震災10年、東京消防庁元トップら検証
東京消防庁が東日本大震災で事故を起こした東京電力福島第1原発へ冷却用の放水部隊を派遣した際、消防総監だった新井雄治氏(69)は「犠牲者が出てもやらなければならない」と考え、出動を命じていたことが分かった。
震災発生から3月で10年となるのを前に、元幹部らが当時の活動内容について検討会を開き、未曽有の危機対応を迫られた経験を記録文書にまとめた。
検討会は、新井氏が呼び掛け、震災時の作戦室長や現地派遣部隊の元幹部ら約10人が有志で集まり、昨年7~12月に計5回実施された。とりまとめた記録は東京消防庁に提供されている。
2011年3月11日、第1原発は電源を喪失して冷却不能状態になり、12日には1号機が水素爆発を起こした。記録によると、当初は「なんとなく無縁な事象」「地方消防機関の任務ではない」という認識が大勢で、危機意識は高くなかった。その後も4号機の水素爆発など、状況の悪化が伝わるにつれて「対応がうまくいっていない。あるかもしれない」と出動の可能性を感じ始めたとしている。
総務省消防庁長官から現地への派遣要請があったのは18日未明で、このころには、被ばく放射線量を抑えるため短時間で放水の仕組みを構築する事前訓練を済ませていた。専門的な救助技術を持つハイパーレスキュー隊などの139人が放水車と共に出発したのは同日午前3時20分で、当時の救助課長は「隊員を突入させることは、善しあしで考えてはいけない状況まで来たのではないかと感じた」と振り返る。
部隊は18日午後5時ごろ、第1原発に到着したものの、装備面の不具合があり、いったん引き揚げた。しかし、本庁は即座に再出動を指示。翌日を待たずに危険を伴う夜間の活動を強行することに、現場にいた当時の警防部副参事は「あまりにも意外」と驚き、派遣前に聞いていた話よりも事態は切迫していると実感した。
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