制作会社で勤務していたが「大手の広告会社が原発反対運動に関わる住民の人脈図を…     原文

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伊方原発「死ぬまで反対」貫いた広野さんの資料、保存へvia 朝日新聞

伊方原発(愛媛県伊方町)の敷地に食い込むように、四国電力に売却されなかった「畑」がある。いまは森になった。地主の男性は2005年に92歳で亡くなるまで原発反対を訴え続け、千点を超える資料をのこした。原発の建設が地元に与えた影響を物語る貴重な記録として、研究者らが保存に乗り出した。 伊方1号機の原子炉建屋の南約800メートル。瀬戸内海に滑り落ちそうな斜面の中ほどに、敷地と隔てる柵で囲まれた約1600平方メートルの森がある。農家だった広野房一(ふさいち)さんが四電に売らなかった畑で、今は親族が受け継いでいる。 […] 広野さんは、大学ノートに売買をめぐる生々しい声を書きとめていた。売買契約がまとまる直前の70年3月22日夜、地主たちと原発反対派住民が話し合った。「強引に仮契約の調印を強要され……」「害がないからと云(い)ふ事で調印に応じた」などと、地主の名前と発言が並ぶ。広野さんは拒否を貫いたが、以降も地主の切り崩しは続き、一人またひとりと手放した。 広野さんのノートは、原発の建設計画判明時の「壱号」から計16冊。反対署名の数から集会用マイクの電池代まで、32年間の出来事が丁寧に記されている。 だが筆跡が乱れる時もあった。77年1月に伊方1号機が初臨界した後の3月25日の記述は怒りがにじむ。 人類消滅之(へ)の道をたどる一里塚 長崎 広島の原爆投下は一瞬の出来事であった 思い起せよ 同胞よ、伊方の住民よ 広野さんは広島原爆のキノコ雲を目撃した。その光景と「原子力の平和利用」は相いれなかった。近隣の反原発団体が合流した「伊方原発反対八西連絡協議会」や伊方1、2号機の設置許可取り消し訴訟原告団の中心的存在となっていく。 ノートの記録も忙しさを反映し、地元の集会や裁判の打ち合わせ、町長らとの面談内容、関連する新聞記事の書き写しなど多岐にわたる。視力が衰えてきても、濃い罫線(けいせん)を引いてまっすぐに文字を書き続けた。しかし01年、「総論」と題した強い筆圧の文章で唐突に終わる。前年12月、提訴から22年半後に出た伊方2号機をめぐる松山地裁判決は、安全審査時の活断層の判断の誤りを認めながら、設置許可を取り消さなかった。 全く驚きの一語につきる これが法治国家と云(い)えるだろうか 何(いず)れにしても原発絶対反対(司法愚政に属せど民意滅びず) 以上 全文

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