▽欠かせぬ長期解析
原爆のさく裂時に大量の放射線を浴びてはいない「黒い雨」の経験者や入市被爆者も、健康被害を訴えているのはなぜなのか。長年、放射性物質を体内に取り込む内部被曝(ばく)の可能性が指摘されながら、体に影響を与える仕組みの解明は進んでいなかった。その一端に迫る研究が、ようやく始まっている。
■初の成果を発表
ラットの肺の顕微鏡写真に、黒く変色した箇所が見える。「組織が壊死(えし)した部分です」と、分析した長崎大の七條和子助教は解説する。広島大の星正治名誉教授たち日本、カザフスタン、ロシアの研究者による共同研究の一環。内部被曝による細胞の損傷を初めて具体的に捉えた成果として、昨年6月に論文として発表した。
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マンガンは土壌や昔の民家の土壁に多く含まれる。原爆のさく裂時に放射能を帯びて大量に舞い上がり、ほこりや雨などの形で人間の体内に取り込まれたと考えられている。半減期は2・6時間。短時間で放射線をほとんど出さなくなるため、その痕跡を後から調べるのは難しかった。七條助教は「肺に沈着した微粒子の場所を特定し、その周りの細胞の損傷を確認できた意義は大きい」と話す。
被爆の健康影響はこれまで、放射線影響研究所(放影研、広島市南区)の大規模調査などを通して、直接浴びた放射線の量を基本に研究が積み重ねられてきた。国際放射線防護委員会(ICRP)が示す防護基準も、放影研のデータが基礎となっている。
人間が放射線を浴びた場合、肺に確実に急性症状が出るのは、8グレイ以上という致死量を浴びた場合に限られるとされる。これに対し、実験で内部被曝させたラットの肺の被曝線量は計算上、肺全体では0・1グレイほど。七條助教たちは、微粒子の周りの狭い範囲で極めて高い線量の被曝をしたために、細胞が損傷したとみている。今後、小腸や大腸の分析も進めるという。
この実験について、京都大複合原子力科学研究所の今中哲二研究員は「臓器全体が均一に被曝する前提に立つ現行の計算モデルでは内部被曝の影響を捉えきれない、との可能性を示す知見だ」と評価する。
■研究環境に課題
慎重な見方もある。放射線病理学が専門の東北大の福本学名誉教授は「重要な実験だが、マンガン自体の毒性という可能性も排除しきれない。変化の原因は何か、さらに精密な解析を期待したい」とする。局所的な内部被曝が長期的ながん発生にどうつながっていくのかを解明することも、今後の課題とみる。
七條助教は内部被曝の解明を「ライフワーク」と語るが、こうした研究は広がりにくいのが実情だ。低線量被曝などを研究する大阪大の本行忠志名誉教授は、研究者の任期付き雇用の増加などを懸念する。「放射線の生物への影響を調べるには長期の観察が欠かせないが、短期的な成果を求められる環境では取り組みづらい。若い研究者への支援や、公的な研究機関による本腰を入れた研究環境の整備が必要だ」と訴える。
3歳で「黒い雨」を浴びた佐伯信子さん(78)=広島市安佐北区=は、2歳下の妹行子さんを2年後に亡くした。自身も母もがんを患ったが、「科学的根拠」の不足を理由に国から健康被害を否定されるたび「今更どうにもならないのか」と思う。直接被爆だけではない原爆被害の実態を「空白」で終わらせないため、「被爆国」を掲げる政府の被害解明への本気も問われている。(明知隼二)